ローズとおチビ

しるばーだすと

第1話 放浪者たちの夜明け ―名もなき少女への贈り物―

シーン1:第7研究室

静寂を切り裂くのは、硬質な軍靴の音だけだった。


荒廃した地上の喧騒とは無縁の、地下深く。湿った冷気と消毒液の匂いが混ざり合う通路を、女は迷いのない足取りで進んでいた。コンクリートの螺旋階段を下りるたび、彼女のトレードマークである赤い羽根のスカートが、影の中で炎のように揺れる。


重厚な気密扉の前に立ち、彼女は感情を排した声で告げた。


「開けろ」


認証が通り、蒸気と共に扉が左右に分かれる。そこは、青白いLEDが明滅する第7研究室。荒廃した世界に新たな秩序を齎さんと企てる秘密結社の最深部だ。


「……進捗を報告せよ」


部屋の中央に歩み寄る女を、一人の研究員が迎えた。彼は大げさに敬礼して見せる。


「はっ、スペードゼロ様。お待ちしておりました。再構築率は現在90%。懸念されていた神経系の機械置換も極めて順調です。まもなく、『究極の生体兵器』が完成いたします」。


研究員の歪んだ声など耳に入っていないかのように、スペードゼロの視線は部屋の中央に鎮座する巨大な円筒形のカプセルに注がれていた。


カプセル内は、禍々しい緑色のバイオ液で満たされている。 その透明な檻の中で、一人の少女が眠っていた。


銀色の髪が水中で淡く広がり、少女はまるで母の胎内にいるかのように、小さく体を丸めている。その細い四肢には、生体エネルギーを供給する為の無数の管が繋がり、彼女が「人間」ではなく「兵器」であることを冷酷に証明していた。


スペードゼロは無言のまま、カプセルの前に立った。 彼女の右腕――冷たく光るワイヤー型の機械義手が、ゆっくりと持ち上がる。


その指先が、冷たい強化ガラスの表面をそっと這った。 それは検品する軍人の手つきのようでありながら、どこか壊れ物を慈しむ母親のような、危うい静けさを孕んでいた。


カプセルに隣接する監視モニターが、規則的な電子音を刻む。

『91%... 92%... 93%...』


上がり続ける数値は、少女の人間性を奪い、純粋な破壊の力を満たしていくカウントダウンの様だった。


シーン2:特殊監視室

上昇を続ける監視モニターの電子音を背に、スペードゼロは迷いなく踵(きびす)を返した。


鈍く光るカプセルの中で眠る「娘」に、もはや一度の視線も送らない。彼女はただ、自身の軍靴が刻む冷徹なリズムとともに、研究所の重い気密扉へと歩み出す。


「あ、あの、スペードゼロ様……!?」


背後から、困惑と焦燥の入り混じった研究員の声が投げかけられた。斜め後ろから彼女を仰ぎ見る研究員の顔は、驚きに引きつっている。


「あと、あとわずかで覚醒段階に移行します。究極の個体が産声を上げるその瞬間を、見届けないのですか……?」


スペードゼロは足を止めない。その問いを無意味だと断じるように、ただ一言、感情を削ぎ落とした声を残した。


「……進捗は数値で把握すれば足りる。私には、他に『確認』すべきことがある」


気密扉が滑らかに開き、彼女は第7研究所を後にした。通路を数歩進んだ先にあるのは、重厚な電子ロックで閉ざされた、隣接する特殊監視室。


彼女の赤い義眼に反応した認証システムは、空気圧の抜ける音とともに分厚い鋼鉄の扉を開く。


そこは、先ほどまでの精密機械が並ぶ研究室とは打って変わり、窓も家具も一切存在しない、目が眩むほどに真っ白な立方体の空間だった。あまりにも無機質で、影すらも許さない強烈な照明が部屋を支配している。


その中央に、一人の女性が座っていた。

名前はローズ


かつてスペードゼロが自ら捕らえた、この世界で最も「自由」を愛する女。 現在、彼女は囚人服に身を包み、床に固定された金属製の椅子に深く縛り付けられていた。両手足は重々しい拘束具で完全に封じられ、さらにその口元は、言葉を発することを禁ずる鋼鉄製の拘束マスクで塞がれている。


沈黙。


スペードゼロが静かに部屋へ足を踏み入れた瞬間、ローズの顔がゆっくりと持ち上がった。


口元はマスクに覆われているが、露出したその瞳――。 それは、どれほどの拘束も、どれほどの絶望も届かない、燃えるような熱を帯びていた。


ローズは、目の前に立つ秘密結社の幹部を、射抜くような強い眼差しで睨みつける。


スペードゼロは、正面からその射抜くような視線を受け止めた。


スペードゼロの銀色の髪はさらりと流れ、右目の機械義眼を完全に覆い隠していた。見えるのは、深い森のように静かで、それでいて感情の起伏が一切削ぎ落とされた生身の左目だけだ。その冷徹な眼差しは、人間というよりは精巧に作られた彫像のようであり、ローズの激しい闘志を無機質に撥(は)ね返していく。


何もなく、ただ眩い光に満たされた特殊監視室の中央で、二人の女が対峙している。

拘束具が軋む音さえ聞こえない沈黙の中、スペードゼロがゆっくりと唇を開いた。その声は、低く、冷ややかな響きを伴って白い壁に反響する。


「……まだ威勢が良いか。だが、自らの過ちをそこで悔いるがいい。」


その言葉が、ローズに対する憐れみなのか、あるいは単なる事実の宣告なのか、読み取ることはできなかった。


スペードゼロは迷いのない足取りで、真っ白な壁に同化した扉に向かって歩き出した。


後に残されたのは、拘束されながらも決して折れることのないローズの眼差しと、死のような静寂だけだった。


シーン3:漏れる光

スペードゼロが特殊監視室を後にしようとしたその時、一人の男が滑り込んできた。


彼は第7研究所の上級研究員だった。


感情を排したスペードゼロと入れ替わるように部屋に入った上級研究員は、彼女の威圧感に気圧されたように背を丸め、深く一礼する。その腰の低さは、上官に対する敬意というよりは、強者に対する生存本能に近いものだった。


スペードゼロは一瞥もくれず、軍靴の音を響かせて通路へと消えていく。


扉が閉まり、再び訪れた密室の静寂。上級研究員は いつになくその異常な光景を捉える。


彼はスペードゼロによって命ぜられ、ローズの監視役として、幾度となくこの部屋を訪れている。しかし、今日は何かがいつもとは大きく異なった。それは、あらゆる自由を奪われ、鋼鉄の椅子に固定された身動きの取れない女から、まるで魂の叫びが聞こえる程の大きな存在感、独特な『匂』が強烈に感じられる。


強烈な『匂』は、部屋一面に充満している。


上級研究員は獲物を見つけた蛇のような足取りで、ゆっくりと、執拗にローズへと近づいていく。


彼はローズの周囲を回るように歩き、やがて彼女の真横で立ち止まった。細く、不自然に白い指先が、彼女の腕を縛る硬質な拘束具に触れる。ボルトの締まり具合、皮膚に食い込む金属の感触を確かめる様なその手つきには、科学者としての義務感ではなく、歪んだ嗜好が混じっている様だった。


「……この女……」


上級研究員の右目は機械義眼。そのレンズの奥に隠された瞳には、ローズをただの人間としてではなく、「興味深い検体」として、あるいは「弄ぶべき玩具」の様に映し出されていたのかもしれない。


彼の口元が、わずかに吊り上がる。


「……今日は、数値が妙だ……」


機械義眼に映し出されるデータを見つめ、独り言が漏れる。


「いやに高い数値を示している……。血流量、脳波の活性、それらすべてが私の予測を上回っている……、この感覚、実に久しいものだ……」


そのかすかな声に応えるように、ローズが顔を上げた。口元は鉄に封じられていても、その瞳だけは牙を剥いている。鋭く、一切の妥協を許さない敵意の矛先が、上級研究員を貫いていた。


「理由は分からん……だが、私の反応が良すぎる……」


上級研究員の顔が、歓喜とも狂気ともつかぬ歪んだ笑みに塗りつぶされる。機械化された眼球の奥では、絶え間なく膨大なデータが走査され、青い光のノイズが走った。


「こんな事は、実に何年ぶりかァ!!」


対峙するローズの形相は、ひとつの「圧」となって部屋を満たした。背景が歪むほどの殺気。背後には目に見えぬ集中線が走り、彼女の精神力が空間そのものを圧迫しているかのようだった。


しかし、その異常な気配こそが、上級研究員の『抑制』を凌駕する。


「そうだ……! この個体は特別なのだ! 制御できない時にこそ、研究の価値があるのだッつ!!」


彼は衝動的に、そして高揚に震える手でローズの足元に屈み込んだ。 本来、厳重に閉ざされているはずの足部拘束器具。彼はそのロック機構に指をかけ、焦りを含んだ動きで細工を始める。上官であるスペードゼロが禁じた「無駄な接触」が、今、狂気によって踏み越えられた。


次の瞬間。

――カチリ。


静寂の部屋に、場違いなほど軽やかな、そして取り返しのつかない小さな金属音が響いた。


空気の重さが、一変する。


「ヒャハァ……ッ」


上級研究員が息を呑む。一方、椅子に縛り付けられたままのローズの目が、ゆっくりと、そして静かに細められた。口元はマスクに覆われたままである。だが、その瞳。 その奥深くで、何かを確実に掴んだような鋭い光が、一瞬だけ、力強く弾けた。


上級研究員が歓喜に目を細めたその瞬間。


足首を縛っていた硬質なロックが外れた刹那、ローズの強靭な脚が、獲物を狙う鞭のようにしなった。囚人服の裾を翻し、彼女の右足が最短距離を突き抜ける。


「――が、ふっ!?」

重い衝撃音が真っ白な部屋に響き渡った。座った状態から放たれたとは思えない、凄まじい脚撃。ローズの足は、目の前で無防備に屈み込んでいた上級研究員の顔面を、文字通り「おもいっきり」蹴り上げた。


空間が歪むほどの衝撃が走り、彼の体は紙屑のように後方へと吹き飛ぶ。

無残だった。


先ほどまで不気味に赤く点滅していた機械義眼は、ローズの蹴撃によって粉砕され、火花を撒き散らしている。


「な……」

言葉にならない悲鳴を上げながら、男は無様に床を転がった。知性と狂気を誇っていた「科学者」の顔は、今や恐怖と苦痛に歪んだただの肉塊に成り下がっていた。


だが、衝撃はそれだけでは終わらない。 上級研究員が地面に倒れ伏した後、彼の制御システムが破壊された為か、あるいはローズ自身の放った凄まじい精神圧の影響か、

――プシュ、と排気音が鳴る。


次の瞬間、彼女の自由を奪っていた最後の鎖が、音を立てて崩れ去った。 口元を塞いでいた重々しい拘束マスクが跳ね上がり、両腕を固定していた金属の枷が左右に開く。


捕らわれていた「検体」が、一瞬で「捕食者」へと変わる。


ローズは椅子を蹴り、弾かれたように高く飛び上がった。 拘束具から解き放たれたその背中には、影を許さない真っ白な部屋の中でさえ、自由という名の眩い光が漏れ出しているようだった。


