戦争の悲劇の本質はこれかも知れないよね。
https://www.youtube.com/shorts/8z0ZP6nfFyQ 負けた戦争には当然に、さばかりか勝った戦争にも、負傷者はいる。
ジョニーは戦場にいった。
それでも僕らは戦争を実行する前提で語らなければならない。
なぜなら僕らは主権者で、時には戦争を選んででも守らなければならないものがあり、それ故、国が戦争を決めれば、賛成でも反対でも僕らが主たる責任者であり、負傷した兵士に対する社会保障は、僕たち一人ひとりで分かち合わなければいけないからだ。
昔、webの投稿にこのようなものがあった。
「そんなに非武装無抵抗主義の有能さを信じているなら、この国を一度分けて、非武装無抵抗主義の国と、武装し時には戦争も辞さぬ国に分ければよい。
非武装無抵抗主義者は実質外患とつながっているから、かつ非武装故に海外勢力の指導下に入らざるを得ず、国を切り売りし始める。
そしたら「戦争も辞さぬ国」が立ちあがり、「非武装無抵抗の国」の国民を○すか強制収容所に閉じこめてでも、「非武装無抵抗の国」を占領し、晴れて国土全体が「戦争をも辞さぬ国」に統一される。
かくして海外勢力にも頑健に立ち向かえる国と成る」
全く持ってその通り、非武装無抵抗主義を掲げるものには発言権すらないということになる。
発現だって理論武装の一種であり、発現すること自体非武装を否定することになるのだから。
かくして、非武装無抵抗主義を掲げるものに耳を傾けるものは、大人の責任感を持たないものと成る。
無駄に年を取っている僕は、一番幼い頃の記憶として、伯母と母の上野駅前での会話を覚えている。
母:「さっきの乞食、片足がなかったね、やだやだ」
伯母:「あんたちゃんと見た? 傷痍軍人さんだよ」
この言葉に込められた背景を思い浮かべるとき、僕は何ともいわれぬ申し訳なさを覚える。