LGBTQは、果たして本当に人権問題か?

 そもそも日本でLGBTQの権利を主張するなら、その一丁目一番地として改憲を語れ、といいたい。

 改憲を言わずに権利だけほしがるのは、よその国の方が得意だろうから、そちらに任せるが良い。

 前にも書いたが、そもそも結婚が両性の合意の基に成立するということは、日本国憲法第二十四条第一項にまで遡って制定されていることであり、同性婚を認めるのであれば、まず憲法を改め、その上で民法を改めなければならない。



 憲法に帝国も平和もない。



 ただその国の国民の当たり前をはっきりと文章に表したにすぎない。

 LGBTQの権利を主張するなら、まず、今の憲法を「人権蹂躙憲法」と非難してから始めろと、腹のそこから叫びたい。

 それもできずに権利主張。

 ふざけんな、前の時代の当たり前を「蒙昧」と評価し、それまで避けられてきた考え方を新しい時代の新しい常識にするまでに、人類はこれまでどれだけ苦悩の道を歩んだことか。



 改憲を唄わずにLGBTQが求める権利を手に入れるならば、それはもはや人権ではなく特権である。



 首相に頭を下げさせたと、マスゴミはこぞって取り上げるが、首相が頭を下げたら話が進むなどと考えていたなら、それは社会の理不尽に遭わずにすんだ恵まれた産まれか、華麗にかわして味わうに至らなかった世渡り上手か、日本共産党のようなカルトに埋もれたか、そうでなければ僕のように障害者の一角に数あわせをする白痴なのだろう。

 自己の生時の性別と、自分の心の間にある大きな違和感に気がついたものが、その事実を公けにするまでに、如何な苦難があったとしても、「お前は結局、公開するきっかけに恵まれただけだろう」「お前の努力がそうなさしめた筈がない」としか思えない。

 実際、出すに出せない強烈な違和感故に、無限に続く苦悩を抱えたまま、社会が本質的に「性の違和感を感じることにすら距離を置こう」とする事実に諦めを通り越して無関心になった違和感者は「そっとしておいて」という一言すら漏らすことに意味を見いだせず、ただただ空を、海を、山を、星を眺めて今生が過ぎ去ることを静かに待つしかない。

 そんなサイレントな人の方が大勢いるし、特権階級を得ようとしている向きには白目すら向けず、他に適当な言葉がないのでこの言葉を選ぶが、「浅ましい」モノとしてカテゴライズしている人達の方が多い。



 何回かいったけど改めていう。

 僕はアライじゃないしアライになれないし、なろうとも思わない。

 男性同士の愛情というものが全く理解出来ない。



 自分の感性の根本、真髄から理解出来ないものを理解しに行こうとも思わない。

 おそらく、目の前で、男性同士の同性愛者が何らかの迫害に遭っていたとしても、その場を無言で後にするだろうし、絶対に彼らの側に寄り添うようなことはしない。

 無論、迫害する行為もとくに止めない。

 当事者達だけで、黄泉比良坂を争うように降りていけばいいと思う。

 この思いを「なぜ」とか「なんでそんなに冷たいの」といわれても、答えようがない。

 なぜなら、LGBTQの人達が、体と心の性別の違いに悩んだり、同性に愛情を抱くのと同じ「気がついてみたら、それが自分の自然な感性だとわかったから」だ。

 LGBTQの人々が結婚という、数千年の人類史において極めて重要な「両性の合意の基に成立」する儀式、制度、生活、そして死後の在り方にまで及ぶ、人類共通の伝統的様式を、ただ自分たちの感性がそうだから、という気分だけで、軽々に侵してはならない。

 それぐらい「結婚」というのは重たい出来事だと思っている。

 そしてこの考え方を非難されるいわれもない。

 だって僕は僕の感性でそれが正しい、当たり前だと思っているからだ。

 そう、それはLGBTQの人々が自らが「そう」であることを自然に受け止めているのと全く同じように。



 そしてこれも誤解されたくないから何度も繰り返し主張するのだが、僕は僕の感性として、女性同士の同性愛というものは成立しうると思っているし、それを尊いものだと思うし、そういうカップルがもし身近にいたら、ほほえましくそっとしておきたいと願うし、そういう人が困っていたら(もちろん僕にも大切な家族がいて生活があるので全く虫よりも役に立たない存在だけど)せめて話しに耳を傾ける姿勢を持ちたい。

