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津村記久子などの巻

津村記久子の短編を少し読んで、あまりにも平易な言葉で書かれているので感心してしまった。

「人はうどんが好きだし、私もうどんが好きだ。そしてうどんは飽きることがない。」

これが「うどん屋のジェンダー、またはコルネさん」の書き出しだが、この先もずっとこんな調子で、気取りや自慢や卑下がほとんどない。ごく自然体、ごく平熱、ごく普通、といった感じで、かといってもちろん下手ではないのだ。

それどころか、太宰賞に始まって、芥川賞、川端賞、先ごろはついに谷崎賞、と、純文学系の文学賞獲得マシーンのようなコースを歩んでいる。

それだけの内容があるのに、なぜこれまで読んでいなかったかというと、どうも本文は自然体なのにタイトルの付け方に癖があって、それで避けていたように思われる。

「このタイトルはちょっとなあ……」

と思うような作品はたいてい波長が合わないものだが、この人は例外なのであった(エッセーでは「やりなおし世界文学」を読んでいて、これも素晴らしい)。

純文学作家の書く小説の場合、結末辺りで展開がグダグダになり、物事が有耶無耶になり、人間関係や「その後」が曖昧なままで終わっても「まあ、純文学だから仕方がない……」という諦め癖が読者の側に付いてしまっているが、この人はそういう責任放棄っぽい感じがなく、きちんと盛り上がってくれるのだ。

ところでジェンダーといえば、ちくま文庫の「どうにもとまらない歌謡曲: 七〇年代のジェンダー」も面白くて、夢中になって読んだ。

桑田佳祐の歌詞の分析で「男が歌っているはずなのに女言葉が紛れ込む」という技術は確かにその通りで、納得するというより目から鱗がいくつも落ちた。

ただ横浜あたりの不良言葉では、「~のよ」「~だわ」「~のね」という表現はごく自然に話されているのではないかなと思った。

例:「この単車、こないだ100万円で買ったのヨ」
  「あいつ、遅刻するとか言ってたんだワ」

こんな感じで、ごくごく普通にヤンキー的な言葉の世界では男女の壁が消えているのでは。

ジェンダーに限らず、時間や手紙といった小テーマもあり、「そういう意味だったのか!」と驚かされることが多い本だった。

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