淡く舞う 第5話

欠け月

淡く舞う 第5話


「孝之さん、随分とはかどったわねえ。 そろそろ、一休みしてお茶でもいかが?」

亜希は、日差しの強さに目をすがめながら、孝之に声をかけた。

孝之の若々しい精悍さも、右側に出来る笑窪も、好青年を印象付けるには、十分だった。

元々、妙に勘が鋭いところがあり、邪気のない笑顔とは裏腹に、本心が読めない謎めいた魅力もあった。


「昨日、新橋に行ったついでに買ってきた和菓子があるの。 甘いの嫌いじゃなかったわよね。」

「ああ、新明堂しんめいどう切腹饅頭せっぷくまんじゅうか。 これ、詫びに行くときに持って行くと、洒落が利いているって言うんで評判になったやつですよね。」


 新明堂しんめいどう切腹饅頭せっぷくまんじゅうを有名にした逸話がある。

証券会社の若手社員が、仕事で客に2,000万の穴を開けた時、支店長が謝るのに

一か八かで持参したのがこの饅頭である。「自分の腹は切れませんが、代わりにこの饅頭が腹を切っております」といって、相手側に手渡したのである。 下手すると火に油を注ぐ結果になりかねないが、この時は笑って許してもらえたのだ。

後にこれが、新聞記事に載り知る人ぞ知る、人気の和菓子となったのだ。


「切腹なんて、良くネーミングしましたよね。普通、こんな忌み嫌う名前付けないでしょ。」

「そうよね。浅野内匠頭が切腹した場所に因んで、この名前を思いついたらしいけど、本来なら縁起が悪いわね。

それで思い出したけど、孝之さん覚えてる? 桐原先生。」


 孝之が頬張った饅頭を、一気に飲み込むのが分かった。


「はい、どうぞ。少し冷めたからちょうど飲みやすいわよ。」


 亜希はそう言って、ぬるめのお茶を孝之の前に差し出した。


「桐原先生ね、今は塾の講師をしてらっしゃるの。知っていたかしら? 穏やかで、優しかったから生徒には人気があったわね。

うちの由紀も桐原先生の苗字をひっくり返して、原桐先生ってあだ名で呼んでいたけど、ちっとも叱らないから、私の方がハラハラしたくらいよ。」


 孝之は表情を変えず、一見すると何事もないかの如く、静かに頷いていた。


「由紀は父親の厳しさを知らないで育った様なものだから、どうしても我儘になっちゃって、今頃遅いけど、もう少し厳格に育てれば良かったと少し後悔しているのよ。 孝之さんは、あの子の父親、つまり私の夫だけど、あまり覚えていないでしょ?

忙しくて、家にいなかったものね。 早くに死んでしまったから、由紀との思い出だって数えるほどなのよ。 

だから、桐原先生に惹かれたんでしょうね、あの子。

私が気付いた時には、手遅れだった。 でも、まさか二人の関係を脅しに利用する人間がいるとは、流石に想像もしてなかったわ。 

孝之さん、夫が亡くなったから言えるけど、彼はねに所属していたの。」


 孝之は、絞り出すような声で繰り返した。

「ゼロ、、、」 聞いた覚えがある。 脳内のあらゆる引き出しを慌ただしく引っ張り出し、おぼろな記憶を手繰り寄せ、その先にある不気味さに身震いした。

中央指揮命令センター、通称「ゼロ」。 公安のトップである。 


「あなた、お父さんの後を継ぐんでしょ? 偉いわね。 お父さん、喜んでいたもの。 親孝行よ。 でも、本当は建築関係の仕事を、したかったのでしょう?

大学の成績も良かったって、お父さんが自慢してたわ。 なのに、就職で受けた5社、全部落ちたってガッカリしてた。 内定ももらっていたのに、急に取り消されたって憤慨してたもの。 本当に、残念だったわね。 悔しかったでしょ? 何もかも計画通りに事が進むと思っていたでしょうからね。

あ、そうそう。 言うの忘れていたけど、私と夫はね職場で知り合ったの。 結婚を機に、私は退職したけど。 夫の関係もあって、いまだに昔の同僚とは連絡を取り合っているの。 言っている意味分かるかしら。」


 人の弱みに付け込み、先を見越し、立ち回るのは孝之の得意とするところである。 亜希の言葉がどれほどの凄みを持っているのか、分からないはずがない。

「はい。」 そう答えるのがやっとだった。


「それとね、孝之さん、女二人が暮らす家なのよ。 防犯カメラを至る所に設置してるって、思わなかった? あなた、ガーデニングのプロなのよね。

当然、センサーやカメラの設置も出来るのでしょ? だったら、カメラに映る場所で、おかしな物を置いたりしたら駄目よ。 

動物愛護管理法違反に抵触する可能性があるわよ。 賢いあなたですもの、当然知ってるでしょ?

愛護動物をみだりに殺したり傷付けた場合は、5年以下の懲役または500万円以下の罰金が課せられるけど、問題はそれだけじゃない。

あなたもご家族も、あなたに期待しているお父さんも、ここには住めなくなる。 

それに、今はネットと言う武器がある。 あなたも、脅しに使った証拠写真があるらしいけど、もし処分しなかったら、私はもっと恐ろしい凶器であなたに、狙いを定めなきゃいけない。 理解してくれたかな?」


孝之は、思わず“ヒィー”と漏らした息が、まるで他人のものでもあるかのように、痺れる頭と耳で聞くのが精一杯だった。


第1話 天の座標さん

https://kakuyomu.jp/works/16816452220509113266/episodes/16816452220509300068

第2話 愛しの幕の内様

https://kakuyomu.jp/works/16816452220512142408/episodes/16816452220513495594

第3話 サクラバさん

https://kakuyomu.jp/works/16816452220519111188/episodes/16816452220674990158

第4話 高田“ニコラス”鈍次さん

https://kakuyomu.jp/works/16816452220886934893/episodes/16816452220889668203

第6話 大譱誠さん

https://kakuyomu.jp/works/16816452221016661681/episodes/16816452221178756746













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