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くまのプーさん

 僕は今、猛烈に腹を立てている。それは「くまのプーさん」について、だ。この純真無垢なキャラクターに関して腹を立てねばならぬ理由がいったいこの世の中にあるのだろうか?

 「くまのプーさん」
 僕が子供の頃に愛読した本だ。ケースに入ったハードカバーの本は小学生の低学年にはちょっと重かったけど何度も読み返した楽しい本だった。そしてケストナーの「飛ぶ船」とか、「ドリトル先生航海記」シリーズと共につい最近整理するまでずっと実家の本棚に並んでいた。
 ちょっと間抜けなプーさんと小心者のコプタ、小狡いウサギに仲良し親子のカンガとルー、今となっては多動性障害ではないかと思われるティガー(そう言うちょっと変わったところのあるキャラクターにも作者の優しい視線が感じられる)と気難しくてアザミが好きなイーヨー、賢いフクロ。みんなクリストファーロビンが好きで、クリストファーロビンが愛するぬいぐるみの物語。AAミルンの原作で石井桃子さんの翻訳の岩波書店の本を愛読した人たちはたくさんいるだろう。今の子供達はディズニーのアニメーション映画で知るのだろうけど、本当は原作を読んで欲しい。
 その・・・僕が愛するプーさんは、著作権が切れた今、とんでもない事態に巻き込まれている。インターネットでふと目についたのは香港とマカオでホラー映画が公開禁止・・・読み飛ばそうとした僕の目に「くまのプーさん」という文字が飛び込んできたのだ。
 ?ホラー映画?なぜ、くまのプーさん?なぜ上映禁止?
 頭に浮かんだたくさんのクエスチョンマークを解くべく記事に目を通すと、どうやら「Winnie the Pooh」をベースにイギリスの監督と映画配給会社がプーさんとコプタが野生化するというホラー映画に仕立てたらしい。いや、それは・・・いくら著作権が切れたからと言ってプーさんの生みの親であるミルンの故国イギリスでそんな乱暴な・・・と思ったのだが、それがなぜ香港とマカオで公開禁止になったのだろうか?と読み進めて漸く話の筋が見えてきた。
 そもそもこの話は2018年 ディズニー映画の「プーと大人になった僕」が中国で公開禁止になった事に端を発している。いや・・・それ以前に中国の「皇帝気取りのお方」本人か、その周りの人間がその「皇帝気取りのお方」が「くまのプーさん」に似ていると揶揄われたのに腹を立て、中国において、その揶揄の元となった「プーさん」をなかったものにしようと企んだらしい。だからこその公開禁止だったのだ。
 だが・・・迷惑しているのはこっちである。僕の幼少時代のアイドルが比較されること自体が迷惑極まりない。(こっち・・・というのは僕というわけではなく、「くまのプーさん」の愛読者全てである、と僕は信じている)消えるのなら後に出現した方であるべきであろう。
 だいたいそんなことでこの愛らしいキャラクターを亡きものにしようなどという肝の小さい人間が皇帝気取りなどとは笑止千万である。その国が「ちょっと間抜け」なプーさんでなく「周りのキャラクターを殺戮しまくる」プーさんという現実に近い(チベット、ウィグルやら香港やらで、現実化した)キャラクターに模されたら・・・。いや、そもそもこの映画を制作した意図は「プーさん」に擬された人間が現実に民衆を殺戮しているのだという現実を伝えるために作ったのでは・・・等と考えているうちに、僕らのプーさんはもはや、物語から消失して奇怪なものに変質してしまっているのである。

 その皇帝気取りはもう一つの「ろくでなし国家」と国際秩序について会談するそうである。自惚れるのもいい加減にして欲しい。皇帝気取りの「裸の王様」が唱える国際秩序なんて 誰が望んでいるものか。

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