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「群れ」の考察

 花の季節がやってきた。菜の花、桜、チューリップ、今年も例年と違わず、どの花にも人が集まり、その花を愛でる様子がニュースとして扱われてきた。いや。ここ数年はコロナで外出が抑制的だったため、それを取り戻すかのような人の多さであった。少し落ち着いた今は花水木や躑躅が咲き始めている。一年で最も美しい季節である。
 お花畑、と言う言葉は「花の群れ」の事である。花は群れが望ましい。少なくとも同じ植物が群れで存在している状況を気味が悪いとは思わない(花粉を振り蒔いている杉の動画だけは例外だが)
 一方で「脚のある物」の群れというのは余り気味の良いものではない。
 何かに虫がびっしりと集まっていたら殆どの人が気味悪がるだろう。子供の頃にクワガタムシを捕りに行ったクヌギの木にコックローチがびっしりと集っていて腰を抜かしかけたことがある。最近も蟹が産卵のために山から水辺へと集団で降りていく風景をテレビで見たことがあるが、その生態には興味があるものの、やはり薄気味悪かった。もっと大きな生物だとアフリカで水を求めて移動するヌーの群れも近くで見ると壮観だが、空撮で見ると同じようなものである。群れの動物や昆虫が悍ましく思えるのは、その存在に危険を感じるからであろう。ヒッチコックが撮った「鳥」という映画も「群れ」の恐ろしさを描いた物だった。(魚の群れがさほど嫌悪感を覚えさせないのは、我々が水中で生活していないからだろう)
 その美しい「花の群れ」と不気味な「人の群れ」が合体するのが花見である。
観桜というのは平安の御代から始まった行事であるが(それ以前は観梅であったらしいが)はじめの頃は貴族の雅な行事であったのだろう。まあ、貴族などは数が知れているので、いくらその当時の大都市であった京都と雖も今ほどの人が花見に出掛けたわけでもあるまい。
 しかし、今の時代、猫も杓子も日本人も外国人も花見に出掛けるわけで、トータルをすれば花の数も負けんばかりの人出である。今年は自分も河津桜をわざわざ見に出掛けたし、例年通り目黒川沿いやかむろ坂の花を愛でたわけで人のことを言える立場にはない「猫や杓子」である。そんな「猫や杓子」だらけの日本を宇宙人がもし鳥瞰して見たとしたらどんな感想を抱くであろう?
「春の季節になると、その島国は南から薄いピンク色の花が咲き始める。すると、その鼻の周りに続々とヒトという生物が蝟集する。通常植物に集まる動物というのは、その植物を栄養源とするために集まるのだが、このヒトという生物の目的はそうでないことは明白であり、その一個体が植物に触れようとすると別の個体が妨げることもある。動物が蝟集する別の理由は種の保存を目的とする場合であり、多くの場合特定の季節にそうした現象が起きるので可能性は高いのだが、観察をする限りその目的をもつ個体は明らかに存在するものの、そうでない場合も多く、一概に生殖目的とも言えない。そのピンクの花が咲く期間はほぼ10日間であるが、その花が咲いている間中、ヒトは何の明白な目的もないにもかかわらず蝟集することを厭わないが、花が散ると途端にその植物に対する興味を失う。他の植物にも集まるケースがあるが集める力は劣る。不気味ではあるが誠に興味深い現象である」
 ・・・。閑話休題。
 花見というのを広めたのは江戸時代の八代将軍吉宗ではないかと言われており、彼は川縁に桜を植え、そこを花見の場所にすることで人出を呼び、それによって土手を強固にしたというような話がまことしやかに囁かれているが、ちょっとそれはどうかなぁ。江戸時代というのは今よりよほど水運が発達していたので、タクシーの代わりは駕籠というより舟であったので舟から見えるように川縁に植えたのかも知れない。
 いずれにしてもその頃には「長屋の花見」のような落語ができていたわけで、「猫も杓子も」が現実になったのはその頃であろう。なんせ長屋の住人まで「たくあん」や「茶」を片手に(本当は卵焼きと酒を持っていきたいところなのだが)花見に行ったのだから。
 とはいえ、花に群れる人はさしたる害はない。問題のある群れは別にある。そこら中に存在する新興宗教・どこかの国の共産党・どこかの国の労働党・どこかの狂信的ムスリム集団。最近はアメリカにも議会に乱入する異様な集団が出現したばかりである。
 だいたい問題のある群れというのは排他的な集団であり、自らと異なる意見の者を排除し、同じ方向へと強制的に動かす愚かな集団であり、それを押し通すために物理的・精神的暴力を振う。こうした群れは遠慮願いたいものである。

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