シーン4:唐突な出会い

特殊監視室でローズが奇跡的に解き放たれたその頃、第7研究所では「究極」の産声が上がっていた。


カプセルを満たしていた緑色のバイオ液は完全に排出され、装置のハッチは静かに開いていた。そこから這い出た少女は、研究員によって着せられたオリーブグリーン色のフライトジャケット、白いTシャツ(胸には金色のAiのアルファベットロゴ)、濃い紫のブーツカットパンツ、茶色の軍用ブーツに身を包み、呆然と立ち尽くしていた。


つい数分前まで胎児のように丸まっていた彼女は、今、訳も分からぬままこの世界に放り出されたことに、ただ「キョトン」と目を丸くしている。銀色の髪がまだ少し湿り、頬を伝う雫が彼女の無垢さを強調していた。


少女は、自身の周囲を取り囲み、狂信的な眼差しを向けてくる白衣の男たちを見上げた。


「ここは……」


その声は、まだ発声の仕方を思い出したばかりのように、か細く、どこか頼りない。


「ついにこの時が来たのですよ、セブンティエイト!!」


一人の研究員が、感極まったように声を震わせる。その瞳には、少女を一人の人間としてではなく、完成したばかりの「最高傑作」として称える歪んだ悦びが満ちて

いた。


彼は堰(せき)を切ったように、左右の腕を大きく広げた。その背後には、彼の野心と組織の悲願を象徴するかのような、壮大なスケールの空気感が重厚に渦巻く。


「我々が78体目にして辿り着いた究極の……! 究極の生体兵器が、今ここに完成したのだ!!」


研究員の誇らしげな咆哮が、無機質な研究所の壁に反響する。 しかし、その熱狂の中心にいる少女は、ただ呆然とするばかりだった。


目の前の男が何を叫んでいるのか、自分がなぜここにいるのか、そして「セブンティエイト」という数字が何を意味するのか。


何も分からず、ただ空虚な瞳で狂気を見つめる少女。その表情には、自らが兵器であるという自覚も、これから始まる戦いの予感も、まだ一片として存在していなかった。


その少女の背後から、異変はあまりにも唐突に、そして暴力的に訪れる。


「――がっ!?」

少女の目の前で誇らしげ腕を広げて語っていた男が、言葉を最後まで紡ぐことすら許されず、猛烈な勢いで真横へと吹き飛ばされたのだ。轟音と共に大きな衝撃が走り、研究員の体が床を転がっていく。


何が起きたのか、少女には理解できなかった。目覚めたばかりの混乱と、目の前の現実の乖離。彼女はただ「キョトン」としたまま、男が消えた空白の空間を見つめていた。


その少女の視界の先を、囚人服を翻したローズが鋭い飛び蹴りの残像を残して横切る。


嵐が通り過ぎたかのような静寂。 吹き飛んだ研究員は床に倒れ伏し、二度と動く気配はない。


ローズはその動かなくなった研究員の体に、無造作に片足を乗せた。 囚人服は乱れ、足元は裸足。しかし、床に根を張ったようなその仁王立ちは、どんな軍装よりも力強く、威厳に満ちていた。彼女の髪が研究室の人工的な風にたなびき、拘束されていた時とは別人のような、圧倒的な「個」の輝きを放っている。


ローズは仁王立ちのまま、鋭い眼光を周囲に走らせた。


まずは右側を確認する。 視線の先には、稼働を止めたモニターと冷たい壁があるのみ。他の数名の研究員は、彼女の潜入時に既に倒されている。


続いて、素早く左側を確認する。 そこにも、静まり返った精密機器の列が並ぶだけで、動く影は見当たらない。


研究室のこの区画には、今、目覚めたばかりの少女と、檻を食い破ったローズの二人しか存在していなかった。


周囲の安全を確認したローズの視線が、部屋の中央で立ち尽くす少女に止まる。

液体カプセルの残骸を背に、銀色の髪を濡らしたまま動けないでいる少女。そのあまりにも場違いな無垢さに、ローズは一瞬だけ、その鋭い眉を寄せた。


ローズは「直感」の人間。 少女の顔をアップで捉えたその瞳が、わずかに揺れる。この少女が自分を害する「兵器」なのか、それとも助けるべき「人間」なのか。理屈で考えるより先に、彼女の直感が答えを出していた。


(……こいつは、こっち側じゃない。ただの『迷子』だ)


ローズは迷いを振り払い、呆然とする少女に向かって力強い歩みを進めた。


「おい、チビ。キョトンとしている暇はないよッ!」


その声は、静まり返った研究室に雷鳴のように響いた。 ローズは少女の返事も待たず、その細い手を掴んで強引に引き寄せようとした。


だが、触れた瞬間――。


ローズの指先に伝わってきたのは、生きている人間が持つべき柔らかな温もりではなかった。


「……っ!?」

あまりの冷たさに、ローズの動きが止まる。 掴んだのは、金属の硬質さと、体温を一切持たない無機質な質感。少女の腕は、精巧な擬似皮膚に覆われながらも、その中身が血の通わぬ「機械」であることを残酷なまでに主張していた。


一瞬の戸惑い。 熱い命の奔流そのものであるローズと、冷たく完璧な機械である少女。正反対の二人が初めて「接触」した瞬間、凍りついたような静寂が二人の間に流れた。


掴んだ手から伝わる、凍えるような金属の質感。それが少女の「人としての存在」を削って作り上げられたものだと悟った瞬間、ローズの胸の奥でドロリとした熱い塊が跳ね上がった。


「……っ!」

ローズの顔が、剥き出しの憎悪で激しく引きつる。彼女の周囲には、湧き上がる怒りを具現化したような、暗く鋭いプレッシャーが渦巻いた。その矛先は、目の前の無垢な少女ではなく、この非道な実験を、幼き少女を兵器へと作り替えた秘密結社へ。そしてあの女――スペードゼロへと向けられていた。


「あの女……こんな小娘になんてことをォ! 許せねぇ……ッ!!」


歯茎が鳴るほどの力で奥歯を噛み締め、ローズは絞り出すように吼えた。その怒りは、この研究所の空気を、物理的に震わせるほどの熱量を持っていた。


だが、ローズは怒りに我を忘れるような女ではなかった。 彼女はすぐさま少女の機械義手を手放すと、荒い呼吸を整えながら、鋭い視線で周囲を見回した。


「……あー、クソッ。とにかく、何かまともなものを着ないと。この格好じゃ動くに動けないね」


薄手の囚人服を見下ろし、ローズは毒づく。自由への第一歩は、脱出するための装いを整えることだ。彼女の直感は、研究所の奥にわずかに開いた扉――研究員用の更衣室らしき部屋をすぐに見つけ出していた。


迷わずその部屋へと飛び込むローズ。 並ぶ無機質なスチールロッカーを一つ一つ確認し、彼女は手近な扉を力任せに引き開けた。


引き開けたスチールロッカーの扉が、軋んだ音を立てて跳ね返る。

その内側には、小さな鏡の下に一枚の写真が斜めに貼り付けられている。そこに映っていたのは、先ほどローズが蹴り飛ばした上級研究員と、派手な金髪の女性が肩を寄せ合う姿だった。


女性は、切りっぱなしのノースリーブデニムベストに、身体のラインを強調する白いタンクトップ、そして金属ボタンが鈍く光る赤レザーのショートパンツという、この殺風景な研究所にはおよそ似つかわしくない格好で笑っている。足元は光沢のある黒のニーハイブーツ、腰には派手なウエストチェーンが巻かれていた。


「なに、これ? 趣味わるい……」


写真に映る女の装色に、ローズは心底嫌そうな顔を隠さない。だが、その視線はロッカーの奥に押し込まれていた「実物」の衣類を捉えていた。


「……、今よりマシなら……」


小声で毒づきながら、ローズは素早く囚人服を脱ぎ捨てた。薄手の布切れ一枚という心もとなさから脱却するため、彼女は迷うことなくその「趣味の悪い」服に袖を通していく。


デニムの硬い質感。レザーの締め付け。そして、高めのヒールが刻む確かな足音。

着替えを終えたローズが、更衣室の鏡の前に立った。 ローズは鏡に映る自分を数秒見つめ、呆れたように肩をすくめた。


「意外と似合ってるの? ……まあいいや。」


泥臭い美しさを纏ったローズは、再び少女の待つ研究室へと歩き出す。

更衣室から戻ったローズの足音は、ニーハイブーツのヒールによって力強い響きを伴っていた。


彼女は、液体カプセルの前で依然として立ち尽くす少女のもとへ迷いなく歩み寄る。その視線の先、少女のすぐ背後にあった機材ラックに、ローズの目を引く「それ」が鎮座していた。


カプセルに隣接するのは銃器保管台。そこには、一般的な軍用モデルを凌ぐほどの長大な銃身を持つ、漆黒のスナイパーライフルが掲げられていた。ストック部には白字で小さく**「No.78」**の刻印がされている。


「へぇ…… これはまた、えらく大そうな武器だね」


ローズは足を止め、獲物を見定める猟師のような目でライフルを見つめた。

彼女はその銃を手に取る。ずしりと重い。100%生身の人間であるローズの腕には、その重量は分不相応なほどだったが、彼女はそれを強引に持ち上げた。


だが、持ち出そうとした瞬間、ライフルの弾倉部から伸びる奇妙なコードが、保管台のフックに強く引っかかる。


「……っ? なんだ、これ……」


ローズは眉を潜め、そのコードの正体を確かめる。それは通常の銃器には存在しないエネルギー供給用のコネクターの様で、得体の知れない有機的な質感を帯びていた。


「見たこともない代物だね。普通の銃じゃないのは確かだが……」


ローズは躊躇なく、引っかかったコネクターを保管台のフックから解いた。今の彼女に、この超ハイテク兵器の複雑な仕組みを理解する術はない。しかし、ここを脱出するために強力な火力が不可欠であることだけは、直感で理解していた。


シーン5:脱出

ずっしりと重いスナイパーライフル「No.78」を肩に担ぎ、ローズは再び少女の前に立った。派手な新衣装を纏い、巨大な獲物を手にしたその姿は、地下の無機質な研究所において、とても場違いな存在感を放っている。


