これが「老人力」というものなのか!
とゆー小ボケはおいといて、最近は「書く」どころか「読む」すらろくにできてませんでした。
やれやれ。
久々に外で呑んで(ぼっち呑み)、勢いでパチンカスでも書こうかなあと思いながら、もうひとつのほうもとっとと終わらせないとなあ、とか悶々と。
追ってる人たち(まあ、そもそもそんな追ってもないんで)のは、完結したのもあるしちゃんと読みたいなあと思いながら、とりあえずふるさと納税どうしようかなあ、というのが目下の悩みです。
絶対やらねーと思ってたPayPayも(元々ソフトバンク民なもので逆に出戻りたくねーなみたいな)、さとふるで20%還元とか見ちゃうとねえ……脱楽天したいのもあるしねえ🤔
て。
小説まったく関係ないですなw
それにしても「純文学」とはなんぞや?という話はそれこそ何十年も前から続いてるわけですが、まあここの性格上仕方ないのだろうけど、よくわからんジャンル小説とか、どこにカテゴリしたらいいかわからないのでとか、「なんか純文学って偉そうじゃない?」みたいなマジでわかってない人みたいのばかりですね。特に自主企画。
でも、その反面、あーこの人は文学の人だなあ、みたいのもいたりしてそれはそれで面白い。
尤も、ラノベですら純文学(大衆文学のカウンターとしての)の方法論とかを導入してたりもするので、なかなか難しい問題だなあ、とは思うわけです。
(五木寛之が『さらばモスクワ愚連隊』で新人賞とったときは、大衆小説に文藝のやり方もっていきやがってとかいわれたらしい)
まあ、文学なんてのは若者がカブれるものであって、歳取ったら時代小説——みたいのもあったりするわけですが、そもそも捕物帳も海外探偵モノの翻案だったりで、要するにジャンル気にせずやりたいことやったらいいんじゃない、大して知識もないくせに「文学とはどーのこーの」みたいな恥ずかしいことさえしなければ、と思いますw
ただ、これは持論だし、本当に言い切っていいのか甚だ怪しいところはあるんですが、本当に言いたいこと伝えたいことがあって書くならエンタメの手法でいったほうが効果的だし、それこそ百閒のいうように「書くべきことがなくなってから書く」のであれば、純文の手法のほうが効果的であるとは思います。書くべきことないのに書き方が下世話なのって、ほんと読む価値ないんだよなあ。
と酔に任せて好き勝手w