エッセイでやるべきか否か悩みましたが、両方に掲載するという暴挙に出ることで解決します。私はそういう人間です。
今年は年明け早々心の休まらない事態に見舞われたりとなんだか忙しない一年でしたが、私は幸か不幸かテレビアンテナというものを新居に置いていないのでニュースから遠ざかる身であり、時々ネットニュースを何サイトか梯子する程度で情報を収集しています。
とはいえマスメディアというものを信用していない人種なので(まあいずれにせよ人間が介在する以上はそれを報道する側のバイアスや利権が絡んだ報道様式になるのが資本主義というものだし)、話半分に聞いて他人事のように「大変なこともあるもんだ。俺は俺で金が価値が失ったとしても生きていけるサバイバル技術を勉強しよう」みたいな、「お前は野生児か」みたいなことを調べて勉強したりしているわけですが(将来は(50くらいになるまでに)貯金をとちょっとした荷物を手に徒歩でひたすら旅してみたいと思っています)。
それはさておき、今年一年私の創作はひどく迷走していたと思います。
「これなら行けそうか? いやいやでも……」という具合に行き当たりばったりという感じで、プロットこそ立てるものの途中で思いつきがそれを破綻させて、本文が瓦解するという感じ。
情けない活動を繰り返していたと反省しています。
おまけに九月〜十月はリアルでひどくバタついた時期で、精神的に変調。加えて逃げるように太宰治の人間失格を読んで悪い意味で強い影響を受け精神不安に陥り、恐慌状態の中アカウントを消し去る暴挙。
逃げ場がどこにもなくて結局すぐ戻ってきたわけですが、その後も創作は上手くいかず、混沌とした渦の中呻きながらああでもないこうでもない、「数字だ、とにかく数字を取らないと俺には価値が見出せない」と焦って、信頼を裏切る行為を繰り返していました。
そんな中、創作仲間で、友人だと言える間柄である斑猫さんから「説教」をされ、そこでようやく自分の「愚」を強く実感し、反省しました。
そしてコメントを返信したのちもしばらく考え、「ではそれに応えるには自分はどうすべきか」「そんなことは決まっている、「一作入魂、哲心一徹」、これにつきる」。
一作入魂も哲心一徹も己の中で作った言葉ですが、それぞれ「その作品に魂を込めて作り上げること」「その哲学を心に持って一徹すること」。
今年はまだこれを目標とすることはできておらず、後半、十二月に入ってからの行動となっていましたが、来年はこれを目標に活動していけたらいいなと思います。
いろいろゴタつく社会で、おそらくは揺り返しというよりは種としての退化のような、ある種、野蛮化みたいな社会性が浮き彫りになるんだろうな、という気はします。SNSの誹謗中傷問題とかみていても集団リンチに加担して人を殺しておきながら、残酷な言葉を打ち込んだその手で我が子の頭を撫でたり、恋人の手を繋いだりするのが現代社会ですから、そんなもんだよな、と。
私は生来のペシミスト――ではありませんが、基本人間というものにそこまで期待はしていないので、幻想の中の妖怪に夢を魅て生きていこうと思います。
無論現実は現実で需要はしますが、誰にも私の宇宙観の邪魔立てはさせません。
我儘に、身勝手に、けれど友人でも創作仲間でもなんでもない他人には無関心なくらいに口出ししないのが、私の宇宙観です。