「ぐずぐずしてると、あの『赤い羽根』が戻ってきやがる。行くよ」


ローズはそれ以上言葉を重ねることはせず、少女の機械義手を迷いなく掴んだ。

相変わらずの冷たい無機質な感触に一瞬だけ奥歯を噛み締めたが、今度はそのまま強引に、しかし確かな力で彼女を引き寄せる。


不意に手を引かれた少女は、生まれたての小鹿のように足取りが覚束ない。感情の読み取れない無垢な顔のまま、ローズの勢いに押されてよろめきながらも、一歩、また一歩と歩き出した。


「あ……」


少女の唇から、形にならないほど小さな、掠れた声が漏れる。 それは驚きでも恐怖でもなく、ただ初めて『他人』に導かれたことへの、微かな当惑だったのかもしれない。二人はそのまま、重厚な気密扉を抜けて研究室を後にした。


扉の外は、冷たい蛍光灯が続く無機質な廊下だった。 ローズは出てきた扉を背に立ち、瞬時に周囲の状況を分析する。


右側の突き当たりには、先ほどまで彼女が屈辱の中に閉じ込められていた「特殊監視室」の扉が見える。分厚い鋼鉄の扉は沈黙を守ったままだ。


「よし、まだ気付いてないね……」


ローズは低く呟き、安堵を噛み殺す。追っ手はまだ、ローズと少女が手を取り合って逃げ出したことに気づいていない。


視線を左に転じれば、そこには上層へ――地上へと延々に繋がる無骨なコンクリートの螺旋階段が伸びていた。


「こっちか……」


コンクリートの階段は、湿った闇を孕んで上へと続いていた。 ローズは新調したニーハイブーツの足音を殺し、一段ずつ慎重に、かつ確実に登っていく。その後ろでは、少女が生まれて初めての「歩行」に戸惑うように、ヨタヨタとおぼつかない足取りでついてきていた。


延々と伸びる階段をやっとの思いで抜けた先、1階の踊り場には、秘密結社の紋章を肩に刻んだ警備兵が一人、背を向けて立っていた。銃を抱え、退屈そうに周囲を警戒しているその姿は、ローズにとって格好の獲物でしかなかった。


「……ッ!」

次の瞬間、ローズの全身のバネが弾けた。 静寂を切り裂くような速さで、彼女は一気に加速する。


光沢のある黒のニーハイブーツ。その鋭いピンヒールをあえて地面に叩きつけず、つま先だけで滑るように駆ける。極限まで洗練されたその走法は、まるで重力を無視しているかのようだった。


「やり辛いくらいが、丁度いいのよ……」


風を切る音に紛れるほどの小さな声で、彼女は不敵に言い放った。自由を奪われていた鬱憤を、その瞬発力へと転換させているかのように。


警備兵が背後の異変に気づいた時には、すべてが終わっていた。 振り返る暇さえ与えず、ローズは死神のように彼の背後を奪う。


「なっ、ぐ……っ!?」


叫び声すら上がらない。 ローズの強靭な腕が、警備兵の首を深く、容赦なく締め上げた。無駄のない格闘術。敵の抵抗を最小限に抑え込み、意識を刈り取るための冷徹な技が、真っ白な廊下に静かな衝撃を刻んでいた。


締め上げられた警備兵がガクリと膝を突くと、ローズは彼が音を立てて倒れないよう、その体を支えながらそっと床に横たえた。


ローズは踊り場から繋がる1階の回廊を素早く見渡す。しかし、予想に反して廊下は無人だった。秘密結社の最重要拠点にしては、あまりにも静かすぎる。


「いやに警備が少ない…… どういうこと?」


訝しげに眉を寄せ、ローズは独り言をこぼす。その違和感は、経験豊富な彼女の警戒心をより一層引き上げた。


彼女は再び歩き出す。直感の赴くまま、迷路のような回廊を突き進むローズ。その後ろを、少女が相変わらずヨタヨタとした危うい足取りでついてくる。目の前で一人の人間が排除されたというのに、少女は驚くことも、恐怖することもなかった。ただ、世界がそういうものだと言わんばかりの、空虚で無垢な瞳を揺らしているだけだった。


回廊を数メートル進んだ先、視界が開けた。 そこには施設の中核をなすであろう、広大なメインホールが鎮座していた。部屋を仕切るのは、外からでも容易に中が伺える巨大なガラス扉だ。


扉に近づくにつれ、ローズたちの目の前に異様な光景が飛び込んでくる。


「……そうか、集まってやがるのか」


ガラス越しに見えるホールの中には、百人近い人々が密集していた。スペードの紋章を背負った戦闘員から、白衣を着た研究員まで、この施設のおおよそ全人員が集結しているのではないかと思えるほどだった。


彼らは整然と列をなし、一言も発さず正面を見つめていた。その視線の先にあるのは、壁一面に映し出された巨大なスクリーンモニター。青白い光が群衆の無機質な顔を照らし出し、狂信的な儀式のような異様な熱気が、ガラス一枚を隔てたこちら側まで伝わってくる。


その巨大なスクリーンモニターの中心にはスペードゼロの姿があり、冷徹なまでの美しさを湛えて立っていた。彼女の背後には秘密結社の巨大な紋章が浮かび、その冷たい演説はモニターのスピーカーを通じて、ガラス扉の外にいるローズたちの元へも響いてくる。


「……である。今日の混沌とした世界があるのも、実に人間の不確実性によるものだ」


彼女の声には、一抹の迷いも、慈悲もなかった。


「人間のくだらない欲や、制御不能な『ひらめき』こそが、かつての世界を滅亡の淵へと追いやった元凶。我々は、この不確実性を一切排除しなければならない。機械化による完璧なまでの合理性と、緻密な計画の追求――それだけが、再び世界の美しさと平和を取り戻す唯一の道なのだ」


スクリーンのカメラが、スペードゼロの顔をアップで捉える。その瞳には、人間を一個の生命としてではなく、管理すべき対象としてしか見ていない狂気が宿っている。


「我らがセブンティエイトは、この象徴として究極の形で今ここに完成した。この世界に永遠の理想郷『オアシス』というものは存在しない。今こそ全人類に示そう、我々こそが濁った世界に湧く『オアシス』であることを。それが、あのお方の意思でもあるのだッ!!!」


「あのお方」という言葉が出た瞬間、ホールの空気が一層張り詰める。 整列していたスペード部隊の面々は、機械化によって感情を抑制されているにもかかわらず、その魂を支配されたかのように静かな興奮に包まれていた。微かな電子音の共鳴が、彼らが心酔し、感銘を受けていることを証明していた。


だが、その狂信の空間を、ガラス一枚隔てた先から射抜くような視線で見つめるローズがいる。


「……反吐が出るね。あんたらが『オアシス』だと? 笑わせるんじゃないよ……!」


ローズはガラス扉に手をかけ、物凄い形相でスクリーンを睨みつけていた。怒りで血管が浮き出し、剥き出しの憎悪がその表情を歪ませる。


その真横で、少女もまたスクリーンを見つめていた。 自分の誕生と完成が宣言されているというのに、その瞳には光も、影も、何の感情も宿っていない。 ただ機械的な沈黙を守り、自らを「象徴」と呼ぶスペードゼロの声を、無機質なノイズのように聞き流していた。


スピーカーから流れ続けるスペードゼロの冷徹な声。 今まで人形のように無機質だった少女の様子が、その声が響き渡るたびに少しずつ変貌していく。銀色の髪の下で、彼女の細い肩が目に見えて小刻みに震え始める。


「……う、うぅ……。」


その唇から漏れたのは、プログラムされた言葉ではなく、心の奥底から絞り出されたような、生々しく怯えた「拒絶」の響きだった。


「おい、チビ。どうした、急に……っ!」


憎悪の表情でスクリーンを睨みつけていたローズが、驚いて少女の方に振り返る。あんなに無感情だった彼女が、これほどまでに怯えている。その異常な光景に、ローズの胸に得体の知れないどよめきが走った。


だが、今は立ち止まっている余裕はない。 ローズはホールの手前で鋭角に折れ曲がった回廊の先に視線を走らせた。その突き当たりに、頑強な鉄製の重扉が見える。そこから漏れ出る外気の気配が、出口であることを示していた。


「そうだ、ここに長居は無用だった……早く出ないと……!」


ローズは震えが止まらない少女の、冷たく硬い機械義手を力強く握りしめた。


「大丈夫、あたしがついてる。行くよ!」


震える少女を力強く先導し、回廊を出口に向かってひた走る。背後からは依然としてスペードゼロの独善的な演説が響いているが、今は振り返らない。


ついに到達した出口の扉。 ローズは肩に担いだライフルの重みに耐えながら、全身の力を込めてその重厚な扉を押し開いた。


「――っ!」

キィィィ……と重苦しい金属音を立てて開いた扉の先からは、溢れんばかりの光が差し込んでくる。 人工的な蛍光灯の白さではない、荒廃した世界を照らす本物の太陽の光。 二人はその眩い光の渦へと、吸い込まれるように一歩を踏み出した。


シーン6:絶望?

地下の人工光に慣れきったローズの瞳が、本能的に細められる。隣に立つ少女もまた、溢れ出す白光に射抜かれ、怯えたようにたじろいだ。 だが、視界が次第に像を結ぶにつれ、ローズの顔から余裕が消えていく。その表情は、驚愕と信じがたい現実への忌避感に塗りつぶされた。


扉の外に広がっていたのは、彼女には全く想像も出来なかった風景。

そこは秘密結社が支配する、広大かつ荒廃した『施設の庭』だった。 遥か遠方まで続く荒地は、巨大な外壁によってぐるりと囲まれている。その様は、外の世界を拒絶しているというより、中の生き物を一歩も逃さないための檻に見えた。


施設出口の扉から、唯一の脱出路であろう外壁の門までは、数百メートルもの荒地が続いている。門の頂にはそびえ立つ監視塔。その最上部では、秘密結社の紋章が刻まれた巨大な旗が、血のように重苦しい音を立てて風に翻っていた。


敷地内にはまともな建物一つなく、ただ過去の残骸と思われる瓦礫の山が、墓標のようにあちこちへ点在しているだけだった。


「……あはっ、あははは……っ」


絶望的なまでの光景を前に、ローズは不意に視線を落とした。肩が小刻みに笑いだす。 それは恐怖ではなく、極限状態が生み出した歪な高揚だった。


「おもしろいね……!試してんじゃないのよッ!!!」


乾いた笑いが、彼女の唇から溢れ出す。 追い詰められ、逃げ場を失い、それでもなお命を燃やすチャンスに、彼女の戦士としての魂が狂喜しているのか。


ローズはすぐさま、背後の重い扉を閉めきった。 そして足元に落ちていた無骨な鉄のパイプを拾い上げると、それを力任せに扉の取っ手へ叩き込む。追っ手の時間をわずかでも稼ぐための、泥臭く、しかし確実なバリケード。


