軍隊を「人殺し」と市民も兵士も規定することがあるがおかしい。

 そもそも前提からしておかしい。

 しかし、その前提が間違っていることにはほとんど誰もが気がつかないので、僕が「おかしい」というと僕の方が裸の王様になる。

 だけど一回でいいから根本に立ち返って欲しい。



 軍隊の主任務は敵兵の殺害で、敵兵を殺害できればどんな状況だろうと目的達成ですか?



 軍隊の対応相手を「敵性兵力」「敵性軍隊」と捉えるのはまだいい。

 ただ、 百戦百勝という言葉がある。

 闘わずして勝つ、という言葉もある。



 是故百戰百勝、非善之善者也。

 是の故に百戦百勝は、善の善なる者に非ざるなり。



 不戰而屈人之兵 善之善者也

 戦わずして人の兵を屈っするは、善の善なる者なり。

 (孫子 謀攻篇より)



 百戦百勝は最高の戦い方ではない、そもそも戦わずして敵性勢力による我が方への攻撃の意志を失わせれば、それが最高の戦い方だ。



 一九四五年の敗戦以降、日本の国土、領土で紛争があっただろうか?

 ……、まあ無くはなかったんだけどね、千島列島とか、竹島とか。

 でも、それ以外の本土と呼ばれやすい四島や、より小さい離島が戦場になったことがあったか?



 いや、ない。

 

 この一事を持ってしても、自衛隊の存在、外交の努力、兵器開発者、整備者の技術力、そして彼の大戦の終戦間際のレームダックに陥った陸海軍の自死を前提とした、狂気のように冷静で最後まで工夫を凝らす戦い様、これらが混合して「日本には攻め入るまい」とさせてきた。

 戦わずして敵の戦意を挫いてきたのだ。

 その上で改めて問う。



 軍隊の主任務は敵兵の殺害で、敵兵を殺害できればどんな状況だろうと目的達成ですか?



 違う。

 まず、戦わずして勝てれば、それが最高である。

 その場合、彼我に直接の戦闘での犠牲者は出さない。

 これにより、まず「敵兵を殺害できればどんな状況だろうと目的達成ですか?」については「違う」ということをご理解いただきたい。

 基本的に日本の場合は、自国の防衛が作戦目標になるから、仮に彼我の死傷者の数において、百対一の差があったとしても、自国の領土である離島を占拠されれば、その戦闘は敗北である。