 でも、例え女性同士であったとしても、「結婚」という文明には並ばせてはいけないと思う。



 人間は贅沢で、何に「自由」を感じるかは、どんな制約下に生活しているかによって異なる。

 どこか収容所に収められ、ろくに運動もできない環境下が続けば、ただ塀のない荒野を走り抜けるだけで「自由」のすばらしさに心躍らせるだろう。

 逆に毎日走り続けなければ成立しない労働を強制されているものがいれば、風よけとなる塀の中で、太陽の日を浴びながら一日をゆっくり過ごすだけで「自由」のすばらしさに心癒されるだろう。



 結婚とは両性の合意の基に成立する文明で、侵されざるものでなくてはならない。



 憲法第二十四条に立ち戻ってみよう。

 異国の蛮人が、暴力を背景にした権力の行使者として、とってつけたような経緯の中で「やっつけ仕事」として作ったにしては、文章として良くまとまっている。



第二十四条 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。



 結婚には、ただ男女がお互いに気が高まって同一の居所で生活を共にすることだけではなく、制度的に様々な取り決めがある。

 お互いのいずれかの姓を共同して名乗り、自らが産まれながらにして持った姓を名乗らなくなったものは死後、その遺骨を自らが産まれた実家ではなく、姓を名乗った家の一員として、その家の墓に収まること。

 そして、もし一方に不幸があった場合には、先だった配偶者の財産は、残された配偶者の所有となり、また、両性の間で子宝に恵まれた場合には、その子々孫々にも財産分与の権利を持たせること、だ。



 同性同士の結婚式を執り行うかどうかは、その式場の判断に委ねるのがよいと思う。

 「同性婚を行っている式場でなんか式を挙げたくない」という向きもいれば「同性婚を取り持っている懐の広い式場だ」という向きもあろう。

 その宴会の題目を当人達が「結婚式」と呼ぶことにも理解を示し、法律で禁じるようなことは必要ない。

 ただの宴会をどのような題目で呼ぼうと、例えそれが身の丈に合っていようがなかろうが、それを制する文化は日本にはそぐわないと思う。



 そして別姓が基本で、別姓が故にお互いの死後はお互いの実家の墓に収まるのが本筋ということになる。

 どうしても同姓を名乗りたいのであれば、養子縁組制度を元に、戸籍制度本来のあるべき権利と義務及び社会的統制を損なわないように、必要に応じて制限を定めた上で適用するのがよろしかろう。

 ただし家族一族に「LGBTQと同じ墓に収まりたくない」という意見のものがあれば、そちらの意見が尊重され、同性愛者達は二人で新たな家をかまえたとして、二人が収まる墓を用意するのが筋だろう。



 財産については、老後の生活に最も重要であろう不動産についてのみ、かつ、お互いが同一の居所に年二百五十日以上共に生活している、などの条件を定めた上で、仮に先立った配偶者の所有だったとしても、残された配偶者が死を迎えることを期限として、残された配偶者に居住権を認めるのがギリギリ限界だろうと考える。

 たとえば二人が親に恵まれなかった子供を養子にとって二人で育てたとしても、同性カップルとその養子の間には、相続権のようなものは適用されない、とするのが、両性の合意のみに基いて成立する婚姻との明確な違いとして用意されるべきだと思う。

 たとえば、男性同士のカップルがあり、その片方が自分の姓の在り方に気づけなかった時期に、女性と性行為をして、結果その女性が妊娠し、出産し、その後認知を求められ認知したとしても、出産した女性ではなく、別の男性を生涯のパートナーとして選択した以上、認知された子は良くてそのカップルの養子にしかなれず、そもそもそのカップルが養子縁組制度を元に同じ戸籍に収まったものであるため、そのカップルが了解しようとしまいと、非嫡出子は二人の戸籍の養子にしかなれず、いわば同性カップルとその間で暮らしている子供は、そもそも擬制の兄弟姉妹以上の関係にはなれず、血流の兄弟姉妹ですらないことから、その非嫡出子には相続の権利が認められない事が望ましい。



 かくして、どこか婚姻に似ながらも、婚姻とは明らかに違う法制度が整備され、そして何より、この同性同士の合意に基づく同棲生活を、例え日常生活で本人達、あるいは周囲の支援者がどういう言葉で呼ぼうと、法律上は絶対に「結婚」とは呼ばず、「選択的同棲生活に対する法的保証制度」みたいな、浪漫の欠片もないような名称が与えられて、初めて現行憲法下での同棲生活に対する法的保証が与えられるものだと思う。



 これを超えたければ改憲しろ。

 「結婚」の二文字はそんな軽いものじゃねえんだ!



