「牽牛と織女の間に橋を渡す鵲(カササギ)を間違って射落とさないように、この日、鸞の弓使いは弓を握っちゃいけないんです」
そう言い切った黄季に、氷柳は目を瞬かせた。
※ ※ ※
『あぁ、今日も無事に終わったな』と、伸びをした、その瞬間だった。
「黄季」
背後から響いた声に振り返れば、寝支度も済んだ氷柳が佇んでいる。その常と変わらない神々しいまでの無表情の中にわずかに混ぜられた疑問を感じ取った黄季は、思わず伸びをしたまま首を傾げた。
「どうしました? 氷柳さん」
鷭家の厨房の中だった。非番だった一日をつつがなく終えた黄季は、夕飯後の片付けを終えたところである。『さぁて、そろそろ寝る支度でもするかー』と思ったところに、氷柳の思わぬ訪いを受けた、というのが今の状況だ。
「……」
戸口に姿を現した氷柳は、一瞬黄季から視線を逸らすと躊躇うように唇をまごつかせた。その仕草だけで何やら訊ねたいことがあるらしいと察した黄季は、姿勢を正して氷柳に向き直る。
「今日は、……何か用事があったんじゃ、ないのか」
そのまま待つこと数十秒。躊躇いながらも、氷柳は問いを口にした。だがその意図が分からなかった黄季は、思わず詳細を問いかけるように首を傾げる。
その問いかけの眼差しに気付いたのか、氷柳は眉間に薄っすらとシワを寄せながら言葉を続けた。
「……今日は、乞巧奠だ」
「そうですね」
「王城では、祭祀が行われている。市井でも、祭があるだろう」
「はい」
「そんな日に、わざわざ、休みを願い出たと」
「え。やっぱり、マズかったですか?」
確かに氷柳が言う通り、本日の王城では国家鎮守、五穀豊穣を願って乞巧奠の祭祀が執り行われている。
だが祭祀を執り行うのは、泉仙省は泉仙省でも仙部の退魔師達だ。泉部は直接祭祀には関わらないため、本日も平時と特には変わらない日常が泉部には流れているものだと、黄季は勝手に思っていた。
「いや。休めない、ということはない。そうであれば、慈雲ははっきりとそう言ったはずだ。ただ」
『自分は知らない間に、氷柳を巻き込んで何やらとんでもない事をしでかしてしまったらしい』と、黄季は今更焦りを抱く。だが氷柳はそんな黄季に対して常と変わらない落ち着いた声音で答えた。
「わざわざ休みを取ったのに、用事らしい用事を、こなすことも、なかっただろう」
氷柳の指摘に、黄季はパチパチと目を瞬かせる。そんな黄季からの視線に居心地の悪さを覚えたのか、氷柳は気まずそうに視線を伏せるとボソボソと言葉を続けた。
「祭は、陰の気を払い、人々を活気付ける。だが、気が大きく動く時は、何かと揉め事も多い。……今宵、主力勢は皆、泉部に詰めている」
「え」
「逆に言えば、他が詰めているから、私達がいなくても、問題はない」
『やっぱり今日休むのってマズかったんじゃ』と表情を強張らせる黄季に、氷柳は重ねて『問題はない』と言い聞かせる。
──とはいえ、俺はまだしも、氷柳さんが非番だったのは戦力的に問題だったのでは?
確かによく考えてみれば、祭祀の警備にも市中の巡回にも人手は必要だ。
祭祀の執行自体は仙部が担うが、呪術的な警備を担うのは戦う技量を持つ泉部である。特に事前説明はなかったから大々的に泉部が警護に出ることはないのだろうが、それでも有事を想定して腕が立つ者を巡回に充てていることは想像に難くない。
「業務についていても、私達が警護や巡回に駆り出されることはない」
「そうなんですか?」
今更己の浅慮に気付いて顔色を失う黄季に、氷柳はわずかに眉尻を下げた。戸惑っているようにも呆れているようにも見える氷柳を見上げれば、氷柳は黄季の言葉に緩く顎を引く。
「『お前らが下手に人目がある場に出ると周囲にいらぬ混乱を生むから、いざという時まで控えてろ』と、昔から言われていた」
「……あー、はい、なるほど」
「だからどうせ、出仕していても、有事に備えて泉部に軟禁される」
『ならば非番であっても、大して変わりはない』と氷柳は言葉を続けた。『どうせ出張っている連中で手が足りなくなるような事態が起きれば、非番であっても呼び出されるのだから』というのがその心だろう。
