「心水体器:流氷姫は微笑まない」
https://kakuyomu.jp/works/1177354054886749032 2019年3月16日現在の9話〈流氷姫について、壁のない心臓〉と10話〈”決闘”、締められた痣〉の間に過去に一時挿入していた部分があったことを思い出しました。ロシアの工作員の命がいささか軽んじられているようで書く必要を感じたところです。どうも既存のキャラだけで語らせるのがしっくりこないのでここだけに登場するキャラを2人出したのですが、やっぱり全体としてキャラが増えすぎるなということで削除した部分です。
以下のノートの点4つ目で言及しているのと同じ部分です。
https://kakuyomu.jp/users/R-Maekawa/news/1177354054887184805 多少九木崎と樺電の関係にも絡んだり、意味がないわけじゃないのでよかったらどうぞ。
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九木崎女史の部屋は朝日がよく入る。女史は自分のデスクに直接光が当たらないようにカーテンを調節してチェアに腰を下ろした。マグカップを置いて左手のソファに目を向ける。男が座っている。リクルートのような紺のスーツだがネクタイはしていない。ボタンも一番上が開いている。二人掛けのソファの窓側に座り、スキーウェアのような分厚い黒のジャンパーを隣の席に置いている。比較的礼儀をわきまえた置き方だが、なぜだかそこには微妙な馴れ馴れしさが滲んでいるように見える。テーブルの方へ垂れたフードのせいだろうか。そもそも一人分のスペースを丸々とっていること自体がいけないのかもしれない。
確かこの男は昨日も基地に来ていた。ロシア人が一人死んだ件で事の経緯を調べていたのと同じ人物だ。男の前にも女史と同じマグカップが置いてある。アラビア・エステリ。白地に抽象的な花の青い染付。分厚くて重たいマグだ。中で黒々としたコーヒーが鬼の吐息のように湯気を立てている。
部屋にいるのは九木崎女史とその男だけだった。女史のデスクの上には鑑識や検視の写真が並んでいる。もちろんそこには死んだロシア人の死に顔が写っている。
男はマグカップを持ち上げて唇の先で液体の熱さを確かめる。一口飲んでマグを置き、話を始める。コーヒーに関しては特にこだわりはないみたいだ。
「昨日、色々と流れをまとめてみて、まあそれ自体はよくわかったんですがね、ただ不可解なのは、彼を殺したのがあなたなのか、それともあのロボットなのかというところですね」
「私でもあり、AIの判断でもある。私が銃で人を撃ち殺す時、その人間を殺したのは私であり、またその銃だ」九木崎女史は的確に答えた。
「ええ、それは違いない」
「そして罪は銃ではなく撃った人間にあることになる」
「銃は素直ですからね。弾が入っていて、引き金を引いてやれば弾を撃ち出す。その入力と出力は常に一対一だ。不変です。でもロボットは銃とは違う」
「ものであり道具であるという点に変わりはない。人間に行使されるものだよ」
「つまりあなたはあくまでも自分の手でやったという。それはなんだか庇っているみたいですね。誰か人間ならわかるが、機械というのはどうしたものですかね。ロボットが罪を着ると、懲役なんかはないが、開発が妨げられるという懸念でもあるわけですか」
「AIは忠実に命令に従っているよ。何の問題もない。なにせ兵器だから、戦場では人間に加害することもある。セーフティを外すという操作は必要だが」
「それをあなたが外したと」
「もちろん。私に訊くよりログのコピーを見てくれよ」
「見ましたよ。だからあなたがロボットに対して、相手のどこを狙ってどちらの足でどれだけの力で蹴飛ばすといったような細かな指示を与えていないこともわかっているわけです。あなたは対象を指定して攻撃指示を出しただけだ」
「こちらが撃たれている状況でそれだけの情報量を正確に打ち込むのは私でもなかなか厳しいものがあると思うけどね」
「ではやはりロボットはロボットの判断で彼を蹴飛ばしたんだ」
「そう。そして私はその判断を予想し、また期待していた。銃、砲の類は一切搭載していなかったから、攻撃といわれてもどうしようもない。それなら手か足を使う。そういった実戦データのフィードバックをしていたからね。出の速さ、リーチ、衝撃による機体破損の虞を考慮すれば手よりは足を出す方が効果が高いと考えるはずだ」