 そもそも夫婦別姓って、義父母と夫と子供達は同じ墓に入っても、妻は実家の墓に収まるしきたりにまで影響が及ぶことだぞ。

 死後とはいえ母親と子供を分かつ制度は、日本の風には合わない。

 そこはかくして、そこは濁して、マスゴミと左捲きはさも「人権迫害」のように訴えるが、そんなもの用意してしまえば、やがて日本人の死生観をすら歪めかねない。

 仮に妻の側が「夫の儀両親と同じ墓に入りたくない」といいだしても、最初の選択肢に来るのは、夫側からの「じゃあ俺たち夫婦で新しい墓をかまえるか」という考え方の是非を検討することから始まる。少なくとも「俺は親の墓に入る、お前は好きに墓をかまえろ」とはならない。

 だって日本人だもの。




 日本は山岳がちな島国で、雨量も多く地下水も多い。

 土葬という方法は、その腐敗した汚染が、地下水を侵すことが多く、土葬が認められた土地は限定的で、手続きも複雑になる。

 ユダヤ教のそれについては勉強不足で知らないが、キリスト教やムスリムでは、「未来に神が復活し、その時亡くなった人も蘇り、等しく審判を受け、宗教に敬虔な魂が天国に召される」と考えられており、その時に生き返る条件として土葬されている必用があり、火葬は、例え本人の死後であったとしても、死者に生き返るべき体を残さない方法で、生きながらにして炎に身を焼かせる「火刑」同然の仕打ちとされる。

 日本の考え方は違う、古くは「棺桶」という言葉に残されているように、人が一人入るほどの桶に収めて、桶ごと地中に埋めた。

 埋めたところは土を盛り上げ塚としておき、やがて地下部の遺体が腐敗し、桶が崩れると、盛り土した部分はつぶれ、穴になることもあったという。

 仏教の布教が進むにつれて、煩悩にまみれた色欲の源となる肉体を炎で焼いて浄化し、浄化した結果残った遺骨を骨壺に入れて埋葬する、火葬の風習が広まった。

 日本には平安の昔から「細菌」という概念はなくとも「移る」という観念はあり、遺体をそのまま埋葬する土葬という方式は、汚染源になるという認識が広まることで、火葬を一般的且つ理知的、良識的な埋葬方法として用いられることが「当たり前」となった。

 日本に出稼ぎに来て、家族を無し、子を産み孫に恵まれ、そして亡くなったムスリムに対して、日本の風は、火葬を前提条件にするが、「それはむごい」と考え、勝手に土葬するムスリムも中にはいるという。

 これは恵まれた地下水資源をもつ日本にとっては致命的な環境汚染であり、ムスリムを火葬にすることは、これは差別ではなく、日本人と同等にムスリム対して行う「平等」の考え方に基づいたやり方だといえる。

 火葬が嫌なら生前のうちに、生まれ育ったムスリムの国に帰るがよい。

 それをせず、日本国内に在住しながら亡くなったのであれば、多くの日本人と等しく火葬に召されよ。

 繰り返すがこれはムスリム差別ではない。

 だって大勢の日本人と同様の対応をしてあげるだけのことだからだ。

 それに対して「嫌だ」と考えたり、発言することは自由だが、衛生観念上、そして日本人としての身仕舞いの仕方として、火葬によって身を清らかにしてあげることに、どうして人種差別の行為であることがあろうか。

 郷に入っては郷に従え。

 日本の当たり前は多くの日本人に正当な方法として認められた火葬にある。

 ムスリムの風がどうであれ、日本国内で亡くなったなら火葬が決まりと心得よ。



 LGBTQに対する考え方も一緒だ、例えその人がLGBTQなどの肉体と精神の性の不一致に苦しもうとも、「両性の合意のみに基いて成立する婚姻」を許さないものなどいない。

 そもそも誰もLGBTQを差別なんてしていない。

 例え同性のほうが好みであろうと、同性にしか愛情を抱けなかろうと、憲法にも認められた「両性の合意のみに基いて成立する婚姻」を選択した場合、それを止めるものはいない。

 結婚には子を成し、増やし、育て、次代を担う日本人を維持するあるいは増やす事が、義務ではないものの、義務に非情に近しい責任として期待される、ということもある。



 ただ、恋人同士が好きあって、ラブラブチュッチュな関係にあるのとは違う、国民として期待された「世代を繋ぐ役割」や、そもそも当人達の背後にある、家族と別の家族との親交も含めた社会的に大きな役割がある。