 さばかりか、そこを橋頭堡に、第二、第三の紛争が始まろう。

 戦闘の目的は敵性兵力の殺害には無い。

 戦争は人殺しなんかではない。

 単純に敵性勢力に自陣を取られるか、守れるかで、勝敗は決まる。

 なんとなれば出て行っただけで相手が怯えて逃げてくれれば、

 あるいは「出て行くぞ」と宣言しただけで相手が怯えて逃げてくれれば、それだけで当方の勝利が確定する。

 「軍隊の主任務は敵兵の殺害で」はない。

 主たる任務はあくまで作戦目標の達成に過ぎず、敵性勢力の死者の有無は問われない。



 そもそも軍隊とは何か。

 それは、「生活基盤の整っていない条件下で」「独立して生活を維持し」「更には人間の営みの中で最難関といえる戦闘を継続できる組織」のことである。

 ちなみに上記の条件を整えられる最低単位が「師団」と呼ばれ、一万人から二万人程度の組織になっている。

 当然、全員が兵士ではなく、輸送科、衛生課、需品科、会計科なども含まれる。

 理想としては二万人規模で一師団としたいところだが、近年、どの国も兵員不足が語られ、一万人強程度で一師団としている国も少なくないと聞く。

 上記の前提があるから、生活基盤が壊滅した大災害の時には、警察や消防、救急だけではどうしてもできない分野があり、軍の派兵ということになる。



 さて、軍隊とは「独立して生活を維持できる組織」で、「敵性兵力の死は目的ではなく」あくまで「目的は作戦目標を維持すること」だと整理した。

 その上で、災害時に最後の最後に希望をもたらしてくれるのは、独自の生活基盤ごと現地で活動出来る「軍隊」にしかできない役割であることも整理した。



 そこで聞こう。

 大規模な山火事で消防隊では対応しきれず、点在する、しかし大勢の人数の人々の非難を支援し、海水の空中散布などでなんとか消化しようとする軍隊に対して、あるいは油田の火事の消火方法と同じように、炎の侵攻による延焼範囲を防ごうとして、MOABのような燃料気化爆弾で周囲を酸欠にして火の侵攻を止めようとする軍隊に対して、「人でなしの火消し組織」「火を消すのに爆弾を使用して、自然に対して悪いと思わないのか」などと糾弾する人がいようか?

 あるいは太陽光発電のために土手が切り開かれたことが切っ掛けで、数百年、水害に遭ってなかった地域が水没し、屋根に上がって助けを求める人をヘリコプターで救い出す際、周囲をうろつく報道のヘリが危険飛行を繰り返すものだから、それら報道ヘリを何らかの形で現場から排除して人命救助を成し遂げた部隊に対して、「報道の自由を妨害する隠蔽組織」「報道の目の届かないところで人名救護にかこつけて、私財をかすめ取った犯罪組織」と報道したところで、肯んじる被災者はおろうか?

 あるいは国の重要産業である畜産において、その経済的価値を皆無にし且つ、海外から「汚染国」として忌避される食材の輸出もストップさせる、『赤松禍』で有名な口蹄疫が発生した時、警察機構では人数も制止力も足りないなか、戒厳令の発令を受け、特定の地域の物流を軍隊が厳しく制限したとして、「基本的人権の移動権を、武力を持って侵害する反国家組織」「畜産家を災害地域に拘束する無法な暴力集団」と罵ろうとて、その言説にうなずく畜産家があるか?



 人生に「絶対」は無い事を承知で敢えて申し上げる。

 そんな学生レベルの正義感の履き違えを侵す日本人の有権者など「絶対」にいない。

 襲い来る恐怖に対して、最適かつ最も合理的な方法で、その被害者を少なくしようと力を尽くしたり、被災者を一人でも多く救助しようと能力の限りを尽くす団体に対して、「無法者」と罵る言葉を、よし、とするのは日本人の大人がやることではない。

 ならばどうして、戦地にて敵性兵力団体から死者を出したということで「人殺し」と呼ばれることがあろうか?



 これも、カクヨムの近況ノートで散々語ってきたが、敵地の征服のためには歩兵が絶対に必要で、歩兵の標準装備は突撃小銃である。

 なぜ、拳銃じゃないのか。

 拳銃の射程距離はいいとこ30m~50mで、戦場の交戦範囲は数百メートルから1kmに及ぶからだ。

 流石に小銃で一キロ先の敵性兵士を射貫くのは現実的ではないらしい。

 しかし、かりに100mも離れれば、それはもう「誰かが誰かを狙う」のではなく、「当方を銃撃してくる敵性存在の攻撃を停止させるべく、最も単純且つ効果的な方法」として、小銃による反撃や、携行型迫撃砲による砲撃を加えたりする。