「確信していた?」
「うん。確信していた。私がそれを指示すれば機体はあの男を蹴るだろう、それは男が命を落とすのに十分な打撃を与えるだろうと」九木崎女史は丁寧に繰り返した。「ともかく、私が攻撃以外の指示を出していたら、あるいは何も指示していなかったら、彼は死んでなかったよ。機体コンピュータの戦術システムは訓練モードで、あの男を敵性とみなしてはいなかった。私が指示を与えるまでは」
男はそれまで相手が自分の方を向くのを待ち構えるように九木崎女史の顔にじっと目を向けながら話していたが、そこで一度やや顔を伏せて肩の力を抜いた。体の向きをソファに合わせる。
「なるほど。わかりました。あなたは殺人の罪に問われることはない。それは私もあなたもわかっている。でもその特権を笠に着るような態度は人命を真剣に考えている人間をとても不愉快な気持ちにさせる」男はわずかに首を横に振りながら言った。
九木崎女史はコーヒーを飲む。マグを置いてデスクの縁を両手でひと撫でする。内から外へ。手首を返して少し親指を引っかけ、手を膝の上に落とす。
「悪いけど昨日の晩は私もかなりタフだった。なにせあの男が潰れていくところをきちんと見ていたんだ。私だけは見ていた。平原さん、あなたもあるいは目の当たりにしたことがあるのかもしれないが、そのリアリティは演技やアニメーションでなかなか再現しきれるものではないよ」
「それは失礼。慣れておられるのかと思っていましたが」平原と呼ばれた男は答える。
「子供たちか、私の同郷人たちのことか知らないが、ああいった死に方はなかなかない。どちらにしても慣れられるものではないと思うけどね。案外そういう言い方をするあなたの方が慣れているんじゃないかと思うが」
「そうかもしれない。とにかくあらゆる死に方を知らなければいけないわけですからね。でもかねがね測り直していますよ、命の重さについては。それが地軸みたいにそろりそろりとずれていかないようにね」
九木崎女史はしばらく男の横顔を見ていた。空虚な視線だった。
「それに、たとえ特権があるにせよ、それは私のものではないよ。この状況に与えられたものだ。これは戦争だ。表立ったものではないがね、国家の利益をかけた実力行使だ。そこには勝利の栄光も戦士の名誉もない。そこに命をかけるべき人間なんでどこにもいないよ。でも残念ながらロシアは対応を間違った。無理に口封じを試みるべきではなかったし、さらに言うなら彼女たちの秘匿をもっと必死で守るべきだった。亡命沙汰になる前にね」
「そう。それは確かにそうです。あなたでも何の危険性もない市民を殺せばきちんと罪に問われる。逆に、あなたでなくとも国家の危機に対する殺人は特例で処理されることになる。ただわかっていただきたいんですよ。私の仕事はあくまで死者に寄り添うことですからね。その人物が誰に殺されたかに関わらず、また何に殺されたかに関わらず」
「うん。理解しているよ。彼らは立派に使命を果たそうとした。たとえその使命が私たちにとって間違ったものであったとしても」
「とにかく、国家の問題に関わることは軍隊に任せて、九木崎には一歩引いたところに立っていていただきたい。そう願うばかりです」
「私もそうしたい」
九木崎女史はデスクの上に並んだ写真を集めて重ね、とんとんと角を揃えた。男は腰を上げて空になったマグをデスクに置き、写真を封筒に収めた。
「彼の名前は?」九木崎女史が訊いた。
男は手を止める。
「それはこちらから教えるほどのことではないでしょ。樺電の情報網がそんなものだとは思えない」
「まあそれもそうか。でも知らないと言われなくてよかった。警察がそこをきちんと押さえているなら少しは安心できる」
男は瞼だけで頷いて自分の額を掴むようにして頭を掻いた。自分が余計なことを言ってしまったように感じたのかもしれない。
九木崎女史は立ち上がった。男を廊下まで送ろうとしたようだ。だが男はソファのアームレストに寄り掛かって力を抜いた。風船の空気が抜けたような具合だった。
「しかし、なんというか、不可解なものですよ。機械が人間を殺す、というのはね。いや、これはまったく私自身の感じ方の問題であって、捜査には全然無関係ですが」
