さっき、エッセイを書いている間に一息入れようと思って、ウィスキーを口に含んだのだが、思いついてしまったのである「何が面白くて生きているのだろう?」と。書いている時。これは、まあまあ楽しい。しかし、生きるために書いている訳ではなく趣味だ。
他人との比較で言えば卑近なところで弟だが、彼は一流企業で働いており年収もあるが、実家に戻ってくる時には、いつも疲れた顔をしており、彼の写真を友人に見せた際に「半グレみたいだ」とも言われている。自分でも平々凡々としたサラリーマン生活を送ってしまったと言っている。
もっとも彼の場合、娘がいるので子供を食わせなければならないという使命感はあるだろう。しかし、私の場合それがない。薬の副作用で精子に催奇性があり子供を作ることができない。
筒井康隆が19世紀のロシアの文豪の小説が面白いと言うので、読んでみようと思うが、亡くなった宮崎学ほど面白いのかと言われればダウトがつく。もっとも、宮崎の場合、もちろん19世紀文学は押さえているとは思うが…。
音楽、ギターを練習しているが、集中力が二分くらいだ。聞く分にはまあまあ、聴ける。ムーディーなカントリー・ミュージック。しかし、これも何も生きるために聴いているという訳ではない。
美味いものを食うために生きているのだろうか?一昨日友人と行った居酒屋は確かに良かった。お代は一人、3,500円で今日給が4,000円なので豪遊してしまったが、これは、面白く生きているための理由の一つになるだろう。ただ、薄給の身では毎日行けるという訳ではないのが残念だ。
酒?これは飲んでいる時は不思議な雰囲気に入る時が好きだが、それが面白くて生きている訳ではない。
異性?実は、私は女性が好きという訳ではない。それは、今まで散々な目に遭っているから。私に女を見る目がないのもそうだが、とにかく女運が悪い。元カノと最近デートを始めたが、彼女が好きで生きているという訳ではない。じゃあ、何で韓国エステに行くのか?だが、毎回必ずしも昇天しているという訳ではない。
こういう風に考えると、うまいものを食うために生きているというのが、私の場合、最もアンサーに近いのだが、それは情けない話だ。なぜならば、食い意地が張っているだけだから。
何が面白くて生きているのかとは、違うが私の生きている目的は、躁鬱との闘病だ。しかし、闘病が面白くて生きている訳ではない。
また、こういう風に考え出すと何が面白くて生きているかさっぱり分からない。もっともハマスとイスラエルの戦争を見て、面白く生きるという事が贅沢なような気もする…。生きているだけで必死な人たちもいる訳で…。
と、まあ、私はいきなり鬱期に入ったようである。ただ、私のこの厄介な躁鬱の根本の根本を作った薬を処方した精神科医を猟銃で撃ち殺してやろうかと夢想する事はある。大阪の〇川拓って言うんだけれども。
実は、この躁鬱というやつは鬱の一種かと思われている方も多いと思われるが、別物でしかも単独の鬱よりも自殺率が高いという代物で気をつけなくてはならない。仕事に行くのが馬鹿らしくなってきた。
あんなPCとにらめっこで眼精疲労をおこし、右手人差し指でクリックを四六時中繰り返す仕事など、苦痛以外の何物でもない。少し、放蕩するか?そして転職だ。日本語教師(教授法の再受講に30万かかるが)か障害者雇用で、調べてみるか。