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「砂漠より」連載開始

人は誰しも生涯で一編は長編小説を書くことができる、と言います。

自分の実体験を基にすれば、長編小説を構成するだけの題材を得ることができるのだと。

そんなことを考えたのか、考えなかったのか、いまではもう覚えてませんが、わたしがこれまで書いてきた中で最長の文章、最長の物語が、この「砂漠より」です。

この話では、実体験を基に、あり得たかもしれないもう一つの人生を物語っています。なので、徐々に嘘が増えていって、後半部に至ってはほとんどがフィクションになってます。

小説なのか、エッセイなのか、判断に悩むところですが、「わたし」という人格をキャラクターとして相対化して描いているという意味では小説的であるとも言えますし、話の筋よりも「わたし」の感慨や思想に重きを置いているという点ではエッセイ的であるとも言えます。

半生を物語ってはいるのですが、ドラマとしての連続性は乏しく、「わたし」の独白を主体とした短いエピソードを連ねていく構成になっています。作中で言及される『人間失格』よりは『地下室の手記』の方がまだ近い気がします。「砂漠」という表現も「地下」からインスパイアされたものですし。

この話を書いたのは、まだ創作歴が1年にも満たない頃のことです。元々は、実体験を基にした短編小説として構想していたのですが、どうあがいても小説としておもしろいものにするのが難しい気がして、居直るようにして疑似自叙伝という形でブログに掲載をはじめました。

奇しくも、いまちょうど、別のエッセイで長編小説を書く難しさを語っているところです。

長編小説には「多元的なロジックが有機的に結びつき独自の強度を持っていること」が求められる――

「砂漠より」がその条件を満たせているとはとても思えません。ここで語られる「ロジック」はどこまでも一元的です。「わたし」という人物の思想、人格。それ以外のものは何もありません。その他のキャラクターや、社会のありようはほとんど描かれません。

しかし、それこそが「砂漠より」の主題でもあるのです。社会から断絶された個がいかな妄執を育て、人生を歪ませていくか。その過程を描いたのがこの話です。そこに一定の強度が備わっているなら、この話はわたしの中で成功したことになります。

そんなものを誰が読みたいんだ、という指摘は尤もです。小説としての興趣を捨て、疑似自叙伝と居直ったのは先述の通りです。エンタメというにはもてなしの心に欠け、文学というには豊かさに欠けます。

そんなものを、誰が。

それでも、とわたしは思います。この話には掛け値なしに等身大の人生が描かれている、と。

わたしがしばしば少年犯罪の加害少年たちに共感するのは、彼らに等身大の人格を感じるからです。何かすごいことを成し遂げて有名になったわけではない。むしろ、孤独から歪み、あってはならない形で社会に爪痕を残してしまった少年たち。そんな彼らだからこそ、わたしは痛いほど共感を覚えるのです。

犯罪以外の形ではきっと世に知られることはなかったろう彼ら、本来なら埋もれていたはずの孤独な魂のありよう。それに光を当てるべくもがいたのがこの話です。

貧しさを小説へと昇華すること。

これはいまでも変わらずわたしの創作における主題です。

「砂漠より」はその貧しさと真っ向から向き合った最初の話です。小説として見るなら歪で、昇華は十分になされていないことでしょう。それでも、人の心を動かすだけの何かはあるものと自負しています。

長々と語ってしまいました。

この記事を読んで多少なりとも興味を持っていただけたなら、本編を読んでいただけると幸いです。

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