 そういう背景があってこそ、たとえば戦国時代でも、政略結婚という方法が、重要な政策として活用されてきたし、当代においても、わざわざ憲法に「両性の合意のみに基いて成立する」と明文化されたされたのだ。

 戦国武将や江戸期においては衆道という営みも、現在とは比較にならないほどありふれていたともいわれるが、それでも、男性同士の「婚姻」という考えには至らなかった。



 そう、伝統的な日本の価値観として、同性愛は正式に認められざる進み方であり、同性の間の婚姻という制度はまとめなかったものの、同性同士の同居生活を禁止することもなかった。

 事ほど斯様にLGBTQに対しても平等に接している日本社会に、LGBTQに対する差別なんてない。

 そして日本語の「結婚」という言葉には、同性同士の公的に、資産的に、社会的に認められた同居生活という意味はない。

 どこにも存在しない「差別」をさも存在するかのように喧伝し、日本の伝統的秩序にほころびを生み出しかねない「同性婚を認めろ」といっている彼ら彼女らの目的は「同性婚」にはなく、日本の社会的伝統、ひいては日本の国民的つながりを破綻させ、大きな意味での日本の弱体化を狙う、敵対海外勢力の日本破壊運動の一つにしか過ぎないのだ。



 たとえば安易に同性同士の「結婚」を認めれば、少子高齢化の近い未来に、痴呆などの症状が進んだものの、その保有財産は大きく、しかしながら身寄りのないお爺さんに、奸計を持つ悪漢が近寄り、折角お爺さんが入っていた老人センターから引きずり出し、介護という名目で同居を始め、同性婚が認められたら介護を放棄し、お爺さんを死に至らしめ、そのお爺さんの財産を丸ごと相続する、なんて事件が必ず起こる。



 というより、起こる事を待ってしか取り得ない運用がある。



 同性同士が「選択的同棲生活に対する法的保証制度」を認められる要件の一つとして、複数の医師からなる、「当事者は同性にしか愛情を感じられない」という判断が入るべきであることは、以前にも書いた。

 制度が始まったばかりの時には、医師達も厳格な基準を用意しても判断に困り「同性愛者認定」を出す方に動かざるを得ないかも知れない。

 だってそれが客の望むことだし、自分は何ら規約違反をしていないのだから。

 しかし、一度か二度、制度を乱用する事件が起きれば、そのことを契機に基準そのものがより厳しい要件になるか、規約の運用指針に対して行政側がより厳しい運用を定める通達を出すことになる。

 これがあれば「同性愛非認定」を出しやすくなり、一部のLGBTQには酷な判断が成されることになるかも知れないが、日本の在り方は守られることになる。



 制度とは一度作っただけでは終わらず、その隙間を突いてくる悪漢への対処を含めた現実的なメンテナンスを重ねることで、ようやく制度として安定する。



 LGBTQを支援する姿勢をSNSでうたったり、同性婚を主張するもの達は、そこまでの提案や対策を持っているのか?

 仮に持っていたとしても、僕は聞いたことがない。

 人々の耳に届かないようにしか発表していないものは、それは「発表していない」という態度表明である。



 「私はアライです」とひとことで書いただけで立場表明したつもりになっているものがいるが、では憲法を変えてでも同性愛者の願望を現実にするだけの覚悟をもって表明しているのか。

 否、多くはファッションとしてネットという媒体に打ち込んでいるだけで「べつに改憲とかそんなこといいじゃん」と無責任な返事しか出来ないものがほとんどである。

 僕はこの問題は非情に根深いものがあると思っているし、だからこそ軽々に「アライ」という立場表明をしたくないし、実際に男性同士の同性愛を全く理解出来ないというその一点だけで「アライ」を表明するには欠格だと考えている。




 第二十四条 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。




 ほんと、野蛮人がやっつけ仕事の一環としてまとめたにしては、結婚のなんたるかを要領良く表している。

 「結婚」という状態は、歴史的にも文化的にも人類史としても、生物には生と死が有りただ子作りを成し遂げることでその種の維持ができる事実も含めて、両性の間でのみ成立し守られるべき状態であり生活様式であり、愛情の一歩手前の恋愛の最上級の形であり、そして社会的権利である。

