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私の名前は菜々美。ありふれたOLで、毎日の満員電車に少しだけ、いや、かなりうんざりしている。揺れる車内、湿った空気、知らない誰かのため息。そんな日常から抜け出したくて、ある計画を思いついた。
そうだ、バイクに乗ろう。
風を切って走る爽快感。好きな時に、好きな場所へ。考えただけで、灰色の日常が色づき始める気がした。
早速、スマホで情報収集を始める。最近のバイクってすごい。手元のUSBポートでスマホの充電ができたり、スマートキーシステムで鍵をポケットに入れたままエンジンがかけられたり。未来がもうそこまで来ている。
「でも、鍵は携帯しなくちゃいけないんだけどね(笑)」
画面に向かって、思わず一人でツッコミを入れる。
たくさんのバイクの中から、私の心を射抜いたのは『屋根付きバイク』だった。これだ、と直感した。バイクの唯一にして最大の弱点、それは雨。でも、屋根があればその問題も解決するじゃないか。雨の日だって、あの忌まわしい満員電車に乗らなくて済む。完璧な計画だ。
私はすっかり舞い上がり、週末、意気揚々と近所のバイクショップのドアをくぐった。
「いらっしゃいませ!」
オイルの匂いが混じる店内で、作業着姿の人の良さそうな店員さんが迎えてくれる。年季の入った、でも綺麗に磨かれた工具が壁に並んでいるのが見えた。
「こんにちは。あの、屋根付きのバイクを探しているんですけど…」
「ああ、ルーフ付きのスクーターだね。こっちにあるよ」
案内された先には、まさに私がネットで見ていた、未来的で少し個性的なフォルムのバイクが数台並んでいた。キャノピーと呼ばれる透明な屋根が、まるで小さなコックピットのようだ。
「わあ、これです!これなら、雨の日でも濡れないんですよね?」
私の声は、期待で弾んでいた。これで私の通勤ライフは革命的に変わる。そう確信して、キラキラした目で店員さんを見つめた。すると、彼は少し困ったように眉を下げて、言った。
「うーん、いや、濡れるね」
「……え?」
予想外の、あまりにもきっぱりとした返答に、私の思考は一瞬停止する。聞き間違いだろうか。
「あの…雨だから、濡れないんですよね?屋根、付いてますし…」
もう一度、確認するように尋ねる。店員さんは「まあ、そうだよね、そう思うよね」とでも言うように苦笑いを浮かべた。
「いや、濡れるね!もちろん、真上から降ってくる雨はある程度防げるけど、横風が吹けば雨は容赦なく吹き込んでくるし、前の車が跳ね上げた水しぶきもかかる。信号待ちで止まれば、足元はじわじわ濡れてくるよ」
彼は事もなげに続ける。
「だから、結局のところ、雨具は必要でしょうね」
「はぁ?」
私は、間抜けな声で聞き返していた。だって、意味がわからない。雨に濡れたくないから屋根付きバイクを探しに来たのに、雨具が必要?それじゃあ、この屋根の意味は一体…。
私の混乱を察したのか、店員さんは笑いながらポンとバイクのシートを叩いた。
「だって、完全に濡れないようにするなら、窓やドアが必要でしょう?そうなったら、もうそれはバイクじゃなくて、車になっちゃうからね(笑)」
その言葉に、私は頭をガツンと殴られたような衝撃を受けた。
窓と、ドア。
当たり前だ。言われてみれば、あまりにも当たり前のことだった。横はがら空きで、足元も剥き出し。これでは雨が吹き込まないはずがない。私は一体、何を夢見ていたんだろう。
がっくりと肩を落とす私を見て、店員さんは「まあまあ」と優しく声をかけてくれた。
「でも、普通のバイクに比べたら疲労度は全然違うよ。直接、顔や体に雨が叩きつけられないだけでも、長距離だと天国だから。あくまで『雨天時の快適性を上げるもの』って考えた方がいいね」
なるほど。私の完璧な計画は、開始五分で脆くも崩れ去った。でも、不思議とがっかりした気持ちだけではなかった。知らない世界の、リアルな現実を教えてもらったような、妙な納得感があった。
私は目の前の、ちょっと不格好で、でも愛嬌のある屋根付きバイクをもう一度見つめる。
完璧じゃない。でも、なんだか面白そう。
「…じゃあ、その、おすすめの雨具って、ありますか?」
私の口から出たのは、そんな言葉だった。店員さんは「おっ」と嬉しそうな顔をして、待ってましたとばかりにヘルメットやレインウェアが並ぶ棚の方を指差した。
私の新しい日常は、どうやら完璧な計画通りにはいかないらしい。でも、それも悪くないかもしれない。そんな予感がしていた。