バリケードを築き終えた直後、静寂は無慈悲に引き裂かれる。


施設全体を震わせるような、けたたましい警報音が鳴り響く。それはただの機械音ではなく、死へのカウントダウンのようだった。間を置かず、ノイズ混じりの広域放送が空を切り裂く。スピーカーから流れてきたのは、先ほどまでホールで演説していたあの冷徹な女――スペードゼロの声だった。


「緊急通達! 脱走者2名を確認!」


その声は外壁に反響し、荒廃した敷地全体を支配するように降り注ぐ。


「スペード部隊に所属する戦闘員は、直ちに捕縛に当たれ。繰り返す、直ちに捕縛に

当たれ! 内1名はセブンティエイトだ。……気を抜くな。以上」


放送が切れると同時に、不気味なほどの沈黙が数秒流れた。それは嵐の前の静けさであり、まもなくこの平原が戦火に包まれることを意味していた。


「チッ、もうバレた。展開が早すぎるね……!」


ローズは毒づくと、少女の冷たい機械の手を再び、今度はより強く掴んだ。もはや隠れる術はない。


「走るよ、チビ! 足を止めるんじゃないよ!」


扉を背に、ローズは全力で駆け出した。目指すは数百メートル先、外壁中央の巨大な門。


ローズは走りながらも、その鋭い眼光を四方に走らせた。 ただ無鉄砲に走っているのではない。彼女の脳内では、荒野に点在する瓦礫の山が、一つの戦術マップとして組み上げられていく。


(あの鉄屑の山まであと五十メートル……その先に崩れたコンクリート壁。……あ

そこを中継地点にすれば、射線を切れるか?いや、逆手にも取れるか!)


ローズの視線は、砂塵にまみれた瓦礫の位置を正確にトレースしていた。死地の中にあっても、彼女の「直感」と「経験」は、生き残るための微かな糸口を掴み取ろうとしている。


一方で、ローズが仕掛けた即席のバリケードは、わずかな時間を稼ぐに過ぎなかった。 背後の扉が激しく震え、鉄が軋む悲鳴を上げる。


「――ぶち破れ! 逃がすな!」


扉の向こう側で戦闘員たちの怒号が響いた直後、凄まじい衝撃と共に扉が蹴破られた。ローズが差し込んでいた鉄のパイプがひしゃげ、火花を散らして転がる。

怒涛の勢いで外へと飛び出してきたのは、黒い戦闘服に身を包んだスペード部隊の面々だった。彼らは即座に銃を構え、殺気立った声を荒らげる。


「どこだ! どこに行きやがった、スキャンしろ! 痕跡を一瞬たりとも見逃すな!」


ゴーグルの奥の機械眼が怪しく光り、平原の動体を即座に索敵し始める。


その光景を、ローズは走りながらも横目で冷静に捉えていた。追っ手が外に放たれた。ここからは一秒の躊躇も命取りになる。


「……まともにやり合うには、まだ距離が足りないね」


ローズは再び、前方へ視線を走らせた。 陽炎が揺れる瓦礫の山々。その中の一つ、ひと際大きく崩れたコンクリートの塊が彼女の目に留まる。


「チビ、こっちだ! 息を殺しな!」


ローズは少女の体を抱え込むようにして、その瓦礫の陰へと滑り込んだ。 背中に当たるコンクリート。砂埃の臭い。 二人は互いの鼓動を感じるほどの距離で身を寄せ合い、追っ手の動体スキャナーから逃れるように、静かに、そして鋭く牙を研ぎ澄ませた。


瓦礫の向こう側、数十メートル先ではスペード部隊の戦闘員たちが、殺気立った足音を立てていた。ゴーグルのサーチライトが砂塵を切り裂き、スキャンの電子音が隠れる二人の鼓動を追い詰めるように規則正しく響いている。


「……まともに隠れんぼする気はないよ」


ローズは低く呟くと、肩に担いでいた長身のスナイパーライフル「No.78」を滑らせるように手元に引き寄せた。漆黒の銃身が、月光のような無機質な光を反射する。


「チビ、あんたはここを動くんじゃないよ。……いいかい、絶対だ」


ローズは少女の瞳を真正面から射抜き、言い含めるように告げた。少女の銀色の髪が、恐怖で微かに揺れている。ローズは返事を待たず、バネのようなしなやかさで身を翻した。


彼女の動きは、まさに「疾風」だった。 敵のスキャンが瓦礫の山をなぞる、その僅かな死角を突いて、ローズは開けた平地へと飛び出した。極限まで姿勢を低く保ち、ニーハイブーツのピンヒールを感じさせないつま先立ちの走法で、次の遮蔽物へと影のように滑り込んでいく。


一人残されたおチビは、去ってゆくローズの背中を、縋るような眼差しで見つめていた。 感情を制御されているはずのその顔が、微かに強張り、歪む。


だが、ローズは止まらない。 彼女は戦闘員たちの群れから絶妙な距離を保ちつつ、彼らの背後を突く「虚」の位置――もう一つの巨大な瓦礫の陰へと到達する。


そこは、狙撃者にとっての最高の「座(シート)」だった。


瓦礫の角に長大な銃身を預け、ローズは低く鋭い呼気を吐いた。 スコープの十字円の中に、獲物を捉える。獲物は、無機質なゴーグルを光らせながら索敵を続けるスペード部隊の戦闘員だ。


「さぁ、やるよ……」


唇に不敵な笑みを浮かべ、小声で呟いたローズは、息を大きく吸い込み止める。彼女の指が、冷たい金属の引き金へと吸い付くようにかけられた。彼女の直感は、この未知の兵器が放つ凄まじい破壊力をすでに予見しているようだった。


迷いは微塵もなかった。 必殺の意志を込め、ローズは一気に引き金を引き絞る。

――だが。


期待した轟音も、肩を叩くはずの激しい反動も、一切訪れなかった。 静寂を切り裂くはずの「No.78」は、ただ冷たく沈黙している。弾丸が放たれる気配すらなく、銃身はただの鉄の塊としてローズの手に残された。


「え、不発……!?」


ローズの瞳に、明らかな動揺が走った。戦場において、自身の感覚と武器が乖離することほど恐ろしいことはない。 彼女は慌ててボルトレバーや排莢口を確認しようと、反射的に銃を激しく揺すっていた。


その焦りが、致命的な隙を生む。


「――ガシャッ、ゴンッ!!」


動揺したローズの肘が、積み上げられていた不安定な鉄屑を弾いた。 静まり返った荒地に、無骨な金属音が鳴り響く。それは潜伏者にとって、何よりも雄弁な「死の合図」だった。


静寂を切り裂いた金属音は、捕食者たちを呼び寄せる鐘の音となった。


「あそこか!」


最前方にいた戦闘員が鋭く反応し、ローズの潜伏する瓦礫を指す。ゴーグルの奥では赤いスキャニング・ラインが高速で明滅し、瓦礫の背後に潜む「動体」を確定させていた。


「ちっ、一旦引くか……!」


ローズは舌打ちを漏らし、心臓の鼓動を抑えながら瓦礫の陰に深く身を沈める。完璧な狙撃ポイントだったはずの場所は、今や逃げ場のない死地へと変わりつつあった。


彼女は周囲の瓦礫の位置を再確認し、移動のタイミングを計る。だが、敵の包囲は予想以上に速かった。


「おい、あれを見ろ。あの女が持っているのは……No.78か?」


一人の戦闘員が、ローズが抱えるスナイパーライフルを認めて声を潜めた。その声には、明らかな困惑と警戒が混じっている。


「まさかな……あれはセブンティエイト専用の兵装のはずだ。だが、万が一ということもある。気をつけろ、ゆっくり詰めろ!」


戦闘員たちは銃を構えたまま、互いに連携を取りつつ扇状に広がっていく。ブーツが砂利を踏む不気味な足音が、一歩、また一歩とローズに迫る。


(まずいね……。この距離で囲まれたら、さすがに分が悪い)


ローズの額に一筋の汗が流れる。 背負ったライフルは依然として沈黙したまま。移動しようにも、少しでも動けば一斉射撃の餌食になるのは明白だった。焦燥がローズの鋭い瞳をわずかに揺らす。かつてない窮地の中で、彼女は残された一秒に勝機を求めて思考を加速させた。


ジリジリと間を詰めてくる戦闘員たちの足音。ローズは冷静さを失いかけた思考を瞬時に立て直した。


(スキャナーに頼りきりの奴らなら、付け入る隙はある……!)


彼女は足元の瓦礫の中から、錆びた重みのある金属片を素早く拾い上げた。


「一か八か……」


ローズは、戦闘員たちが展開している方向とは全く別の、右方の残骸に向かってその金属片を全力で投げつける。


放たれた金属片が放物線を描き、遠くの鉄屑に当たって高い金属音を立てる。 その瞬間、戦闘員たちのゴーグルに搭載された音響センサーと動体スキャナーが過敏に反応した。


「そこだ! 撃てッ!!」


一人の戦闘員の怒号と共に、一斉射撃が「あさっての方向」へと浴びせられる。


「今だ!」


一瞬の空白。ローズはその隙を見逃さなかった。 弾幕の意識が逸れた刹那、彼女は瓦礫の影から弾け飛ぶように飛び出した。姿勢を極限まで低く保ち、地を這うような疾走で少女の待つ方向へと繋がる次の瓦礫へと移動を開始する。


だが、敵の数が多すぎた。 一人の戦闘員が、索敵範囲の端を横切る「真の影」を捉える。


「させるかぁ!!」


男が叫びながら銃口を反転させる。ローズの背中に向け、無慈悲な銃弾が放たれた瞬間だった。


一つの銃声が荒地の静寂を塗りつぶす。 ローズの疾走するコースを予測した戦闘員が、冷徹に引き金を引き絞った。


「――っ!?」

空気を切り裂いて飛来した鉛弾が、ローズの左腕を鋭くかすめる。熱い衝撃と共に鮮血が散った瞬間だった。


「くっ……!」


一瞬、ローズの顔が激痛で歪んだ。 焼けるような熱さが腕をかすめ、疾走のバランスが崩れそうになる。だが、彼女は持ち前の凄まじい精神力で踏みとどまった。ここで足を止めれば、待っているのは「死」か「再拘束」のどちらかしかない。

