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「後回しにできる手は後回しにする」の巻

将棋の本の人気投票で、歴代一位になったこともある名著「最新戦法の話」に、たびたび登場するフレーズが「後回しにできる手は後回しにする」である。

将棋には様々な戦法があり、たとえば「矢倉」「穴熊」「中飛車」などは一般的に何となく「見覚えがある」くらいの知名度はあるのではないだろうか。

この本はそれらの有名戦法がいかにリニューアルされ、高度になっているかの解説やインタビューが中心となっており、進歩の過程や思想、有効性、などが細かく論じられている。

科学上の発見や、日用品の発明などの場合、「考え抜いて、休んだら急に閃いた」といった共通項があるのと同様に、将棋の戦法の進化の過程には、ほぼ一貫して「後回しにできる手は後回しにする」という考え方がある、というのが本書のハイライトのひとつである。

当たり前のように存在していた手が、

「実は、後回しにできる!」

と誰かが発見する。それを知った誰かがまた、その手順に磨きをかける……、その繰り返しが将棋の戦法の肝なんですよと、この本の著者は指摘している。

で、「シン・ゴジラ」に戻ると、本作は国防論や世代論、軍事、政治、経済、あるいは「戦後」といったテーマであれこれ論じられているが、ストーリーの語られ方でいうと、

「後回しにできる手は後回しにする」

というフレーズがぴったり当てはまるのではないかなと思う。

作中の人間関係が、実は結構あれこれあるのだが、みな後回しにされて「顔と名前と台詞、外見と喋り方」だけの人物がドカスカ出てくる。

「名前(役名)なんて、どうでもいい」と言わんばかりの、あたかも「出てくる」だけの務めをこなしているようなスピードで、しかも話の方は(人物描写を後回しにして)どんどん進む。これが舞台劇なら、ほとんど前衛的な喜劇のような速度である。

しかし、意外とそれが成立する。

後になって「どうもこの人とこの人の上下関係は微妙な感じだ」とか「どうもこの人は腹黒いのでは」とか、何となく思い浮かぶ程度だが、そのあたりの説明はゼロに近い。

余貴美子や市川実日子や石原さとみの演じる女性陣も、出ては引っ込みの繰り返しで、それでも「おそらくこういう人で、こういう過去があるのでは」と、ぼんやり思い浮かぶ。

とりわけ市川実日子の方はあれこれと考えやすい人物像だが、説明的な描写が異様なほど削られており、もはや「後回しにできる手は後回しにする」どころか、

「後回しにできる人物描写は後回しにして、結局しなくても済む」

くらいの領域にまで行っているのではないか。

「それでもちゃんと通じている」という点まで含めて、将棋の戦法とよく似ている。という訳で、この「後回しにできる手は後回しにする」という思想は、意外なほど射程距離が広い、応用の効くフレーズなのであった。

私が今、あれこれ考えているゲームのルールも、かなり見えにくい形で「後回しにできる手は後回しにする」の影響を受けている。

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