 同性の間に生まれた、世の中の大多数と比べて特殊な、相互の愛情の形を積極的に禁止したり迫害しないことで「認めた」としても、その在り方の先に「結婚」という言葉を当てはめてはならない。

 これは差別ではない。

 だって同性愛者が異性と結婚することを誰も止めていないんだから。



 ほんとに同性愛者達の愛のある暮らしを制度としてもサポートしたいのであれば、憲法を改正するのかしないのか、しないならしないなりに「結婚」がもたらす行政的効果と同等の効果をもたらす制度を作るのか作らないのか、その制度はどこまでの権利を認めどこ以上の権利は認めないと線引きするのかしないのか、作るなら作ったなりにその制度の正式名称をなんと呼称するのか、そしてその理念は何で、何を目的として運用されるのかされないのか、運用されるならその悪用としてどういう状態が考えられるのかそれに対する対処方としてはどういう対策が考えられるのか、その対策を持ってしてもその理念とは反する形で悪用された場合どのように裁くのか、そして悪用された場合には、どのように運用の制限を掛けて、本当にその状態にある人達に正確に制度の恩恵を届けるのか、そこまでの案をきっちりとまとめて、それが「当代の日本人の目から見て、国家を混乱させたり弱体化させる道につながらないと認めてもらえる努力をするのかしないのか」までを描いて世に問うのが、本当に権利を希求するものが、

 個人のわがままを超えて社会に認められるようにするための、

 最初の一歩、一丁目一番地である。



 それもせずに左捲きの連中に担がれて「権利をよこせ」「差別をするな」とほざいても、世間はそれを騒音としか捉えんよ。

 そしてそういう世迷い言は、ブームとして一過性のものの一つに扱われた途端、社会の関心は時間とともに遠のき、本当に同性同士の愛の形を正式なものとして社会に受け入れてもらいたいと願う人達の、慎ましくささやかな願いを永遠に閉ざす呪いとなるだろうよ。

4件のコメント

  • すみません、私MtFなので色々と思うところは有ります。でも、それ関連の活動をしている人って何か勘違いしている気がします。

    結婚する気はさらさら無いのですが、戸籍上の性別の関係で女性としか結婚できません。見た目はほぼ女性なんですけどね。
  • ブリュヴェールさん。

     わざわざ、LGBTを擁護しないかのような記事へのコメント有りがとうございます。
     本文内でも書きましたが、貴女がどんなにお苦しいか、私はその心情に近づくことすらできません。

    ただ、ノーマルの、ある意味「自分の苦しみ」ではないながらの考え方として、ブリュヴェールさんが将来女性の戸籍を手に入れられたら、私は、大きな拍手で貴女のそれからの人生を謳歌されるよう、祝意を差し上げたいと思います。

     啓蒙運動そのものがいかがわしいとはいいません。
     ただ、私が感じるのは「でも、それ関連の活動をしている人って何か勘違いしている気がします」というひとことで、ブリュヴェールさんが節度をお持ちの方だと解釈するばかりです。

     私は、間もなく五十歳になるというのに、育ち盛りの中学生男子を抱えながら、いち平社員として働く日々に、自分の思いとのギャップを突きつけられつつ、それでも十一個程度下の上司に諭されながら、なんとか頑張っています。

     立場と中身、対策と将来の展望は違えども、同じ空の下に生まれてきたもの同士、無理せず自分の手の届く範囲から、自分の境遇を変えられたら素敵ですね。

     今後、ブリュヴェールさんの身の回りで小さな幸せが重なり合い、大きな幸せとなることを期待し、お祈りしつつ、返信を終わります。
  • 性別変更は恐らく生きている間には無理でしょう、体力的にも経済的にも。50過ぎてからでは自己満足に過ぎないと思い始めています。
  • ブリュヴェールさん

     重ねてのコメントありがとうございます。
     お考え、受け止めました。

     貴女がそのように世界を受け止めているのであれば、それは貴女にとって、とても正しい考え方なんだと受け止められる私であればいいな、と思います。

     実際には、私には理解しようのないもやもやというか、落ちつかなさというか、割り切れない想いも有るのかもしれません。

     それでも、フツーに考えればこの先の人生も長いです。

     いつか、なにかの技術革新か、なにかの制度改革か、なのかはわかりませんが、今のブリュヴェールさんの抱く気持より、ホンの一歩でも、活きやすい状況が来るといいな、と祈ることしかできません。

     MtF、FtMの方々にも幸あれかし。
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