ローズは痛む腕を抱え込むようにして、滑り込むように次の瓦礫の陰へと身を投じた。


間一髪。 彼女が隠れたコンクリートの塊を、直後に無数の弾丸が激しく叩く。削り取られた石片が火花を散らし、背中に衝撃が伝わってくる。


「仕留めたのか!?」

「いや、違う! あの瓦礫の裏だ!」


戦闘員たちの冷徹な声が響く。彼らはもはや迷うことなく、ローズの潜伏地点へ一斉に銃口を向けた。


「撃てぇ!! 蜂の巣にしてやれ!」


一人の戦闘員の苛烈な号令と共に、荒地に再び轟音が鳴り響く。逃げ場のない瓦礫の孤島で、ローズは血の滴る腕を抑えながら、背負った沈黙のライフル「No.78」をきつく睨みつけた。


瓦礫を削り取る弾丸の雨。火花と石粉がローズの頬を叩く。 もはや、隠密も策略も通用しない。左腕の傷口から流れる鮮血が、ローズの指先を熱く、そして滑りやすく濡らしていた。


「……動けよ……動けってんだよッ!」


ローズはなりふり構わず、瓦礫の端からスナイパーライフル「No.78」を突き出した。荒い呼吸のまま、がむしゃらに引き金を引く。


カチッ、カチッ――。


虚しい金属音だけが、銃声の合間に響く。 何度引き金を絞っても、指に力を込めても、漆黒の銃身は沈黙を貫いたままだ。銃口から火が吹く気配も、弾丸が送り込まれる振動すらない。


「なぜ……。なぜッ……!」


ローズの表情が悲痛に酷く歪んだ。 これまでどんな絶望的な戦場も、己の勘と武器への信頼で切り抜けてきた。武器はいつもローズに的確に応えてくれていた。だが今手にある鉄の塊は、信じられない程にローズを『拒否』しているようだった。


ローズの瞳に、悔恨と焦燥が混ざり合った激しい感情が溢れ出す。

その時だった。


「――!?」


悲痛に歪むローズの視界が、突如として塗りつぶされた。 目の前、沈黙を続けていた「No.78」の銃身の隙間から、すべてを拒絶するかのような、圧倒的で純白の閃光が弾け飛んだ。


「終わりだ! 手榴弾(グレネード)ッ!!」


戦闘員の冷徹な怒号と共に、一つの鉄塊が弧を描いて放たれていた。それはローズが身を寄せていた瓦礫のすぐ手前、わずか数メートルの位置に転がり落ちる。


――直後、世界が爆ぜた。


凄まじい轟音と共に、爆炎が舞い上がる。


「が……はっ!?」


肺の中の空気をすべて引きずり出されるような衝撃。 防ぐ術もなく、ローズの身体は木の葉のように宙を舞い、真後ろへと大きく吹き飛ばされた。構えていた沈黙のライフルNo.78が彼女の身体と共に虚空を踊る。


地面を激しく転がり、砂塵にまみれながら横たわるローズ。 視界は激しく揺れ、耳鳴りが周囲の音をすべて掻き消していた。朦朧とする意識の中で、彼女の手から離れていったライフルが、鈍い音を立てて砂地へと落ちる。


(……く、そ……っ)


かすむ視界の先。瓦礫の陰。自分が置いてきたはずの場所に、ちっぽけな影がじっとこちらを見つめている。 少女だ。


少女はずっと顔を強張らせていた。その瞳は、ローズの倒れた姿を真っ直ぐに見据えている。 初めて見せた「人間らしい」感情の揺れ動き。ローズはその表情に自分の意識を集中させ、彼女に何かを訴えようとした。


少女の表情が、とっさに「何か」を悟った様に変化する。


強張りを見せていた表情からは、急速に感情が抜け落ちていく。 まるで機械にスイッチが切り替わったように、初めての戦闘で覚えたかもしれない恐怖や不安も、すべてが消え失せていく。


残されたのは、以前と変わらない、空虚で、底なしに無垢な「無表情」だった。それは、まるで何かを完全に拒絶したかのような、あるいは「人間らしさ」のすべてを捨て去ったかのような、あまりにも静かで、冷たい変化だった。


シーン7:閃光

手榴弾の爆炎が空に溶け、静寂が荒地を再び支配する。砂塵が舞う中で、瓦礫の陰から一つの影がゆっくりと、だが迷いのない動きで立ち上がった。


先ほどまでの強張った表情は、もうどこにもない。糸が切れた人形のようにうずくまっていた少女は、今や機械的な正確さを持ってその身を起こしている。その瞳には感情の残滓すら宿っておらず、ただ冷徹な光だけが、横たわるローズを見ていた。


「……生体エネルギー残量、確認……」


彼女の唇から漏れたのは、幼い少女の声ではなかった。 感情の起伏を一切排した、合成音声のように冷たく、無機質な呟き。その言葉はローズへ向けられたものではなく、自らの内側に存在する「システム」への報告のようだった。


ローズが朦朧とした意識の中で見たのは、こちらへ向かって一歩、また一歩と近づいてくる少女の姿だった。その歩調はあまりにも一定で、しかし素早く正確だった。


「システム、オールグリーン…… セブンティエイト、起動……」


少女の指先が、地面に転がっていた「No.78」スナイパーライフルの銃身に触れる。 その瞬間、漆黒のライフルが呼応するように不気味な脈動を始めた。ローズがどれほど引き金を引き絞っても沈黙していた鉄の塊が、真の主(マスター)を迎え、ついにその眠りから覚めようとしている。


砂塵の舞う荒野に、無機質な動作音が響く。


少女は「No.78」のスコープを漠然と覗き込んだ。ローズが両手で必死に支えていたはずのその巨躯を、彼女は左の機械義手だけで軽々と握っている。重量という概念すら存在しないかのような、滑らかで力強い動作だった。


手のひらと、ライフルのグリップが接触した瞬間――カチリ、と硬質な電子音が鳴り響く。


「バイオメトリクス照合……完了。セーフティロック、解除」


少女の生命が、義手を通じて銃身へと流れ込む。それに応えるように、ライフルのスコープの奥で眠っていた十字レティクルが、鮮やかなエメラルドグリーンに発光した。浮かび上がるその光は、獲物の命を刈り取るための冷徹な羅針盤にも見える。

朦朧とした意識の中で、ローズは少女が横切るのを見つめていた。


「……チビ……??」


震える声は届かない。少女は倒れたローズを気にかける様子もなく、迫りくるであろう戦闘員たちの方向へと素早い歩みを進める。その足取りには、先ほどまでの危うさは微塵もなかった。


突如、少女の動きが止まる。


彼女は流れるような動作で右の片膝を突き、身体の重心を大地へと固定させた。手榴弾の爆風で舞い上がった砂塵が視界を遮り、前方は未だ敵の姿すら判然としない。だが、少女には関係なかった。死の影すら気づいていない、見えない獲物たちを、緑色のレティクルが静かに狙う。


爆煙と砂塵が混じり合い、視界を濁らせる荒地。 その向こう側では、数十名を超えるスペード部隊の戦闘員たちが、機械的な統率の下で集結しつつあった。


「女は沈黙している!状況を確認次第、即座に無力化せよ。セブンティエイトへの損傷は最小限に留めるのだ!」


戦闘員の声が飛び、彼らは銃を構え、蜘蛛の子を散らすような速さで包囲網を完成させていく。ローズを無力化したハズの爆発――その余韻の中に、計画的な、確実な勝利を予感していた。


だが、一人の戦闘員が不意に動きを止める。


「なんだ……?」


ゴーグルの視界の端。渦巻く灰色の砂塵の奥深くに、一点の「光」が灯っていた。 それは、あまりにも静謐で、あまりにも鋭いエメラルドグリーンの輝き。 死の深淵から現れた霊魂が、こちらを覗き込んでいるようにも見えた。


その光が何を意味するのか、彼らが理解する時間は残されていなかった。


次の瞬間、数十名の戦闘員が集結する目の前で、世界が真っ白く塗りつぶされた。

砂塵を、空気の中の酸素を、そして立ち塞がるすべてを切り裂くような、巨大な閃光が炸裂。 それは銃声というよりも、大気が激しく震える神鳴り。 膨大なエネルギーが放った神の裁きが、荒地の全てを飲み込んでいく。


砂塵の中、片膝を突いて固定された少女の指先が、冷徹に引き金を引いていた。そこには、命を奪うことへの躊躇も、破壊への高揚も存在しない。ただ、入力されたコマンドを遂行する機械のごとき静謐さがあった。


「――。」


長大な銃身が激しく脈動。この世のものとは思えない質量の光が解き放たれる。

それは弾丸という概念を遥かに超越した、純粋な破壊の奔流――膨大な熱量を帯びた生体エネルギー砲。発射の衝撃波は周囲の砂塵を一瞬で吹き飛ばし、真空となった射線上の空間を真っ白な閃光が埋め尽くす。


「なっ……!!」


断末魔の叫びすら、光の中に霧散した。 集結していた数十名以上のスペード部隊員たちは、反応する暇さえ与えられず、その圧倒的なエネルギーの渦に飲み込まれていく。鋼鉄のアーマーも、鍛え抜かれた肉体も、一瞬にして分子レベルまで分解され、光の尾を引く残像へと変わった。


だが、放たれた閃光は止まらない。

戦闘員たちを消し去った光は、そのまま遥か後方、ローズと少女が脱出してきた秘密結社施設の巨大な建物へと着弾する。


凄まじい轟音が平原に轟き、堅牢なコンクリートの壁が飴細工のように溶けてゆく。爆煙が立ち上り、射線上のすべてを無に帰したその跡には、ただ黒く焦げ付いた「虚無の道」だけが残された。


地面に横たわったままのローズは、その光景をただ呆然と見届けていた。朦朧としていた意識は、目の前で起きた「神の業」と見紛うばかりの破壊によって、無理やり現実に引き戻されていた。


「チビ、あんた……」


震える声でローズは呟いた。これまで幾千の戦場を駆け抜け、死線を越えてきた彼女ですら、これほどの絶望的な暴力は見たことがなかった。目の前にいるのは、守るべきか弱い少女などではない。世界を焼き尽くすための「業」そのものだということを、彼女の戦士としての本能が理解した。


だが、一射にすべてを込めた少女の異変は、直後に訪れる。


その真っ白な頬から、不気味なほど急速に生気が失われていく。無機質だった瞳の輝きが、砂時計の砂が落ちるように、一気に褪せていく。


「生体エネルギー低下、生体エネルギー低下……レベル、アラート……」


少女の唇から、壊れた蓄音機のような警告音が漏れる。 その膝はもはや自らの体重を支えることができず、カクリと崩れた。長身の「No.78」を抱えたまま、彼女はその場に弱々しくうずくまる。


