第3話 私立桜花学園入学式

 1999年4月8日。

 雲ひとつない快晴。

 桜の名所としても知られる私立桜花学園の正門前には、満開のソメイヨシノが薄紅色のアーチを作っていた。時折吹く風が花びらを散らし、アスファルトの地面を鮮やかに彩っている。


 この日、俺は、人生で二度目となる高校の入学式を迎えていた。


「玲央様、到着いたしました」


 運転手が静かに告げ、後部座席のドアを開ける。

 俺は小さく礼を言い、革張りのシートから身を滑らせるようにして車外へと降り立った。

 黒塗りの高級車。本来なら目立ちすぎる登場だが、この桜花学園においてはそれほど珍しい光景ではない。政財界の子息や令嬢が多く通うこの学園では、高級車での送迎は日常茶飯事だ。


 だが、俺が地面に足をつけた瞬間、周囲の空気が変わったのを肌で感じた。


「……え、嘘。誰あれ?」

「凄い……映画の撮影?」

「西園寺家の車よ。ということは……」


 ざわめきが波紋のように広がっていく。

 俺は制服の襟元を正し、背筋を伸ばして歩き出した。

 桜花学園の制服は、濃紺のブレザーに千鳥格子のスラックス。シンプルだが、仕立ての良さが際立つデザインだ。特注の生地で作られたそれは、俺の身体に完璧にフィットしている。


 視線を感じる。

 好奇心、羨望、そして純粋な驚嘆。

 前世の俺であれば、これほど多くの視線に晒されれば萎縮していただろう。プレゼンの壇上で膝を震わせていたかつての自分を思い出す。

 しかし、今の俺には41年分の経験と、この完璧な容姿という鎧がある。

 数百人の社員を前に経営方針を発表した時のプレッシャーに比べれば、高校生たちの視線など春のそよ風のようなものだ。


 俺は努めて自然に、口元に穏やかな微笑みを浮かべた。

 それだけで、周囲から「はぁ……」という感嘆の息が漏れるのが聞こえる。

 女優・西園寺ソフィアから受け継いだ遺伝子は、強力な武器だ。この容姿が相手に与える第一印象は、今後の学園生活、ひいてはビジネスにおいても大きなアドバンテージになるだろう。


「ごきげんよう」


 すれ違いざま、呆然とこちらを見ていた女子生徒たちに軽く会釈をする。

 彼女たちは顔を真っ赤にして、言葉にならない声を上げて身を寄せ合った。

 少しやりすぎただろうか。だが、舐められるよりはいい。

 俺は「西園寺玲央」というキャラクターを、この学園という舞台で完璧に演じきる必要がある。


 昇降口でクラス分けを確認する。


『1年A組 西園寺 玲央』


 一番上の名前だ。

 他にも知った名前がないか軽く目を通すが、まだクラスメイトの顔と名前は一致しない。

 これからの3年間、彼らと共に過ごすことになる。

 前世のような孤独な青春ではなく、今度こそ実りのある時間を過ごしたいものだ。もっとも、俺の精神年齢は彼らの親に近いわけだが。


 上履きに履き替え、式場である講堂へと向かう。

 巨大なパイプオルガンが鎮座する、歴史を感じさせる講堂。

 既に多くの新入生と保護者が席に着いていた。

 俺が足を踏み入れると、再びさざ波のような静寂と喧騒が交互に押し寄せた。


 指定された最前列の席に座る。

 新入生代表。

 それが俺に与えられた役割だった。

 首席合格者としての務めだ。

 本来なら断りたいところだが、西園寺家の嫡男として、また将来の財界人としての顔を売る機会としては悪くない。

 父も「堂々とやってこい」と背中を押してくれた。


「新入生、起立」


 厳かなアナウンスと共に、式が始まった。

 国歌斉唱、校長式辞、来賓祝辞。

 定型通りの進行。

 壇上で話す校長の長い話を聞きながら、俺は密かに思考を巡らせていた。

 今日のスピーチの内容についてだ。

 学校側から渡された模範原稿はある。「桜の花が~」で始まり、「勉学に励み~」で終わる、無難で退屈な文章だ。

 それを読み上げるだけで合格点はもらえるだろう。

 だが、それでは面白くない。

 これから激動の時代を迎える1999年の若者たちに向けて、そして何より、自分自身の決意表明として、もう少し意味のある言葉を残しておきたい。


「新入生代表、宣誓。新入生代表、西園寺 玲央」


 名前が呼ばれた。

 思考を中断し、俺は静かに立ち上がった。


「はい」


 講堂の空気を震わせるような、よく通る声。

 一瞬の静寂の後、俺は壇上へと続く階段を上がった。

 一歩、また一歩。

 靴音が響くたびに、全校生徒、教職員、保護者、来賓席の視線が俺一人に集中していくのを感じる。

 数千の瞳。

 そのすべてを受け止め、俺は演台の前に立った。


 マイクの高さを調整する。

 視線を上げる。

 広い。

 2025年の株主総会の会場よりも、遥かに広く感じる。

 だが、そこにいるのは敵ではない。これから同じ時代を生きる仲間たちだ。


 俺はポケットから式辞の紙を取り出し、演台に置いた。

 そして、それを一度も見ることなく、真っ直ぐに聴衆を見渡した。


「柔らかい春の日差しに包まれ、今日の良き日に……」


 冒頭は定型通りに始めた。

 美しいテノールが、マイクを通して講堂の隅々まで染み渡る。

 ざわついていた後方の席まで、完全に静まり返った。

 誰もが、俺の声に、姿に、引き込まれている。


 挨拶の中盤。俺は言葉を変えた。


「……世紀末と呼ばれるこの1999年。世間では様々な不安や予言が囁かれています。しかし、私はそうは思いません」


 ここで初めて、俺は微笑んだ。

 作り物ではない、確信に満ちた笑みを。


「新しい千年紀、ミレニアムを目前にした今、世界はかつてない変革の時を迎えようとしています。情報技術の発展は、私たちの生活を、価値観を、根底から覆すでしょう。国境は意味を失い、個人の力が世界を動かす時代がすぐそこまで来ています」


