• 歴史・時代・伝奇

騰蛇の牙 八月分振り返り

 お久しぶりです、裴淵太です。
 騰蛇の牙三章『放浪者』、いかがでしたでしょうか。
 と云っても三章、まだ続くのですが……。構想・執筆に10ヶ月以上かかった関羽・劉備立志編(と私は呼んでいます)が一段落してくれたので、嬉しすぎて筆を取りました。

 ここまでのお話は『関羽・劉備立志編』の皮を被った『烏丸・地方豪族編』でもありました。『儒教倫理を基盤として成り立つ高度な文明社会と、そこから様々な形で逸脱するアウトローな人々』という構図は、この小説の大きなテーマの一つです。それを形作るにあたって漢帝国にとっての異民族の存在や、各地で力を持つ豪族の存在を体験的に描写せねばならず、そのカメラ役として適任だったのが、北の地方の出身で、かつ祖父と父とを官吏に持つ地方豪族である劉備でした。
 琢県は琢郡でもやや北寄りに位置していますし、永初元年(西暦一〇七年)ごろに烏丸が琢郡でも略奪を働いた記録が残っています(三章、烏丸との対談時に『曽祖父は荘園を襲った烏丸と——』と劉備が話しているのはこれだったりします)。
 後年の徐州救援時には劉備自身も烏丸兵を麾下に抱えているようですし、『北の人間』としての劉備を描写するのも面白いな〜と、このような展開になりました。

 関羽が烏丸に『狼の仔』と呼ばれたことや、烏丸が狼をトーテム(祖霊)としている描写は捏造です。匈奴や烏孫(後には鮮卑も)などのモンゴル系諸民族には広く狼をトーテムとする文化があったようなので、烏丸もそうだったのではないかなあと。
 鮮卑のトーテムは初期は馬だったらしいぞとか、そもそも東胡系はモンゴル系なのかツングース系なのか問題とかも色々あるのですが。そこは分からないので大目に見て下さい。文字を持たない民族だったようで、記録が結構少ないのです。


 さて。ここまで随分時間をかけてしまいましたが、物語はまだまだ始まったばかり。劉備は苦い初陣を経験し、関羽が騎兵の将となりましたが、史書に描かれる様子にはまだ程遠いです。
 ですが彼らは初めから我々の知る彼らであったのか、ということを私は最近よく考えます。『正史の劉備と言えばチンピラ』とか『関羽と言えば気位の高い義将』とか、『物語の中での役割』をつい史書にも投影してしまいそうになりますが、史書に残るほどの逸材とは言え彼らも元はただの人間であった訳ですから。育った環境があって、家族から影響を受けて、慕った人の言葉に感動して。負けて、勝って、若さを乗り越えて。そうやって多分壮年期くらいに史書に描かれたような姿に落ち着く。人生ってそういうものじゃないかなって勝手に思っています。
 『騰蛇の牙』は、そういう小説です。だから今、劉備は割とメンタル不安定だし、関羽は乗馬が下手くそだし、自分の弱さに泣く張飛がいる。まだまだ青臭い彼らが三章分の時間を使って少しずつ史書の姿に近付いている実感があって、執筆中難しいながらとても楽しかったです。
 そんなこんなで五万文字くらいかけて、ひとまず劉備立志編は終了です。群像劇としてはこれからが本格的なスタートになる訳ですが、相変わらず原稿のストックがゼロなので、また暫しお待ち下さい。近況ノートの方は不定期ですがボチボチ更新させて頂きたいと思っています。
 Twitter及び本サイトでの暖かいコメントやご声援、本当にありがとうございます。執筆の原動力になっています。


↓作業中ずっとイメソンとして聞かせて頂いていた神曲様です。良ければ聞いてみてください。
https://www.youtube.com/watch?v=3qlP35kl04s

コメント

コメントの投稿にはユーザー登録(無料)が必要です。もしくは、ログイン
投稿する