「エネルギー残量残り10%……、システム、停止します……」


最後の音節が途切れると同時に、少女の首が力なく垂れ下がった。 さっきまでの圧倒的な熱量は消え失せ、残されたのは、ただの冷たい静寂。荒野の風が、機能を停止した少女と、戦慄に震えるローズの間に吹き抜ける。


「……チビッ!」


ローズは震える足で立ち上がった。


焼けるように痛む腕も、爆風の衝撃も、今はどうでもよかった。彼女の視線の先には、力を使い果たして崩れ落ちた少女がいる。


ローズは少女に駆け寄り、その細い肩を抱き寄せた。戦場を焼き尽くす死神のようだった少女は、今や冷たい鉄の塊のように重く、そして壊れそうなほどに儚い。


「しっかりしな、チビ! 目を開けなよ……!」


状況は何も理解できていない。なぜこの少女がこれほどの力を持っているのか。なぜ自分の腕に今、これほどの重みが預けられているのか。だが、説明のつかない感情がローズの胸を突き上げ、その鋭い瞳に薄っすらと涙が滲んだ。それは一匹狼であった彼女が長らく感じたことの無い、閉まっていたはずの温かさでもあった。


しかし、戦場は感傷に浸る一瞬すら与えてはくれない。


少女が放った閃光の残光が消えゆく中、背後から無機質な足音が迫っている。それはNo78によって壊滅した射線とは逆の方角――新たな部隊の出現。


冷徹な影が姿を現す。


一人、また一人と、黒い影が増えていく。逃げ場のない荒地、機能停止した少女。ローズは抱きしめる力を強め、迫りくる足音を正面から見据えた。


その部隊の先頭にはスペードゼロの姿。 血も涙も通わぬ「管理者」が、獲物を捕縛するためにそこまで迫っていた。


シーン8:2度目の対峙

硝煙と砂塵が渦巻く荒地に、軍靴の音が冷酷に響き渡る。 部隊を従え、悠然と歩み寄ってきたスペードゼロが、ローズの数メートル手前で足を止めた。その冷徹な視線は、膝をつき、ぐったりとした少女を抱くローズを、まるで不具合の出た部品を見るかのように見下ろしている。


「よくもあの拘束から逃げ出せたな、ローズ。お前の不確定要素には、つくづく思い知らされる……」


抑揚のない、冷ややかな声。 ローズは少女を抱きしめたまま、血の滲む唇を噛み締め、物凄い形相でスペードゼロを睨みつけた。その瞳には、恐怖など微塵もない。あるのはドス黒いほどの嫌悪と怒りだ。


「スペードゼロ…… あんた、まさかここまで堕ちた人間だとは思わなかったよ」


ローズの声が、地を這うような低音で震える。


「あの時、不意を食らって捕まってさえいなけりゃ……あんたが今、そこで偉そうに

立っていることもなかったんだよッ!!」


剥き出しの敵意をぶつけられたスペードゼロは、表情一つ変えなかった。 だが、その仮面のような顔の中で、生身である左目が氷のように鋭く細められる。


「ほぅ…… お前ごときの力で、この私から逃れられたとでも思っていたのか……」


嘲るような言葉。その言葉がローズの胸の奥で燻っていた憎悪に火をつける。 ローズの顔に、形容しがたいほどの激しい怒りが浮かび上がる。自由を愛し、誇り高く荒野を生き抜いてきた彼女にとって、魂を売り、無垢な少女を「兵装」にまで変えてしまったこの女は、死にも値する存在だと思えた。


「あたしは自由! あんたなんかに屈する訳がないんだッ!!!!」


静寂の荒野に、ローズの絶叫が木霊する。それは、自由の象徴と謳われた女が放つ、意地と誇りの産声だった。


「……お前が外の人間から何と呼ばれているか、知っているか?」


スペードゼロは一歩、ローズへと踏み込む。


「ローズ(Laws)――新たな『秩序』をもたらす希望の光だと。それが私には非常に不愉快なのだよ」


その言葉と同時に、これまで鉄の仮面のように無機質だった彼女の表情が、剥き出しの嫌悪によって険しく歪んだ。彼女は震える生身の左手で、自らの顎を忌々しげにさする。


「お前の欲まみれで自由奔放、実に身勝手な希望的観測が、無力な人々の間に『オアシス』という名の無意味な妄想を掻き立てる。……秩序どころか、それを乱す害悪でしかないお前という存在が、不愉快でたまらないのだッ!」


理性を重んじる管理者が、初めて見せた激情。 しかし、それを真っ正面から受け止めたローズは、不敵に、そしてどこまでも誇らしげに唇を吊り上げた。気を失っている少女を抱く腕に力を込め、彼女は自身の「核」を言い放つ。


「あたしの名前はローズ(Rose)! 荒野となった世界で、強く、気高く、美しく……薔薇のように咲き誇れと、お母さんがつけてくれた名前なんだッ!!」


ローズの叫びは、辺りの静寂を震わせる。


「あんたみたいな人でもない存在に、あたしの名前を呼ぶ資格なんてこれっぽっちもないんだよッ!!」


スペードゼロは、自らの顎をさすっていた左腕を、苛立ちを隠すことなく払いのける。彼女の周囲の空気が凍りつくような威圧で一変する。


「ほぅ……ならその名前すら思い出せなくなるよう、精神を粉々に破壊するまで追い詰めるしかないな!!」


鋭い叫びは荒野を切り裂く刃となり、もはや捕縛するだけでは足りない。彼女はローズという存在そのものを根底から破壊し、踏みにじることを決めた。


ローズは言葉での応酬を打ち切った。抱きかかえていた少女を、壊れ物を扱うような手つきでそっと地面に寝かせる。


「……チビ、少しだけ待ってな」


短く呟いた直後、ローズの身体はバネのように弾けた。 傷ついた身体とは思えぬほどの物凄い勢いで、彼女は横方向へと疾走する。その途上、彼女のしなやかな指先が地面の砂を深く掬い上げた。


「――っらぁ!!」


気合一閃。ローズは全速力の勢いを乗せ、掴み取った砂をスペードゼロの顔面めがけて投げつけた。 卑怯、泥臭い、何とでも言え。一瞬の隙、一秒の視界不調さえあれば、そこが反撃の起点になる。


視界を覆い尽くす、茶褐色の砂の壁。 スペードゼロの視界が完全に遮られたかに見えた。


だが――。


「……無駄だ」


不気味なほど落ち着いた声。 砂埃が舞い散るその中心で、スペードゼロの右眼――無機質な「機械義眼」が、闇を切り裂くような鋭い赤い閃光を放った。


砂を投げつけた反動を利用し、ローズは低く鋭い受け身を取った。そのまま地面を滑るようにして、近くの瓦礫の陰へと身を潜める。心臓の鼓動が耳の奥で激しく打ち鳴らされるが、彼女の意識は極限まで研ぎ澄まされていた。


一方、砂塵に巻かれたスペードゼロは微動だにしない。彼女の右眼、赤く不気味に発光する機械義眼が、高速で移動するローズの残像を冷徹に追尾し、その座標を正確にロックしている。


瓦礫の背後で膝をつき、ローズは手にした感触を確かめる。 それは、少女の攻撃で吹き飛ばされた戦闘員が持っていた、偶然にも転がっていた無機質な軍用拳銃だった。使い慣れた愛銃ではないが、今のローズにとっては大きな反撃の牙となる。


「……あいつ、相変わらず化け物じみてやがる」


その時、スペードゼロの傍らに控えていた部隊員が、彼女専用の重厚なマシンガンを恭しく差し出した。スペードゼロは背後の部下に見向きもせず、視線はローズの潜伏地点をロックし続けたまま、その右腕――不可解な動きを見せるワイヤーに繋がった機械義手を伸ばす。


義手は蛇のようにうねり、重い銃身を受け取った。


「お前たちは一切手を出すな」


スペードゼロの右腕は、人間の動きを逸脱していた。ワイヤー型の義手が物理法則を無視した軌道でマシンガンを軽々と振り回し、射撃位置へと固定する。


「はっ、スペードゼロ様」


部隊員たちはスペードゼロの威圧に押され、一斉に退く。


「……これでも食らいなッ!」


ローズは瓦礫の端から身を乗り出し、奪った拳銃の引き金を立て続けに引いた。弾丸が最短距離でスペードゼロへと突き進む。


だが、スペードゼロはまるで見えているかのように、流麗な動作で体を翻した。踊るような回避行動、それでいて視線は一点もローズから外さない。彼女の右腕——あの異形のワイヤー義手が、本体の動きとは独立した生き物のようにマシンガンを旋回させ、義眼と連動した照準が瞬時にローズを捉える。


間髪入れず、猛烈な反撃が開始される。 スペードゼロのマシンガンから放たれる弾幕は、ローズが隠れる瓦礫へ吸い込まれるように集中した。コンクリートが激しく削られ、火花と石粉がローズの頭上に降り注ぐ。


「……ッ! あの動き、ありえないだろ……!」


瓦礫に背を預け、ローズは毒づいた。人間業ではない。右腕と右眼、その機械化された部位が演算する「最適解」に、ローズは一時的な防戦を強いられた。


しかし、暴力的な銃声が唐突に途切れる。 全弾を撃ち切ったマガジンが空となり、次弾装填のためにスペードゼロの動きがわずかに静止する。


「今だ……!」


ローズは迷わず手を伸ばし、足元に転がっていた複数の小石を掴み取った。それを渾身の力で、扇状にスペードゼロの右へ向けて投げつける。


スペードゼロの右義眼が高速で明滅した。 飛来するひとつひとつの小石を瞬時にデータとして取り込み、空間座標を特定。リロードを終えたばかりのマシンガンが、物理的な限界を超えた速度で銃口を跳ね上げる。


タタタタンッ!


乾いた音が響く。 放たれた弾丸は、空中でローズの投げた小石を正確無比に撃ち落とし、粉々に砕いてみせた。投擲による目眩ましすら、彼女の「演算」と「弾幕」の前では無意味な足掻きに過ぎないように見えた。


小石が空中で粉砕されるよりも先に、ローズは地を蹴っていた。 スペードゼロが小石の迎撃にリソースを割いたコンマ数秒――彼女は小石を投げた方向とは真逆、スペードゼロの死角を突くようにして、背後の瓦礫群へ向かって全速力で疾走する。


「……消えたか」


小石を撃ち落とし終えたスペードゼロがとっさに気付く。そこには既に標的の姿はない。


ローズは「独特のつま先立ち」走法で、音を最小限に抑えながらも爆発的な加速を見せる。獲物を狩る野獣のように、しなやかで低い姿勢。


(……まだだ。まだ足りない……!)


