津村記久子の短編「地獄」を読んだら、生前にドラマ、映画、小説、その他あれこれの「物語」を消費しすぎた罪によって主人公が「物語消費しすぎ地獄」で罰を受けるという話だった。
これは結構、身につまされる鋭さを持っている。
フィクション以外の、他人の人生の修羅場(例えばスポーツの中継や、歴史的事件の映像など)を「物語」として消費して楽しむ、という罪などは、格別にフィクションを消費していない人でも該当するのではと思った。
その罪状の「罰」というのがあれこれあって、この部分は漫才として書き直せばM1グランプリの決勝ネタとして出しても、そこそこ行けるのではないだろうか。この人は漫才どころか、ゲームブック形式の短編まであるので侮れない。
とにかく「地獄」は私の理想の短編と言ってもよいくらいの出来で、それならなぜ今まで読まなかったんだろう、と不思議に思うほどだった。
一つはタイトルのセンスが何か微妙に私とは違うことで、もう一つは「高野文子っぽいが違う人」のイラストが表紙を飾ることが多いからだと気づいた。以前、「あっ、高野文子の絵だ」と感じて手に取って、「えっ!違う人なんだ……」と軽いショックを受けたことがあったのを思い出した。
作者本人の責任ではないにしても、イラストが微妙な所で「偽物感」を与え、それを見る人に「騙された感」を植え付けてしまう。これは結構、怖いことである。