論文を読むのが好きで、昔、批評家の小林秀雄全集を読んでいたら、「好きな仕事はこっち(雑誌「文学界」)でやった」みたいな一行に出くわした、そんなことを今、思い出している。彼にも嫌いな仕事がいっぱいあったわけである。
小林の仕事は、だれに向けて書いているかという点で大きく二つに分けることができる。専門用語を盛った文壇向けの喧嘩と、自分のための作品および作者の研究である。雑誌「文学界」に多いのは後者であるから、喧嘩は好きな仕事ではなかったらしい。小林は、喧嘩上手で評判をとっていたらしいが、やんやと盛り上がるのは文壇だけで、世間の読者なんぞ無視して各々言いたい放題だったとは、小林の言である。彼は、喧嘩なんてやめにして、世間に対して、こう言う良い作品がある、それはこう言うわけだと書きたかった。それも、もっと広い、文壇とは別にあるサラリーマンなどの一般読者にむかって物を言いたかったわけである。後年、文芸時評の仕事なんぞ無視して、研究にふけったのは、仲間内で褒めあったりけなしあったりする非生産的な営みから抜け出したかったからで、怠けていたわけではない(と、小林は言っている)。ちなみに、彼の作品で後年よく読まれ文庫化されているのは、そういう時期の文章である。
インターネットの時代に至り、言論は地球的な開放を見たわけだが、「ジャンル」と言う名の村社会は非常な速さで出来上がった。議論は専門用語が流通している風景にすぎず、実態は、もう頭を使わなくてもいい、毒にも薬にもならない言葉のやり取りである。ある程度の広がりのある社会ができてしまえば、こもりたがるのが、人間の性質なのだろうか。いったいどれだけの時間と言葉が浪費されたことか。人の怠惰を証明するためにネットが生まれたわけではあるまいに。いや、これは私の経験でもあるのだ。むしろ、一人きりになってものを考えた方がより社会的になるとでも言いたいくらいだ。しかし、もっといい方法がある。知っている人がだれ一人いない世界にものを言うつもりで書くこと。一般読者と言う、謎の一集団に向かって物を言うこと。きっと日本語は通じるから何とかなるだろうという心意気で。