突発的に思いついて書きました。前半は氷柳さんが引きこもりをしていた八年間のうちのどこか、後半は本編より数年くらい未来の話かもしれない。
氷柳さんの情緒は、弟子によって育まれていると思う作者です。
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【月が眩しい夜だから】
眩しくて目が覚めた。
だというのに周囲はしっかりと闇に包まれていて、時間感覚が失われていても今が夜だということが分かる。
眩しさの原因は、すぐに知れた。
軒先から覗き込むように傾いた月が、あまりにも眩しすぎたのだ。
最近は風も冷たくなってきた。もしかしたら今日は中秋節なのかもしれない。
「……」
そんなことを、ぼんやりと思った。
逆に言えば、その程度のことしか思えなかった。見事な名月を目にしていても、眠りを破られたことを忌々しく思うだけで、それ以上の感想が湧いてこない。
きっと自分は、以前にも増して、中身が壊れてしまっているのだろう。
だというのに体そのものは、生きることを放棄しても一向に壊れようとはしない。
──忌々しい。
自分自身も。そんな己を、この世界ごと嘲笑おうとしているかのような月も。
……もう全てを見ることも、考えることもしたくない。
その一念とともに、涼麗は再び瞼を閉じた。
※ ※ ※
「うわっ!? もしかしなくても今日って中秋節っ!?」
眩しささえ覚える月光の中だった。
不意に傍らから上がった声に思わず肩を跳ね上げながら視線を落とせば、隣を歩いていた黄季は見事な満月を見上げて何やら慌てている。
「どうしよう……中秋節だっていうのに、月餅はおろかご馳走の用意も何もない……!」
確かに、そんなことをしている暇はなかった。
何せ十日ほど前からついさっきまで、自分達は中々に厄介な案件に振り回されていた。
昼夜を問わない連続出撃に、現場仕事の方が性に合う涼麗でさえゲンナリしていたくらいなのだ。
むしろこんな状況に置かれていながら、今日まで一日も絶やすことなく食事の用意をしてくれた黄季は褒め称えられてしかるべきだろうと涼麗は思っている。
だが黄季自身の認識はどうやら違うらしい。
「ど、どうしましょう、氷柳さん……! どこかお店に……ってもうどこも閉まってるか。煌先生のところって中秋節は宴やってるんでしたっけっ!?」
「黄季、落ち着け」
そもそも、黄季の手料理でなければ、涼麗が喜んで食べることはない。
そうは思ったが、この場合にそんなことを口にしてしまえば、逆に黄季を追い詰めることになる。
さすがにそれくらいのことは察せた涼麗は、ひとまず短く声をかけてからわずかに首を傾げて黄季に視線を注ぐ。
「ご馳走や月餅は、明日以降でも別に問題ない」
「いやでも! 中秋節は今日ですよっ!?」
「別に、こだわりはない」
食べられることは嬉しいが、最悪、なくても構わない。
そんな内心を込めながら、涼麗はユルリと笑みを浮かべてみせた。
「お前がいてくれれば、世界はいつでも明るい」
たとえ年一番の名月が空にかかろうとも。贅を尽くした食事が並ぼうとも。どれだけ世界に光が注がれようとも。
それらを目の前にしても、何かを思う心が伴わなければ、それらに意味など生まれない。視界が開けていたとしても、それらを目に入れようとは思えない。
たとえ空が晴れ渡って月影がさやかに注ごうとも、心に雲がかかっていては何もそこにないのも同じだ。
その虚しさを、涼麗は嫌になるくらいに知っている。……知っていたのだと、黄季と時を過ごすようになって、理解できた。
──逆に言えば……
涼麗は首を元に戻すと、改めて黄季へ視線を注いだ。何に驚いているのか、黄季は呼吸を忘れてしまったかのように固まったまま、ほけらっと涼麗のことを見上げている。
そんな己の弟子であり相方である相手へ、涼麗はフワリと笑みを深めた。
「だから、今日という日にこだわる必要性は、私にはない」
そう言い添えてやると、なぜか黄季は頬を赤く染めながらパクパクと口を開閉させる。出会った当初から時折見せる奇行を今日も興味深く観察してから、涼麗は先に身を翻した。
「大型案件が片付いたんだ。しばらくしたらまとめて休みがもらえるだろう」
歩き出しながら言葉を紡げば、ハッと我に返った黄季が慌てて追いかけてくるのが分かる。その行動が読めていたからこそ、涼麗は歩きながらポツポツと、己が紡ぎたいように言葉を口にした。
「その時にでも、作ってほしい。その方がゆっくり堪能できる」
「っ、はい!」
そんな涼麗に、黄季は気合いのこもった声で答えた。今から現場に出るのかと問いたくなるほど気迫にあふれた声に、涼麗はまた人知れず笑みを深める。
月影に、二人分の影が躍っていた。
眩しいほどに注がれる月光が、今の涼麗の目には水晶の粉が散りばめられたかのように美しく見えていた。
【了】