どこかに自分の片割れ、ベターハーフがあって、俺たちはそういうものを探しながら生きてる。そういうものがあるといい。なんてな話を「そうだよねえウンウン」と素直に頷けるほど純真ではない。
人間は社会的動物であって、だいたいは孤独に耐えにくいようにできている。それは身体機能的には弱い人間が群れを作るための生存戦略にすぎなくって、余裕ができた俺たちがたまたまそこに「愛」とか「運命」という名前をつけてかわいがっているに過ぎない。突き詰めていえばそんなもの、水がある方に向かって進んで乾いて死んでいくミミズの行動と、めちゃめちゃ差があるとは言えない。
その程度の、たんなる生存戦略に、俺たちはあとで意味をつけて、あれは運命だ、これは特別だ、そういうことにしている。そう思い込んでいる。そんな風にどこかで思っていた。
それでも。それでも「片割れがいると信じること」にはどこか甘美な響きがあって、それが確信に転じようものならそれはとても素敵なことで、それを羨むような気持ちがなかったとは言えない。
そういうある種アンビバレントな気持ちを抱えていた俺は、今日、完全に後者の立場に自らを置くことになった。どこかに片割れは、必ずいる。そして、必ずいると信じることが、とても心を安らかにする。そういうことが今日わかった。
あれは去年のクリスマスのことだ。仲間内ではくだらないことが盛り上がっていて、俺はそんなの信じていやしなかった。そんなことに価値があるだなんて思ってもいなかった。それでも、そう、俺だって社会的動物なので、迎合、付和雷同、なんだっていいが、アイツらの言う通りに、アイツらの真似をしてみた。
こんなことに何の意味が? そうは思ったが、でも、まるで誂えたように「ペア」が出来るのには不思議な快感があって、なるほどね、と思ったりもした。その滑らかな肌触りで、少しだけ気持ちが昂ぶったりもした。
それでも、正直に言おう。頭のどこかでは、それを少しバカにしていた。こんなのは手近な欺瞞的な幸福であって、俺たちはもっと高いところを目指さなきゃあいけないんじゃあないのか。こんなことを「発見」して何になる。そう思わなかった、と言えばウソになる。
今思えば、それを認めるのが怖かったのかもしれない。片割れがいると信じること。そのことがもたらす安心感。それを認めてしまったら、俺は……。
ばかばかしい懸念だった。素直にその安心感に身を委ねるべきだった。もっと早くに。運命の赤い糸があるといい。誰かとつながっていると確信できるといい。俺は今強く強く、そう思っている。そのことがもたらす安心感に身を委ねながら。
あの、クリスマスに勧められて、ユニクロで靴下12足買ったんですよ。で総入れ替えしたんですけどね。そんで洗濯するじゃあないですか。靴下が奇数になるんですよ。今までだったら、ウワア最悪だ、終わった、このペアの見つかんない靴下捨ててやるとか思って捨てて、であとからズボンの中とかから出てきて「あるんかい」ってなったり、じゃあそうなるかもしんないから……って片方しかない靴下がずっとタンスにあったりしたんですけどね。
全部おんなじ靴下にしたら、まったくどうでもいいんですよ。奇数かー。まあ大丈夫、君の片割れは必ずいるからね。運命の赤い糸、バリバリにつながってるから大丈夫だよ。で無心で干せるんですよ。ペア探しにかかる時間もゼロで、手に取った順にほしてけば誂えたようにペアができていく。まるで魔法のようだ。
この安心感ったらないですよ。すごいいいわ。教えてもらって良かった。圧倒的感謝💪💪💪💪😂😂