全速力で移動しながら、ローズは横目でスペードゼロの立ち位置を冷静に分析する。今の自分は移動の真っ最中。この体勢、この角度では、銃を構えたとしてもスペードゼロを確実に仕留めることはできない。


だが、ローズは迷わなかった。 彼女は走りながら、敵のいる場所とは全く関係のない方向へ銃口を向ける。


――タタンッ!


乾いた銃声が二度。 走りながら放たれた弾丸は無人の空を切り裂き、近くの鉄屑に当たって高い金属音を立てた。自らの位置を露呈させるような、一見すると無意味な狂い撃ち。だが、その瞳の奥には、『ひらめき』が宿っていた。


放たれた弾丸は、瓦礫の鋭い角と鉄骨の表面を、まるで計算し尽くされたような角度で叩く。水面を滑る円盤のような芸術的な軌道。火花を散らしながら加速する二つの牙は、複雑な反射を繰り返しながら、スペードゼロの背後を捉える。


「――ッ!?」


機械義眼の演算能力をもってしても、直撃ではなく「跳弾」の最終到達点を予測するには、コンマ数秒の遅れが生じた。


まず、一発目の跳弾がスペードゼロの生身の左腕を鋭く掠める。 強化繊維の袖を切り裂き、白い肌に赤い一文字を刻み込んだ。予測不能な角度からの衝撃に、スペードゼロの回避行動が一瞬だけ硬直する。


一発目の被弾によって、重心がわずか数ミリ浮き上がったその刹那。 二発目の跳弾が地面スレスレを這い、スペードゼロの左足のブーツを狙い澄ましたかのように掠め飛んだ。


致命傷ではない。しかし、激しい衝撃が彼女の強固な立ち位置を根底から崩した。

絶対的な優位を確信していたスペードゼロの顔に、初めて明確な「亀裂」が走った。 左腕に刻まれた灼熱の痛みと、左足を一瞬でも奪われた衝撃。それは彼女が信奉する「完璧な演算」が、一人の泥臭い女の「ひらめき」に敗北した瞬間だった。彼女は屈辱と困惑を押し殺すように奥歯を噛みしめ、苦渋に満ちた表情を露にする。


「ローズッ!!……とても人間業とは思えぬ。あと少し遅ければ、確実に撃ち抜かれていた。なんだあの動きは。機械化はおろか、生体兵器の強化処置すら受けていないというのにッ……!」


スペードゼロの呟きは、怒りを通り越して畏怖に近い色を帯びていた。目の前で起きた事象は、まさしく自分の信念を完全に覆しているようであった。


少し後方では、スペード部隊の精鋭たちが、銃を構えたまま石像のように硬直している。彼らはスペードゼロと共に数多の戦場を経験してきたプロフェッショナルでもある。だが、今、眼前で繰り広げられている一瞬の攻防は、彼らの知る「戦闘」の概念を遥かに超えていた。


物理法則をあざ笑う跳弾、野生の獣のような走法、そして計算されているとは到底思えない策略。それは一級の芸術的のような美しさで、その場にいる全員を魅了していた。


その静止した時間の外側では、新たな鼓動が刻まれ始める。


部隊員たちが注視する戦場からわずかに離れた場所。 冷たい土の上に横たわっていた少女の指先が、微かにピクリと動いた。


土埃に汚れ、蒼白だった少女の顔に、僅かな血色が戻る。 重い瞼が、磁石に引き寄せられる鉄の断片のように、ゆっくりと、だが力強く持ち上がっていく。 目覚め。

深い奈落の底から這い上がってきた少女の瞳が、再び荒野の空を捉えた。


シーン9:不確実性

ローズは新たな瓦礫の影に滑り込む。心臓が早鐘を打つ中、手にした拳銃のマガジンを吐き出させる。


カチリ、と虚しい金属音が響いた。


「クソッ……」


残弾はゼロ。拾い上げた幸運も、先ほどの奇跡的な跳弾で使い果たしてしまった。鉄の塊と化した銃を握りしめ、ローズは苦く吐き捨てた。武装を失った兵士ほど、この状況で無力な存在はない。


「哀れな女だな!」


静寂を切り裂くように、スペードゼロの鋭い声が響き渡る。 彼女は掠め取られた左腕の痛みなど既になかったかのように、ローズが潜む瓦礫を見据えていた。一歩、また一歩と、スペードゼロの歩調が近づいてくる。


「無意味な抵抗はやめて、さっさと我に屈せよ! その『ひらめき』という名の足掻きも、もはやこれまでだ」


スペードゼロの言葉には、勝利を確信しながらも、どこか違和感があるような、なんとも言えない感覚が宿っていた。


ローズは自嘲気味に鼻で笑い、もはや役に立たなくなった拳銃を地面に放り捨てた。乾いた音を立てて転がる鉄屑。


「あんたに屈するくらいなら……死んだ方がマシだよ」


瓦礫の陰で、ローズは静かに、だが燃えるような闘志を瞳に宿して立ち上がった。たとえ武装がなかろうと、身体がボロボロであろうと、彼女の魂を繋ぐ「自由」の鎖だけは、誰にも断ち切ることはできない。


スペードゼロの軍靴が、乾いた音を立ててローズの隠れる瓦礫へと近づいていく。


「ならば計画を変更する。拘束などやめて、望み通りに駆逐される未来を与えてやろ……う……」


宣告の途中で、スペードゼロの言葉が不自然に途切れた。 精密機械のごとき論理で動く彼女の脳内に、説明のつかない「不気味な違和感」が突き刺さる。背筋をなぞるような、おぞましいまでの気配。普段、数値と演算にのみ従う彼女が、生まれて初めて自分の生存本能に突き動かされるように、反射的に横を振り向いた。


彼女の視線の先には、自分たちの戦いに見惚れ、硬直している部隊員たちがいた。 だが、その少し離れた場所――先ほどまで動かぬ人形のように転がっていたはずの少女が、そこにいた。


少女はひざまずき、「No.78」を再びその華奢な肩に預けていた。吸い込まれるような無機質な瞳が、スコープの向こう側からスペードゼロの心臓を的確に狙っている。


「……ッ!?」


スペードゼロの動きが完全に止まった。エネルギーを使い果たしたはずの「セブンティエイト」が、なぜこの短時間で再起動しているのか。彼女の演算回路は、目の前の現実を処理しきれない。


その一瞬の隙を、これまたローズは見逃さなかった。 瓦礫の陰から飛び出した彼女の足は、スペードゼロではなく、硬直している部隊員たちへと向けられていた。


彼女の自由で無限なひらめきは、いかなる状況でも尽きる事は無い、反時計回りに瓦礫を縫うように移動していたローズは、単にスペードゼロの死角を突くためだけではなく、拾った拳銃に代わる「次の獲物」――油断している部下たちの銃器を奪うための最短距離をも見据えていた。


「あんたの間違いは、あたしの『悪あがき』を過小評価したことだッ!」


部隊員から武器を奪うべく疾走するローズ。その視界に、予期せぬ、しかし最高に頼もしい光景が飛び込んでくる。


(あははっ! 起きたね、チビ!!!)


ローズの口元に、不敵で、どこか楽しげな笑みが浮かぶ。彼女は足を止めるどころか、さらに加速した。驚愕して銃を構えようとする部隊員たちの目の前を、まるで彼らがただの案山子であるかのように、嘲笑いながら素通りしていく。


「チビ、左上だ!左上を狙いなッ!!」


ローズの鋭い叫びが荒野に響く。少女の瞳の手前、エメラルドグリーンに発光するレティクルは、既にスペードゼロの心臓を完璧に捉えていた。システムの最適解は、目前の脅威の排除。少女は困惑したように、初めて「機械」ではない、彼女自身の意志が混じった声を漏らした。


「……えっ? でも、システムは完全に捕捉……捕捉してるよ……?」


それは、ローズと出会って初めて発した、人間らしい戸惑いの混じった言葉だった。

一方で、スペードゼロの背中を冷たい汗が伝う。「セブンティエイト」のあの一撃がどれほどの脅威か、誰よりも理解しているのは彼女自身だ。義眼が警告アラートを乱舞させる中、回避か、迎撃か、それとも――。


「クッ……」


スペードゼロが思考を巡らせているその刹那。 ローズはしなやかに身体を回転させ、円を描くような美しいモーションでおチビの足元へと滑り込んだ。砂煙を上げながら「No.78」と、それを持つ少女の隣へ。


少女の視線がスコープから一瞬だけ外れ、隣に並んだローズを見つめる。二人の視線が重なった瞬間、運命の歯車が二人の未来へと回り始める。


ローズは少女の背後から包み込むようにして覆いかぶさる。少女が息を呑み、わずかに顔を巡らせた。 すぐ隣。耳元に触れるほどの距離に、ローズの顔がある。戦火に汚れ、傷つきながらも、闘志の光を宿したその横顔は、沈黙の世界を生きてきた少女の目に、この荒野で唯一の「美しいもの」として映り込んだ。


少女の胸の奥で、定義不可能な感情の波が静かに、だが激しく震えた。


「お姉……ちゃ……ん……?」


唇から零れたのは、プログラムされたコードではない、魂の底から絞り出される声。

ローズはその声に応えるように、優しく、それでいて力強く自らの指を少女の指の上に重ねた。引き金にかかった、小さくて冷たい機械の指。それをローズの温かな熱が包み込む。


「あたしを信じな……」


ローズは囁きながら、少女の細い身体ごと、長身なスナイパーライフルを強引に引き上げる。 エメラルドグリーンのレティクルが、スペードゼロの心臓を離れ、空の向こう――外壁門の上部に位置する監視塔へと吸い寄せられていく。

二人の鼓動が重なった刹那、ローズの指が優しく、しかし確かな意志を込めて少女の指を押し込んだ。


「――いっけぇ!!」


重厚な機械音が荒野に響き、「No.78」の銃口から高濃度のエネルギー弾が放たれた。それは、以前発射されたエネルギー砲とは大きく異なる、鋭い一本の槍のような、極限まで圧縮されたエメラルドグリーンの閃光だった。


その弾道は異質な挙動を見せる。


セブンティエイトのシステムは、スペードゼロとの距離を「適正射撃距離」として捕捉し、必要なエネルギーに応じて弾道を固定していた。だが、引き金を引く直前にローズが強引に銃身を跳ね上げたことで、システムの再演算は行われず。