「機械が、人間を?」女史は訊き返した。むしろ男の不可解さが不可解なようだった。
「ええ。まあね、それだけなら全然おかしなことじゃない。無人攻撃機がミサイルをぶっ放すのだってそうだ。遠隔操作でしょう。なんならピストルが弾を発射するのだって違いない。機械が人を殺す。でもその機械は人と人の間を媒介しているに過ぎない。でもこの事件はどうです。確かにあの機体はあなたとその男の間を媒介していたのかもしれない。あなたの指示を実行しただけかもしれない。でもそこには何か違いがある。ピストルとは違う。つまりAIは判断する。いわば、人間が引き金を引いても弾が出ないことがある。弾を出すかどうかはAIが判断しているわけだ。引き金と撃鉄の間が機械的に直接繋がっていない。こちらを引けばあちらも動く、と決まっているわけじゃない」
「いまどき戦車も戦闘機もそんなものだと聞くけどね」女史は机の縁に腰を預けて男の話を聞いていた。
「たとえ話ですよ。あなた方のAIはもちろんもっと複雑だ。複雑な思考回路を持っている。それは確かにあなた方が作った合理的な思考回路だ。でも人間の思考回路とは構造が違う。AIにとって合理的な判断が、人間にとっては違う、ということはありうる」
「たとえば、人を殺す動物がいる。平原さん、想像してみるんだ。そいつが目の前にいる。檻もない、分厚いアクリルもない。恐いかな?」
「私は今クマのことを思い描きましたけどね、恐いでしょうね。確かにそうだ。クマたちにとって合理的な判断は人間にとって非合理かもしれない。何をすれば彼らが襲いかかってくるのか、あるいは去っていくのか、相当経験を積んだ者でなければ絶対こうだというのはわからない。ただね、そういう関係が、つまり動物と人間の生死をかけた関係が不可解なものだというふうには感じられませんね」
「うん。不可抗力だ。それは人類の外から来るものだ」
「外から」
「それに対して、機械は人間の創造物だ。人類の内から生まれたものだ。被創造物が創造主に牙を剥く、そういう状況にあなたは嫌悪感を抱いているんじゃないか」
男は額に皺を寄せてゆっくりと首を捻った。体の前で両手を組んでいる。その指先に時折力が入っていた。
「それはいわば間接的なアポトーシスだ。あるいは神殺しの禁忌の微分形だな」女史は続けた。
「いや、ね、あなたの言うことはわかりますよ、九木崎さん。ただね、私は考えていたんです。だとして、人類の被創造物というのはAIほど主体化が容易なものばかりじゃない」
「私もそう思うよ。そういった意味では安直に私に罪を求めなかったあなたの姿勢はなかなか真摯なんじゃないかな」
男は組んでいた指をほどいて机に置いたままだった封筒を取り上げた。ジャンパーと一緒に脇に抱えて扉の方へ歩いていく。話はこれで終わりらしい。女史もそのあとに続く。
「彼らの仲間を探すのもあなた方の仕事だったね」女史は言った。
「まずまず順調ですよ。押さえるところは押さえてある。我々なりの方法で国民の安全を守っている。そこをきちんと評価していただきたい」
「ああ。期待してるよ、静かな活躍を」
男が開いた扉を女史が押さえる。オレンジのトレーニングウェアを着た鹿屋がギプスで固まった肘を右手で抱えながら横っ跳びに廊下を駆け回っていた。どうやら傷に衝撃が響かない走り方の研究をしていたらしい。開いた扉の前に立ち止まる。扉と鹿屋の間を男が通り抜ける。その時ちょっと上を向いて鹿屋に会釈していった。鹿屋はしばらくその背中を気に食わないみたいに見つめていた。
「いいから、早く中へ入ってくれ」と九木崎女史は扉を支えたまま言った。
女史は窓際の洗い場で二つのマグカップを洗ってスタンドに干す。そのまま流しの縁に寄り掛かって煙草を一本吸った。換気扇を回す。鹿屋はその間女史のデスクのソファ側の縁に片方の尻で腰かけて左手で青い握力ボールを握っていた。車のエンジン音が聞こえる。駐車場を出て建物の横を通ってゲートへ走っていくのがカーテンの隙間から見える。白のトヨタ・カムリ。さっきの刑事の男の車だ。
「スーパーに行こう。あまり遅刻するのもよくない」
鹿屋はウインドブレーカーの上を脱いで自分のデスクから持ってきた拳銃のホルダに左腕だけ通した。左腕が回らないから右には通せないわけだ。
「俺は運転できませんよ」と鹿屋。
