「たてごと♪さんの、ことばノート。」に移しました。
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こんにちは、たてごと♪ です。
文章、特に物語の記述において、「一人称」あるいは「三人称」との記述方式が存在することは、まあよく知られていることではありますが。
恥ずかしながら僕はかつて、このうち「三人称」について、およそ三人ほどの人物からの視点で語る方式、つまり複数の「一人称」を織り交ぜて記述する方式だと勘違いしてた時期がありました。
では本来の「三人称」はどう呼ばれるのかと思っていたかと言えばまあ、その別称である「神の視点」ですけど、それはまた別の話で。
そもそも気にくわないんですよ、こういう言葉。
他にも「第三者」という言葉も同様にあって、つまり「一」とは自身、「二」とはその当事の相手、「三」はそれ以外の無関係な対象、って感じの意味が持たせられているわけですけど、
〝読んで字の如く〟
じゃあ全然ないじゃないですかこんなの。
類型として「一枚目・二枚目……」というものもありますし(これは歌舞伎由来で八枚目まであるらしい)、程度を表す「一流・二流・三流」に至ってはなんかもう定義も使われ方もまちまちで、何が何やらです。
基本的に「一・二・三……」などの数詞はそのまま数量を表すもので、その個々は意味を持ちません。
だからこそ、その数量であることに特に意味があるという「単・双・鼎」などの字も存在します。
そうすると、「三人称は一人称の三倍」などという、知っている人からすれば荒唐無稽な解釈も、通るには通ってしまいます。
極端な話をするならこれは、「数字で云ってはいるけど実際には別の意味があるんだよ」という説明を、「そんな根拠なんか無いだろ」と却下されたら対抗ができない、ということにもなってしまう、と。
言葉の曲解による誤用ってやっぱり、そういう所から始まるものじゃあないですか。
正直これ、言葉の作り方どヘタクソかと思います。
言葉っていうのはきちんと伝わらないと困る代物で、しかしながら語弊というものもあるんですよ言葉ってやつには。
だったら、新しい言葉を産み出す場合には、なるべく誤解の起こりづらいように設計をしなきゃマズいと僕は思うんですけども。
でも世間的には、「辞書にそう載ってればそれが全てだ」だの「言葉なんか自由なものなんだからどんな形であれ伝わればそれでいいんだ」などと謂われたりするなど、まあ混沌としたものですよねえ。
伝わらないから困っているんですけどね?
そういうのってどうなんだって言うか、せめて書き手の一端に参画する立場ならそんな無責任は做さずにいたい、とは自分では思います。
ところで僕は、
〝序数として「伶・弌・弍・弎・仕・伍・仂・佚・伐・仇・什・佰・仟・萬」を用いる〟
というルールを(勝手に)作りました。
あるいは中二病めいている、とは受け取られるかもしれません。
でも実際のところ、このルールを通用させると、言語として一定の恩恵があるんですよね。
たとえば掲題の、これらを「弌人称・弍人称・弎人称」と表記したならどうでしょう。
序数とは、数詞のなかでも序列を示すものを言います。
序列が発生するには必ず理由が存在するか、少なくとも理由付けが做されるものです。
実際にも人称のその数字は、人の思考に及ぶその対象の序列でもあります。
だとしたら「自分・相手」など、本来は数詞なんかで表現すべきでないような言葉をあえてそう云うにしても、「そこで登場している数詞は数量以外のところを意味するものである」という説明を言葉自身に主張してもらうことができる、と考えるわけですよ。
いいと思いません?
広めませんか序数表記、便利ですよ序数表記。
──画像は「哲学魔王の【辞書】」第1話より