空中で加速する閃光が、一瞬、限界を超えた歪みで激しく離散する。一本の槍だった光は、数多の光の礫(つぶて)へと姿を変え、不規則な軌道を描きながら空中を舞う。


「何っ……!? 外したというのか!?」


スペードゼロが驚愕に目を見開く。 離散した光の礫が降り注いだのは、スペードゼロの頭上――外壁門の上部にそびえ立つ「監視塔」だった。


堅牢な監視塔の外壁が粉々に弾け飛ぶ。巨大な瓦礫の塊が、重力に従ってスペードゼロとその部隊の上空から降り注ぐ。


スペードゼロは微動だにせず、立ち尽くしていた。


彼女の右機械義眼が激しく明滅する。赤く輝くレンズの奥では、落下する無数のコンクリート片、鉄骨、そして火花の軌道が瞬時に演算されていた。視界を覆い尽くす無数の赤いターゲットマーク。予測ベクトルが交差し、彼女の視覚情報は飽和状態(オーバーロード)に陥る。


「……計算不能な無数の質量。回避ルート、再編中……」


一方、数秒前まで芸術的な死闘に見惚れていた部隊員たちは、一転してパニックに陥っていた。 頭上から降り注ぐのは、戦闘服など容易く圧し潰す巨大な構造物の残骸だ。


「退避ッ! 退避せよ!!」 「うわあああッ! 逃げろ!!」


エリートとしての矜持は消え失せ、彼らは重い銃器を放り出し、我先にと安全な場所を求めて瓦礫の影へ飛び込む。統制の取れていたはずの「秩序」が、ローズの放ったひらめきの一撃によって、無様な混乱へと塗り替えられていく。


監視塔の残骸が降り注ぐ『雨』の中心で、スペードゼロは奇妙なほど静かに立ち尽くす。


彼女は空を見上げ、何かに取り憑かれたような表情を浮かべている。 生身の左腕は、まるで恵みの雨を受け止めるかのように、掌を天へと広げ。対照的に、ワイヤー型の機械義手である右腕は、主(あるじ)の思考とは独立した戦闘生物のように蠢き、彼女の頭上に迫る巨大なコンクリート片を次々と迎撃、粉砕していく。


「……人の『ひらめき』が、機械を超えるというのか……?」


彼女の右機械義眼に映し出される視界は、依然としてエラーコードとオーバーロードの警告で赤く染まり、カオス状態に陥っていた。 崩れゆく監視塔から、秘密結社のシンボルである旗が力なく崩れ落ち、ゆらゆらと宙を舞う。その背後からは、監視塔に遮られていた太陽の光が、鋭く、眩しくスペードゼロの義眼を貫いた。


敗北。それを認めざるを得ない屈辱のなかで、彼女の唇は、乾いた問いを小さく吐き出した。


その背後では、ローズがすでに行動を開始していた。 スナイパーライフルを慣れた手つきで肩に担ぎ直し、戸惑う少女の小さな手を力強く握りしめる。


「行くよ、チビ! こっちだ!」


視線の先には、「外の世界」へと繋がる外壁門の勝手口が開いている。この混乱に乗じれば、追っ手を振り切れる。


ローズに手を引かれ、縺れる足で急ぎ足に走り出す少女。自由へと踏み出すその寸前、少女は抗いがたい衝動に突き動かされるように、ゆっくりと振り返った。

瓦礫の雨の中で、不気味に静止したスペードゼロ。


「お母さ……ん……?」


少女の唇から漏れた、あまりにも幼く、哀しい呟き。 それは風にさらわれ、誰の耳に届くこともなく、崩落の轟音の中に消えていった。


シーン10:影

激烈な死闘が繰り広げられた荒野から、遠く、高く。 秘密結社の敷地全体を見下ろす別棟、その最上階付近に位置する一室。


外界の喧騒が嘘のように静まり返ったその部屋で、一人の女がブラインド越しに戦いの一部始終を見届けていた。崩れゆく監視塔、立ち込める砂塵、そして逃走する二つの影。女は静かにブラインドから手を離し、指先を滑らせて窓を閉じた。


部屋には一切の明かりがない。しかし、深い闇の中で女の右眼だけが、怪しく、鋭い紫色の光を放っている。それは高度な望遠・記録システムを搭載した、選ばれし者にのみ与えられる機械義眼だった。


「スペードゼロの奴……あんなものを隠し持っていたとは……」


闇に浮かぶシルエット。整えられた独特のおかっぱ頭に、斜めに被ったベレー帽。スペードゼロのそれと似た、組織幹部に着ることを許された軍服。


「はて……、ダイヤゼロやクラブゼロもこれを知っていたのか? いいや、この情報屋の私ですら見抜けなかった代物だ ……知る由もないか」


女は独り言をこぼしながら、部屋の中央へとゆっくり歩を進める。その足音は一切の無駄がなく、洗練された「兵器」としての品格を漂わせていた。彼女は中央に置かれた重厚なソファに腰を下ろすと、ゆったりと足を組んだ。


「しかし、スペードゼロよ…… 第1世代(ファースト)のあんたはあの程度とは……、いささか滑稽だったな。オンボロ兵器には、時代の流れが早すぎたのかい?」


女の唇が、嘲笑を刻む。


「第7世代(セブンス)か…… あの小娘は気になる。仮に第1から第6までのすべての能力を継承していると推測すると、早いとこ後をつけとかないと…… 厄介なことになるね……」


闇の中に沈むソファで足を組み換える女。 彼女がスペードゼロの敗北を嘲笑っていたその時、脳内に直接、冷たく重厚な声が響き渡った。


『お前の思考が駄々漏れだぞ、ハートゼロ……』


「――!」


背筋を凍らせるようなその声が聞こえた瞬間、ハートゼロは弾かれたように立ち上がった。先ほどまでの余裕は霧散し、その姿勢は瞬時に軍人としての直立不動へと変わる。


「はっ、失礼いたしました……」


相手の姿はそこにはない。だが、ハートゼロにのみ組み込まれている特別な通信機能が、彼女のニューロリンクを介して直接意識に謎の声を流し込む。


『私もお前に同感だ。早急に調査を開始し、あの二人の行き先を突き止めろ。……方法は、その道の専任であるお前に一任する』


「はっ…… ありがたき幸せに存じます」


ハートゼロは、誰もいない真っ暗闇の部屋の中央で、目に見えぬ「王」に向かって深く、完璧な敬礼を捧げた。その紫色の義眼が、任務への渇望でさらに鋭く光る。


『スペードゼロには干渉するな。……彼女には、私が直接話す』


「はっ、承知いたしました。」


シーン11:始まり

監視塔の崩落が遠い過去のことのように思えるほど、その周囲は静寂に包まれていた。 一台の軍用バイクが、全速力で荒野を疾走する。エンジンの振動が、埃まみれの二人の身体に一定のリズムを刻み続けていた。


「もう大丈夫かい?」


ハンドルを握り、風を切り裂きながらローズが声を張り上げた。バックミラー越しに見える後ろの少女は、ローズの腰を細い腕でぎゅっと掴んでいる。


「うん、もう大丈夫……」


少女の返答はまだ弱々しかったが、そこにははっきりとした生気が宿っていた。 しばらくして、ローズの背中に預けられていた少女の顔が少しだけ上がる。彼女の瞳は、自分を連れ出してくれた恩人の背中を見つめている。


「お姉ちゃんは、誰?」


ふとした問い。

ローズは前を見据えたまま、少しだけ口角を上げて答えた。


「あたしはローズ。……薔薇のローズだよ」


支配のためのコード「Laws(秩序)」ではない。荒野に根を張り、自らの意志で咲く花。かつて母がくれたその名を、彼女は誇らしげに告げた。


「ローズ……」


少女はその名前を、不慣れな言葉を覚える幼子のように、唇の中で何度か繰り返した。 そして、何かに気づいたように眉を潜め、困惑の表情を浮かべる。


「ローズ……あたしは……」


自分を呼ぶための言葉を探して、少女は口ごもった。 「No.78」という番号でも、「第7世代」という分類でもない、自分だけの名前。それが自分には欠けているという事実に、彼女は初めて、言葉にできない寂しさを感じていた。


ローズは声を張り上げた。


「お前は、おチビ。――今日からお前は『おチビ』だよ!」


それは、彼女が即興でつけた、あまりにも飾り気のない名前。けれど、固有の識別番号しか持たなかった少女にとって、それは初めて他者から贈られた優しさだった。


「おチビ……」


少女は背中に顔を伏せたまま、その音の響きを噛み締める。胸の奥が少しだけ熱くなり、彼女の唇に、本人も気づかないほど微かな、けれど確かな喜びが宿った。


「うん……」


短く、けれど力強い肯定。 「おチビ」となった少女は、ふと、自分たちが走り抜けてきた後方を振り返る。


遠ざかる視界の先に巨大な外壁の門が毅然とそびえ立っている。その前には、豆粒ほどの大きさにまで小さくなった、人影があった。


スペードゼロ。


崩落した監視塔の残骸が散らばる門の前で、彼女は追いかけるでもなく、ただ仁王立ちで、去り行く二人の背中を見据えていた。その赤い義眼が何を映し、その冷徹な胸の内が何を想っているのかは、もはや届かない距離にある。


しかし、その視線だけは、いつまでも二人の背中を追い続ける呪いのように、荒野の空気に鋭く刺さっていた。


おチビの脳裏にフラッシュバックするのは、無機質な研究所の風景と、自分を冷徹に見下ろしていたあの赤い義眼。けれど、今この瞬間に胸を突き上げるのは、恐怖ではなく、言いようのない感覚と――確信だった。


「お母さん……」


おチビの呟きは、エンジンの轟音にかき消され、風に乗って後方へと流れていく。 曖昧だった記憶の断片が、初めて「家族」という重みを持って彼女の心に定着した瞬間だった。


スペードゼロは、その呟きが届いたかのように、ふっと視線を落とした。 彼女は静かに踵を返し、再び結社という名の檻の中へ歩み始める。その顔に、先ほどまでの冷酷な管理者の面影はない。


「……幸せ、か……」


自嘲気味な笑み。だが、その瞳には微かな安堵の色が混じっていた。 彼女が二人の逃走を許したのは、ミスなどではない。それは、機械に魂を売ったはずの彼女が見せた、人間としての「不確実性」だったのかもしれない。


かつて、人類が平和を謳歌していた時代があった。 しかし、輝かしい未来の約束は、深刻な資源の枯渇、歯止めの利かない物価高騰、そして肥大化した貧富の格差によって、音を立てて崩れ去った。AI研究の果てに「人間の尊厳」は失われ、世界は際限のない略奪と戦争の炎に包まれた。


国家は地図から消え、都市は灰と化した。 生き残った人々は、かつての繁栄の残骸を啜りながら、いつかまた辿り着けると信じる伝説の安息地――『オアシス』を求めて彷徨う日々を送っている。


この物語は、そんな荒廃した世界で、秘密結社の追手を逃れ、自分たちだけの『オアシス』を探し求める二人の放浪者(ストレイヤー)の、長く険しい冒険の記録であった。


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ローズとおチビ しるばーだすと @silverdust

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