 しばらくして敵性勢力の攻撃方向から銃撃が止む。

 伏兵に警戒しながら匍匐前進を選び、時間を掛けながら進む。

 結果、

 敵性兵力が撤退していてもぬけの殻のこともある。

 敵性兵力が全滅していてそれで攻撃が止み、作戦目標が果たせることもある。

 誰の弾が、誰に当たって、それが致命傷になったかなんてわからない。



 そう、時に自分が理由もわからず死ぬ可能性があるように、時には自分が撃った弾か、僚友が撃った弾かわからないまま敵兵が死ぬこともある。



 今を生きるご意見番達は実は「戦争を知らない、純粋真っ直ぐな子供達」だ。

 米軍のWGIPに乗せられたともいえるし、自ら引きはがすことのできなかった無能者ともいえる。

 ある、朝までギャーギャー騒ぐだけが取り柄の番組の司会者は、往事、ジャーナリスト面して米兵にこう尋ねたそうだ。

 「戦場で人殺しをした感覚とはどんなものだ」と。

 米兵は嫌な顔をしながらも、極正直に、極真っ当に「わからない」と答えた。

 そりゃそうだ、彼からみたら子供世代、孫世代に当たる僕だって、少し本を読めばわかる。

 戦場で、誰が誰を殺したかなんてわかりっこないことを。

 その、今でも自称しているジャーナリストは、重ねて米兵にこう尋ねたそうだ。

 「戦場で人を殺しておいて、その感覚がわからないはずが無かろう。

興奮したのかね、悔悟の念を抱いたのかね、それとも人殺しが楽しくなってきたのかね」

 米兵は流石に怒り、自称ジャーナリストの向けてきたマイクをはねのけると、それっきり黙ったままだったという。



 中学生になるまで「戦争はよろしくない」という観念を持たない子は危険である。

 なにか異常な性格をもっていると訝しんでいい。

 しかし高校を卒業し、大学を卒業してもなお「戦争は絶対悪」と考えている子は、時に極端なことをするとみて、その動向に少しばかり意を注いでもよいかもしれない。

 なぜなら人の世に「絶対」はなく、何かを「絶対悪」と評価することは、自分もしくは自分の指導的立場の人間を「絶対善」と短絡することにつながり、人の世に「絶対」が無い以上、「絶対善」とは大概の場合「悪」の要素が強いからだ。

 浅間山山荘事件や、サティアンの実体として、正義を背中に背負ったはずの集団がどれだけ凄惨な事件を繰り返してきたかを振り返れば、その時代に生まれていなかったものでも、文献を当たれば分かる。



 人は「正義」を背負った時にこそ、一番残虐なことができる。



 左側に阿呆の腰掛ける国会では、政権与党に悪魔の証明を強いてドヤ顔でNHKに映る活動が流行っている。

 もう十数年先、もう少し日本人が賢くなり「悪魔の証明は要求する方が馬鹿で、それでも強いるのは精神的虐待に等しい」と判断できるようになった時に「令和の時代はこんな野蛮な人権蹂躙行為が行われていた」と振り返られるとともに、当代の日本人達のほとんどに、未来の日本人から「野蛮人」のレッテルが貼られるだろう。

 あるいは「サル」とか「蛮族」と呆れられるかも知れない。



 僕は当代の人々と十把一絡げにみられたくないからこういうよ。



 悪魔の証明が人権蹂躙行為とわかっている昭和生まれの令和の人間がここにいるよ、と。

 そして、日本国防軍が将来にわたって、広義の自衛のための紛争において相手方に死傷者を出す可能性は弁えてるよ。

 それでも、国防軍は人殺しのためだけの組織ではないこともよーく理解しているよ、と。

 作戦に参加した兵士達は「人殺し」を目的に参加なんかしていないよ。

 ただ、崩落する斜面を押しとどめるように、あふれ出る水を押さえ込むように、燃えさかる炎を消し飛ばすように、なぎ払う風にあらがうように、

 襲い来る殺意に飲み込まれぬよう、最も単純且つ効率的な武器による反撃を選んだばかりに、敵側に死者が出ても、

 敵性兵士の死は、

 愚かな保身に走った敵性政権の指導者の指揮によるものであって、国防軍が人殺し組織だからではないよ。

 むしろ国土を守ったなら英雄だよ。

 英雄を人殺しとなじるものがいるなら、それは日本国籍を持っていようといまいと、心からの日本人ではない、なにかの正義に毒された日本人の亜種に過ぎないよ。



 お手すきなれば、下記、参照されたかし。

 https://www.youtube.com/shorts/4P5tE4ib4AQ

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