「お前は、勤務態度も真面目だ。取り立てて休みを希望することもない」
『だから、たまの希望くらい、どうってことないはずだ』という言葉と、『そんなお前がわざわざ、祭祀があるにも関わらず休みを希望したから、何か余程の用事があると思っていたのだが』という言葉が、その後ろに続けられたような気がした。
「あー……」
言いたいことは粗方伝わったと判断したのだろう。氷柳は黄季に視線を落としたままフツリと言葉を止める。
そんな氷柳からぎこちなく視線を逸らした黄季は、何と説明したものかと言葉を探しながらポリポリと頬をかいた。
実は、大した理由ではないのだ。ただ何となく『できれば今日は出撃したくないな』という思いがあっただけで。
「えっと……」
黄季は言葉に迷ったまま氷柳に視線を戻す。黄季が視線を逸らす前と変わらず、氷柳は真摯に黄季へ視線を注いでいた。
恐らく、ここで黄季が誤魔化すなり説明を拒否するなりすれば、氷柳は深く追求することなく引いてくれるだろう。だが『どう説明すべきか迷っているならば、いくらでも待つ』という雰囲気も氷柳からは感じられる。できれば理由を知りたい、という強めの意思が氷柳にはあるようだ。
そんな氷柳の思いを、黄季は無下にはしたくない。
「……今日って、牽牛と織女が、天の川を渡って逢瀬を交わす日じゃないですか」
しばらく言葉に迷った後、黄季は思い切って事情を説明することにした。両手の指をもじもじと付けたり離したりしながらぎこちなく言葉を切り出せば、氷柳はハタハタと目を瞬かせる。
「牽牛と織女の間に橋を渡す鵲(カササギ)を間違って射落とさないように、この日、鸞の弓使いは弓を握っちゃいけないんです」
さらに黄季が続けた言葉に、氷柳は呆気に取られたかのように動きを止めた。
※ ※ ※
「えっと! 分かってるんですよっ!? 実際にそんなことはできないって!」
予想のはるか斜め上を行く発言を黄季がしたせいだろう。そのまま固まってしまった氷柳に、黄季は慌てて言い募る。
「でも、俺の家に伝わっている風習と言いますか! 伝統と言いますかっ!!」
鸞家に伝わる昔話に曰く。
はるか昔。まだヒトとヒトならざるモノの距離が、今よりもずっと近かった頃。
鸞家には弓の名手がいた。歴代の鸞の弓使い達と比べても優れた使い手であったその人物は、乞巧奠が執り行われる日に狩りに繰り出し、一羽の美しい鵲を仕留めた。
しかしその鵲、その日の夜に天の川の橋となり、牽牛と織女の逢瀬を助ける神獣であったという。
鸞の弓使いがその一羽を撃ち落としてしまったため、天の川に橋をかけるには羽数が足りなくなってしまった。困った牽牛と織女が鸞一族を守護していた神獣・鸞に相談したところ、鸞は己が守護する一族の無礼を謝罪し、自らの羽で足りない部分を補った。そのため、その年の天の川には煌めく虹のような橋がかかったという。
以降、鸞家の弓使い達は二度と同じ過ちを犯さぬよう、七月七日は弓を握らないようになった、というのが鸞家……後の鷭家に伝わっている昔話だ。
「多分、本当のところは、鸞の弓使い達を強制的に休ませるための口実だとは思うんですけども」
ひと通り己の家に伝わっている昔話を氷柳に披露した黄季は、苦笑を浮かべながら説明を付け足す。
「歴代を見ても、弓を主武器に選ぶ人間は、特に生真面目な努力家が多いらしいんです。いつもいつも鍛錬やら仕事やらと休むことをしない人間ばかりが弓を選ぶから、そんな人間達を無理にでも休ませるために、何かそれっぽい話をご先祖様が作ったんじゃないかって、じいちゃんは言ってました」
現に黄季の次兄である青燕も、寡黙で生真面目で努力家な人間だった。
黄季が知る中で右に並ぶ者はいない弓の名手であったにも関わらず、青燕はいつだって驕ることなく淡々と鍛錬を重ねているような人だった。それでいて隊商護衛任務にも引っ張りだこだったのだから、青燕は鍛錬と実地、合わせてどれだけの時間弓を握っていたのかも分からない。
──それこそ青兄だったら、天の川に橋をかける鵲を撃ち落とすこともできたんじゃないかな?