「助手席でも用心棒は務まるだろ。運転手じゃないんだ」九木崎女史はホルダを鹿屋の肩に回してバックルを締めてやる。そのあと鹿屋は自分で緩めたり締めたり調節する。
「抜けるのか?」
「大丈夫でしょ?」鹿屋はそう言って左脇のホルダにシグ拳銃を差し、ベロのボタンを留めてまた開き、拳銃を抜き差しする。「でもリロードは無理だ。できるけどマガジンが抜けない」
確かに替えの弾倉は右の脇に差さっている。鹿屋は再びウインドブレーカーを羽織り、その上に緑色のジャンパーを重ねる。九木崎女史はクローゼットから黒いピーコートを出して着た。その格好はどことなく競馬の騎手を思わせた。
「怪我した翌日に、悪いね。でも留守番している方が不安だろ?」
「でしょうね。でも運転できない。ついていくだけだし、向こうへ着いてからたぶん暇だ」
「その辺でも走っていればいい。それはつまり、自分の足で。車じゃなくて」
二人は三階の裏口から裏手の駐車場へ出てスープラに乗り込んだ。九木崎女史が運転席、鹿屋が助手席になる。
「なかなか新鮮だ」鹿屋が言った。
「私も同感だよ。おまえを左隣に乗せるのはかなり久しぶりじゃないか」
「それだけ怪我をしてこなかったってことか」
女史はシフトをニュートラルにしてエンジンをかける。ちょっと冷えているのでセルが多めに回った。車は古いがバッテリーはきちんと交換しているので心配ない。とはいえマニュアルだ。オートマティックならまだ右手片方でも運転できたかもしれないが。
ゲートを出て北へ北へ道を進む。積雪は多いがここ数日激しい降雪もないので路上は比較的片付いていた。FRでもスタッドレスだけで十分走れる。朝方なのでまだ交通量は少ない。ラジオでNHKのクラシックを聞きながら走る。鹿屋は周りの景色を見ながら時々ギプスの端の隙間に指を突っ込んだりしていた。
「さっきの、聞いてませんでしたけど、結局なんて説明したんです?」鹿屋は訊いた。九木崎女史の機嫌が平静に戻るのを待っていたみたいだった。
「聞きたいか?」女史は鹿屋のギプスをちょっとだけ見た。
「話を合わせられないと困る」
「ああ。いや、嘘なんか言ってない。ありのままだよ。ただ、あれは言ってない。私が指示を出した時、機体がどこにいたか憶えてるか」
「車の前でしょ?」
「そう。そうなんだ。つまり私が指示するより先に車とあのスパイの間に割って入ってたんだ。結局そこで指示を出したからわからないが、ただ単に盾になろうとしたのか、ログも見たが、まだよく理解できない」
「俺は間違ってたと思いませんか」鹿屋は訊いた。彼の関心は誰がスパイを殺したのかという問題とはまた別のところにあるようだった。
「なんで」
「煮雪を守った」
「そういうことなら、正しかったよ。私は自分で伏せてた。ああいう時自分で動けないのは舞子の方だ。舞子を守って正解だった。だいたいな、そんな余計なことを考えるんじゃない。そんなことじゃ次の咄嗟の時に体が動かないぞ。その時は何かするんだ。ためらって何もできないよりずっといい」
三十分ほど走ってスーパーマーケットの駐車場に停める。右隣りにひとつ空けて黒の三菱・ディグニティが待っていた。エンジンはかかったままだ。九木崎女史はスープラの鍵を鹿屋に預けてディグニティの後部座席に移る。ドアは内側から開いた。
女史は片足をフロアに差し込んだところですっと鼻から息を吸う。単なる呼吸ではない。嗅覚の絡んだ息だ。でも悪い匂いではない。表情からそれはわかる。
女史が乗ったところでディグニティは走り始める。女史の隣には樺電の社長・川原が座っている。昨晩のうちに会う約束を取り付けたようだ。運転しているのは白手袋をした運転手だ。用心棒ではない。あるいは兼業かもしれないが見かけは完全に運転手だった。用心棒と呼べるほど屈強でもないし、むさ苦しくもない。
川原は白い髪をきちんと七三に分けてレンズの大きい古めかしい眼鏡をかけている。眉の繋がったような二本ブリッジのやつだ。黒いロングコートのボタンを上下二つ除いてきっちりと締め、体の前に油の染みた紙袋を抱えている。
「近所のベーカリーのクロワッサンが絶品なんだ。食うか」川原は紙袋の口を少しばかり九木崎女史の方へ傾けた。
「いいや、結構」女史はほんの少し右手の指先を持ち上げて断る。
「本当に旨いんだ」川原は自分でひとつ取り出して袋の口の上で齧った。掌に乗るくらいの比較的小ぶりなクロワッサンで、色が黒くドリュールがたっぷり塗ってある。川原のペースだとひとつ三口くらいだ。このおやじ食い意地は張っているが太っているわけではない。
