胃のレントゲン撮影を終えた淀川大は、続いて肺のレントゲン撮影に回された。
さっきの女医さん、これが先なのではないかい?
まあ、いい。
検査着は嘔吐したバリウムで汚れているので、それを脱いでの撮影だ。
この歳でヌードである。
ちょっと冷たかったが、普通に撮影は終わった。
安心感からか、少しだけ足下をふらつかせながら、淀川大は三階の採血室へと向かった。
沢山の検診者たちが待合室に座って待っている。そんなに人気なのか。
という訳ではないか……。
暫く待っていると、番号が呼ばれた。
採血室の中に入り、手招きした看護師さんのいるブースに移動して、その前の椅子に座る。
その中年の女性看護師さんは、すぐに言った。
「大変でしたね。大丈夫ですか」
どうやら、今日の連戦の情報が先に届いているようだ。だが、どこまで正確に届いているのか。おそらく、セクシーボイスの女医さんや、一の位を後から読み上げる看護師さんの話は伝わっていないだろう。淀川の疲労度合いを推し量れるはずがない。
看護師さんは目を丸くして言う。
「あらー、汚れちゃいましたね。着替えをお持ちしましょうか」
「ええと、これで最後の検査ですよね。まだ他にも何かあるんですかね」
「いえ。この後は、あちらの回収カウンターで、このファイルを提出して、あとは一階で着替えてもらうだけですよ」
「そうですか。なら、いいです。このままで。逆にすみません。臭いですかね」
「いえ、大丈夫ですよ。みんなマスクしてますし」
看護師さんは笑顔の前で手を一振りした。そして、仕事に入る。
「では、血を採らせていただきますね。左手を出してください」
採血台の上に左腕を載せると、その看護師さんは淀川の左ひじの表の、第二関節のところの血管を見ながら言った。
「あっらー、立派な血管ですね。これなら、太いのがいいかな……」
ん? 太い血管には太い針なのか? 血管が太くても、普通の針でいいんでないかい? 血管が細い人には、髪の毛のような細い針を使うというのは知っているけど、太い血管だからって針を太くする理由が……。
その看護師さんは顎の下に指を当てた手の肘を反対の手で抱えて、横のワゴンの上に一列に並べた採血針を見て検討している。
「これくらいかなあ。結構太いわよねえ……」
あの、確信が持てないなら、普通の太さの針にしてもらえませんか。
「失礼ですが、お注射は苦手ですかね。血管が太いようなので、少し太い針で採ろうと思いますが、ちょっと痛いかもしれません。嫌なら、普通の針でいきますが」
そう言われるとさ、なんか、太いので来いよって言いたくなるじゃん。
注射針が怖くて健診に来れるかってんだ!
「大丈夫です。お任せします」
あーあ、お任せしちゃった。
「じゃあ、これでいきますね。入ると思います」
ああ、それですか……ちょっと待て、太すぎじゃねえか、それ。ボールペンのインク芯くらいの太さがあるぞ。
おいおい、マジか。マジで、それを刺すのか……おう! 刺しやがった。
出るなあ、ものすごい速さで血液が採血管を上っていく。過去最高の速度じゃないか、これ。
それを見て、看護師さんは顔をほころばす。
「ほほ、勢いがいいですね。お若いですね」
「どうもです」
「実は私、淀川さんと同い年なんですよ。こんなに勢いよくは出ませんよ」
何のカミングアウトだ。意味が分からん。
痛っ! 針を抜いても、結構な出血だぞ。下に垂れてるじゃないか。止めてくれ、血を! ここは病院だろ! しかも、日本屈指の!
「少し厚めの綿を当てておきますので、ここをしっかりと押さえておいてください。はい、検査はこれで最後です。お疲れさまでした。このファイルを向こうのカウンターに出して……」
なんか、声が遠くに聞こえる。
淀川大は再びフラフラとしながら、採血室から出てきた。
おかしい。
ここは健康診断センターのはずだ。健康診断に来て、なぜフラフラになって帰らないといけないのだ。来た時よりも、全然健康的じゃないぞ。
所定の手続きを終え、淀川大は何とか更衣室に辿り着いた。
おかしい。
この書きなぐりの近況ノートの健診レポートも今回は第13話だ。この不吉な数字で最終回なのに、こんな平穏に終わるはずは無い。
何かあるはずだ。注意しなければ……。
いささかの疑念を抱きながら着替え終えた淀川大は、汚してしまった検査着を奇麗に畳み、検査着が色とサイズで分けて並べられている棚の方に向かった。
―ご使用済みの検査着は、こちらに入れて下さい―
と張り紙されたポリバケツの中に、本日お世話になった検査着を放り込んだ。
振り返り、検査着の棚の横に貼ってある文書に目が行く。
何やら、この健診センターと病院を運営している医療法人のポリシーかマニュフェストのようなものらしい。
そこには、こう記されていた。
―医療法人####(自主規制)会は、SDGsに真摯に取り組みます―
時流に乗ってるなあ。ま、悪い事ではないし……
視線を横に動かすと、検査着の横の壁にも張り紙がしてあった。
こう書いてある。
―LGBTQの皆様へ。こちらは男女兼用の検査着です。男性専用の検査着はこの後ろにあります。―
淀川大は駆け足でその棚の背後に回った。その棚と背中合わせに置かれている棚には、薄緑色の検査着がサイズ別に並べられていた。
その内の一着を手に取ってみると、どれも前開きではなく、Tシャツ風の丸首スタイルだ。ズボンも前にチャックが付いている。さっき淀川が着ていたものにはチャックは無かった。
そういえば、これを着ていた男性を何人も見た。ここの職員さんかと思っていたが……。
それにしても、はたして、この張り紙の記載内容はいかがなものかと心底疑問に思うが、それはさておき、なんだか、いろいろと合点がいく気がした。
だから、シャツを上げなくていいと言われたのか。だから、問診票の記載であんな風に言われたのか。まさか、だから研修教材にされたのか! 身体測定の所や採血の所で女の看護師さんがやたらとフレンドリーだったのは、そういうことか! ということは、まさか、まさか、まさか、あのレントゲン医は差別主義者か! だから、レントゲン台をブンブンと激しく動かされたのか!
何か、この世の理不尽に腹が立ってきた。淀川大は理不尽が大嫌いだ。
そして、私はどの類型だと誤解されたのであろうか。
淀川大は更衣室のドアを激しく開けた。
やはり、この世には偏見や差別がはびこっている。私はLGBTQのどれでもないが、この扱いには不愉快さを隠し切れない。なにがSDGsに真摯に取り組みますか!
淀川大はマスクの中で口を一文字にしばり、小鼻を膨らましたまま、いかり肩で受付カウンターへと向かった。
淀川大の戦いは終わらない。
ただ、まだこの時は知らなかった。この直後に、さっき飲んだ下剤の効果が異常に早く強く押し寄せてくるということを。
《 完 》
※画像は今日現在(採血から二日後)の採血後です。極太針だったとお分かりになられると思います。
なお、この一連の近況ノートでのご報告は、すべて実話です。フィクションは一切ありません。