ふと脳裏に蘇った次兄の姿に、黄季はそっと笑みを噛みしめる。
「俺は、そんなに生真面目でもなければ、名手でもないんですけども。家族や門弟のみんなが、この日はみんな揃って弓を休ませていたから」
だから自分も、何となくそれに従って、乞巧奠の日は弓を休ませるようにしているのだと、黄季は説明を締めくくった。
「絶対に手に取っちゃいけないってわけじゃないんですけども。それが気にかかる状態で現場に出ると、上の空になりそうだなって思っちゃって」
黄季は今、後翼退魔師として弓を主武器にしている。弓を伴わずに現場に出ても問題なく役目は果たせるが、自分の長所を最も生かせる呪具はやはり弓だろうとも思っている。
退魔の現場は、いつだって命の危機と隣り合わせだ。そんな場所に装備を怠った状態で立つべきではないし、心に気がかりを抱えたまま立つべきでもない。黄季一人が危険にさらされるだけならばまだしも、黄季の不注意は相方である氷柳をも危機に巻き込む。
『そんな心が決まらない状態ならば、いっそ休みを捩じ込もう』というのが、本日の休みを希望した理由だった。
「なるほど。いい心がけだ」
黄季の説明に耳を傾けていた氷柳は、表情の中に納得を滲ませた。さらに黄季を真っすぐに見やった氷柳は、わずかに口の端に笑みを浮かべる。
「確かにお前ほどの腕前ならば、天の川の鵲達を射落とすこともできるだろうしな」
「さすがにそれは、無理じゃないですかね」
「お前の場合は、純粋な弓の腕に加算で退魔術もあるからな。本気で願って本気で射てば、いずれはそれくらいできるようになるかもしれん」
冗談なのか本気なのか分からない風情で氷柳は言葉を紡ぐ。そんな氷柳に何と返したらいいか分からず苦笑をこぼした黄季は、ふと氷柳が表情を変えたことに気付いた。
「氷柳さん?」
「いや」
『どうかしましたか?』と首を傾げると、氷柳はスッと視線をどこかへ流した。その先を追うと、視線は窓の外へ流れていく。
「鷭家では、今日という日を、そうやって過ごすのだなと、ふと思って」
氷柳の視線は、夜空に向けられているようだった。その視線の動きと言葉の中に昔を懐かしむような雰囲気を察した黄季は、少しだけ踏み込んだ問いを氷柳に向けてみる。
「氷柳さんは、どうやって過ごしてきたんですか?」
黄季の問いを受けた氷柳は、黄季へ視線を戻すとハタハタと目を瞬かせた。そんな氷柳の視線を真っすぐに受け止めながら、黄季はさらに問いを重ねる。
「泉仙省に出仕を始めてからは、有事に備えて泉部に軟禁されてたんですよね? 郭家にいた頃は、何か行事とかあったんですか?」
しばらくハタハタと目を瞬かせていた氷柳は、おもむろに食卓の椅子を腕に抱えると外へ続く扉を開いた。視線で招かれた黄季は、同じように椅子を抱え上げると氷柳の後ろに続く。
「星読みの実地試験があったんだ」
どこまで行くのだろうか、と疑問に思ったが、椅子を抱えた行軍はすぐに終わった。
「毎年毎年、郭家の弟子達が一堂に集められて。今年の相から吉凶を読み解くようにと、一晩中夜空を見上げさせられた」
厨房を出て、距離にして数歩。
中庭の、屋根に遮られていない夜空の下に椅子を置いた氷柳は、腰を下ろすと夜空を見上げた。解いて背中に流された黒絹のような髪が、その動きに従ってサラサラと微かに音を立てる。
「星読みって、……退魔の範疇から外れてますよね?」
「そうだな。占師の領域だから、退魔師からしてみれば本来は専門外だ」
そんな氷柳の隣に椅子を並べた黄季は、自身も腰を下ろすと、氷柳を真似るように夜空を見上げた。
スッキリと晴れ渡った漆黒の夜空には、水晶の屑をぶちまけたかのように星々が光り輝いている。特に目を引くのは、やはり天の川と、その両側にまたたく牽牛星と織女星だ。
「だが郭の術師には、退魔師も巫師も占師もいたからな。『不思議を操る術』は、全て一緒くたに叩き込まれるんだ」
案外、四鳥と呼ばれる家は、程度の差はあれ皆そうであるらしい。翠の分家筋にあたる薀老師も似たような行事に呼ばれていたと、氷柳は独りごちるように呟く。
「私も永膳も、星読みは苦手でな。出来が悪かったせいで、師には毎年、随分と怒られた」
「意外です。あの郭永膳にも、苦手なことってあったんですね」
「あった。その点、異母兄の雪榮様は、星読みが得意でな。乞巧奠が近くなると、二人でひっそりコツを聞きに行ったものだ」
互いに夜空を見上げたままだから、黄季から氷柳の表情を盗み見ることはできない。
ただ、ポツポツと思い出を口にする氷柳の声は、穏やかだった。きっと今の氷柳の口元には、声音と同様に穏やかな笑みが宿っているに違いない。そんなことを思わせる、丸くて柔らかな声だった。
「……星の読み方は、夜間行軍のための基礎知識として、父や祖父に叩き込まれたんですけども」
何だか、星々に手が届きそうな夜だった。
その衝動のままに腕を伸ばしてみても、思いとは裏腹に指先はちっとも星空には届かないけども。
「星読みって、やっぱりそういうのとは違いますよね?」
「……星の基本的な位置を把握できているなら、飲み込みは早いかもしれない」
隣から響く声は、いつになく近くて、柔らかい。
「基礎基本ならば、教えてやれる。……残念ながら、本当に基礎基本しか、私自身も分かっていないのだが」
「氷柳さんで理解できないなら、多分俺もそれ以上詳しく聞いても分からないと思います」
「適材適所と言うだろう。私にできなかったからお前が最初から諦めるというのは、少し話が違う」
「そうかもしれませんね」
夜空に向かって伸ばされた黄季の腕の隣に、スイッと氷柳の腕が並ぶ。
そんな何でもない景色に何だか己の心まで丸くなるのを感じながら、黄季は氷柳の説明に耳を傾けるのだった。