「そういえば君は運転席から降りてきたね」川原は言った。
「鹿屋が怪我をしたから。マニュアル車じゃ無理も利かない」
「これは失敬。昨日撃たれたのは彼だったね」
「いいえ」
「しかしもう1人くらい雇ってやったらどうだ。いささかハードワークじゃないか」
「逆だよ。彼が働ける時間が私の働ける時間だ。お付きが二人必要になるような働き方をしていては部下を苦しめる」
「いいボスだ」
「あなたは違う?」
「君を見習うよ」川原は指を舐めながら言った。
九木崎女史はやや狭苦しそうに右足を持ち上げて脚を組んだ。膝の上で両手を組んで窓の外を眺める。道沿いに雑木林と送電線が続いている。
車は道の走行車線をゆったりと走っている。つまりどこかに目的地があるわけではない。どこかに留まらず走り続けているということが重要なのだ。通勤や流通の車両に混じって走り続ける。
「やはりСВП(エスヴェーペー)絡みの連中だった」再び川原が口を開いた。
「СВПが大統領直轄の情報庁、ГРУ(ゲーエルウー)が連邦軍参謀本部の情報局だったか」
「他にも色々あるが」
「あの国の組織はどうも上手く憶えられない。それで、両ケースとも情報庁?」
「らしい。軍の方はごく控えめな情報収集に終始しているようだ。むしろ情報庁にあまり強硬手段を取るんじゃないと諭しているようなところもある」
「仲が悪いのか」
川原は首を捻る。「軍に関しては初期段階で海軍があれだけ大っぴらに追いかけていたことを思うと意外だが、そっちはあくまで現場の対応ということなのかもしれない。どうも消極的な態度の方が本来に思える」
「日本の対潜機能を測りたかったんでしょう。せっかくの機会だ。ドルフィン自体は他国に解析されても構わない。サナエフに予算を食われるくらいなら他の兵科の装備をきちんと整備してほしいと思っている。他方、情報庁は国益を見ているからドルフィンのことはできれば隠しておきたい。日本が相手なら多少無理をしても樺電がパイプになる。経済省には樺電の資本が入っているし、樺電もロシアでできるだけ自由に営業したい。九木崎も土地を借りている。」
「いささか大雑把だが」
「筋は通る。サナエフ絡みの報道はめっきりなくなった。ロプーヒナ中尉の亡命を受け入れたというところで綺麗に止まっている。サナエフの研究や組織、他の機体のあとさきに踏み込むようなものは出てこない」
「それはさすがに樺電一社の力じゃない。メディアというのはそれはそれで結構な大金を動かしてる。ただ難しい交渉をしたことは確かだ。今回はたまたまこちらの方が有利だったが、そういう時こそ慎重に条件を選ばなければいけない」川原はクロワッサンをもう一つ食べて、コートの上に落ちた欠片をひとつずつ指の先につけて口に運んだ。
「彼らを生かしておけばもっと有利に進められたかな?」
「いや、決してそんなことはない。もし仮に立場が逆だったら向こうは容赦なくこちらの人間を殺している。交渉は死体でする。」
「向こうは日本がそんな国だとは思っていなかったはずだ。自分と同じだとは。もう少しタイミングが違っていれば生かしてやれたんだろうが」
川原は再び首を振る。「それに死んでしまえば喋らない。我々は彼らから何の情報も得ていない。それは向こうにとって幸運なことだ。捕虜になって戻れば際限なく疑わなければいけない。だが現実は違う。それはあるいは我々にとっても幸運なことかもしれない」
「だがドルフィンのことは知ってしまった。じゃあ、それは不運だったとお思いかな?」
「ロシアとの関係を思えばね。まったく、厄介な事件だった」川原は手を広げて少し悩んでから紙袋の口を閉じる。アームレストに差さっていた紅茶のペットボトルを開けて五分の1ほどぐびぐびと飲んだ。
九木崎女史は腕を組んでしばらく考え事をしていたが、ふと何かに気づいたように唇の下を指で掻いた。
「川原さん」
「ん?」
「それ、まだ残ってるかな」
「ああ、なんだ、ちょっと冷めてきたぞ」川原はそう言って紙袋ごと女史に渡した。「あと三つあるから、鹿屋くんにもあげるといい」
車は左折を続けて徐々に元のスーパーに向かって戻りつつあった。車の左舷に朝日が当たる。防眩フィルム越しとはいえ太陽のまっすぐな光に女史は目を細めた。