 教職員席から、わずかに戸惑いの空気が流れる。

 原稿にはない言葉だ。

 だが、俺は止まらない。


「変化を恐れる必要はありません。変化こそが、進化の源だからです。私たちは、その変化の最前線に立っています。古い地図は役に立ちません。道なき道を進み、自分たちで新しい地図を描くこと。それこそが、私たち桜花学園の生徒に課せられた使命だと信じています」


 俺は言葉を切り、会場を見渡した。

 生徒たちの顔が見える。

 不安そうな顔、期待に満ちた顔、退屈そうな顔。

 その中に、ひときわ強い視線を感じた。

 前方、女子生徒の席。

 ショートカットの少女が、目を丸くして俺を凝視している。

 食い入るような、それでいて何かを探るような視線。


(……なんだ、あの子は?)


 ただの好奇心ではない、何か値踏みをするような、それでいて吸い込まれそうな瞳。

 彼女の視線が一瞬だけ気になったが、俺はすぐに全体へと意識を戻した。


「伝統を重んじつつ、革新を恐れない。この学び舎で、友と語らい、競い合い、共に新しい時代を切り拓く力を養うことを、ここに誓います」


 最後は力強く締めくくり、俺は深く一礼した。


 一拍の静寂。

 そして、割れんばかりの拍手が巻き起こった。

 最初はパラパラと、やがてそれは波のように大きくなり、講堂全体を揺らす轟音となった。

 形式的な拍手ではない。

 熱を帯びた、称賛の拍手だ。


 顔を上げると、校長が満足げに頷いているのが見えた。

 どうやら、アドリブは許容されたらしい。

 俺は再び一礼し、優雅な所作で壇を降りた。


 席に戻るまでの間も、視線が突き刺さる。

 男子生徒からは「すげぇなアイツ」「度胸あるな」という囁きが、女子生徒からは「かっこいい……」「王子様みたい」という溜息交じりの声が聞こえてくる。

 そのすべてを涼しい顔で受け流し、俺は自席に戻って座った。


 手には微かに汗をかいている。

 やはり、緊張していなかったと言えば嘘になる。

 だが、心地よい疲労感だ。

 自分の言葉で、自分の意志を伝えた。

 それは、前世では決してできなかったことだ。会社のために、株主のために、用意された言葉を読み上げるだけの機械人形だった俺は、もういない。


 式が終わり、退場のアナウンスが流れる。

 クラスごとに列を作って退場する際、俺は再び多くの生徒とすれ違った。

 その中に、先ほどのショートカットの少女の姿があった。

 彼女は列から身を乗り出すようにして、俺の方を見ていた。

 目が合う。

 彼女は何かを言いたげに口を開きかけたが、教師に促されて列に戻っていった。


(……まあ、同じ新入生だ。縁があれば、また会う機会もあるだろう)


 俺は心の中で呟き、講堂を後にした。


 外に出ると、桜吹雪が舞っていた。

 新しい季節。新しい生活。

 そして、これから始まる激動のビジネスと、理想の隠居ライフへの挑戦。


「西園寺くん!」


 背後から声をかけられた。

 振り返ると、数人の女子生徒が駆け寄ってくる。

 同じクラスになる生徒たちだろうか。


「あ、あの、さっきの挨拶、すごかったです!」

「声、すっごく綺麗でした!」


 彼女たちの目は輝いている。

 俺は立ち止まり、営業用の、しかし限りなく自然な微笑みを向けた。


「ありがとう。少し緊張したけれど、そう言ってもらえると嬉しいよ」


「きゃあ!」と黄色い悲鳴が上がる。


 これもまた、青春の1ページだ。

 彼女たちの純粋な反応は、打算まみれの大人たちとの付き合いに疲れた心には、むしろ新鮮で好ましく映る。


「これからよろしくね。同じクラスだろ?」

「は、はい! よろしくお願いします!」


 彼女たちは顔を見合わせてはしゃいでいる。

 平和だ。

 この平和を守るために、俺は裏で戦うのだ。

 310億円という弾薬と、未来知識という羅針盤を持って。


 教室へと向かう渡り廊下。

 ふと、中庭の方に目をやると、一人の少女がベンチで本を読んでいるのが見えた。

 長い黒髪。伏し目がちな横顔。

 周囲の喧騒から切り離されたような、静謐な空気を纏っている。


(……雰囲気のある人だな)


 2年生の先輩だろうか。

 その姿は、この学園の風景の一部のように美しく溶け込んでいた。


 俺は視線を戻し、歩みを進めた。

 教室に入れば、そこにはまた別の出会いが待っているだろう。

 先ほど目が合ったショートカットの少女も、クラスメイトかもしれない。


 俺はネクタイを緩めることなく、1年A組の教室の扉に手をかけた。

 重厚な木の扉。

 その向こうには、前世では味わえなかった、輝かしい高校生活が待っている。

 大きく息を吸い込み、俺は扉を開いた。


「おはよう」


 教室中の視線が一斉にこちらを向く。

 その中へ、俺は堂々と足を踏み入れた。

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