第2話

水樹と呼ばれた女性警護官は、信じられないものを見るように俺の背中を見上げていた。

「男性が……どうしてここに……」

恐怖で震える声。

無理もない。この世界において、男性とは守られるべき宝石であり、戦場になど決して足を踏み入れない存在なのだから。

頭上では、鋼鉄の剛毛に覆われた巨大なクモが、八つの複建をどす黒く光らせている。

獲物が一匹増えた。

奴の目には、俺などただの柔らかい餌にしか映っていないだろう。

「危ないから、あっちへ行っていてください」

俺は努めて穏やかな声を出した。

日常会話でもするようなトーンに、水樹が息を呑む気配がする。

だが、魔物は待ってくれない。

「キシャァァァァァァッ!」

鼓膜をつんざく絶叫と共に、トラックほどもある巨大な質量が落下してくる。

鎌のように鋭利な前脚が、俺の頭蓋を粉砕せんと振り下ろされた。

風圧だけで肌が切れそうだ。

「だめっ! 逃げて! 殺されちゃう!」

水樹が俺の服の裾を掴もうと手を伸ばす。

周囲で見守っていた群衆からも、悲鳴が上がった。

「ああ……なんてこと!」

「素敵な男性が……!」

誰もが、俺の死を確信した瞬間。


ドォォォォォン!!


重厚な衝撃音が公園の空気を震わせた。

舞い上がる砂煙。砕け散るコンクリート片。

だが、そこに肉が潰れる不快な音はなかった。

砂煙が晴れると、そこには奇妙な光景があった。

俺は一歩も動いていない。

左手を頭上に軽く掲げ、巨大なクモの脚を受け止めていた。

「え……?」

水樹の声が裏返る。

「嘘……でしょ……?」

クモの脚は、太さだけで俺の胴体ほどもある。

本来なら、俺の体などトマトのように弾け飛んでいるはずだ。

だが実際には、俺の足元の地面が蜘蛛の巣状に陥没しただけで、俺自身には指一本触れさせていない。

「重いな。体重の掛け方が下手だ」

俺は独り言のように呟き、受け止めた脚を掴む指に少しだけ力を込めた。

ミシッ、ミシミシッ。

硬質な外殻が悲鳴を上げ、蜘蛛の脚に亀裂が走る。

「ギッ……!? ギギッ!?」

魔物が困惑したように声を漏らした。

己の攻撃が止められたこと、そして獲物だと思っていた極小の存在から、圧倒的な「力」が逆流してくることに気づいたのだろう。

奴が慌てて脚を引こうとする。

逃がさない。

「暴れると埃が立つ。少し大人しくしていてくれ」

俺は逃げようとする力を利用し、逆に奴の巨体を引き寄せた。

バランスを崩したクモの腹部が、無防備にさらけ出される。

俺は右手の拳を軽く握った。

腰を入れる必要もない。腕の振りだけで十分だ。

狙うは腹部の中央。

「ふっ」

短く息を吐き、拳を突き出す。

接触の瞬間、拳が音速を超えた。


ドゴォォォォォォォォォン!


大砲の直撃を受けたような爆音が轟く。

衝撃波がドーナツ状に広がり、公園の木々を激しく揺らした。

「ギシャァァァァァッ――!?」

断末魔は一瞬だった。

クモの巨体は、まるでボールのように軽々と宙へ舞い上がり、放物線を描いて公園の中央にある巨大噴水へと叩きつけられた。

水柱が高く上がり、虹を作る。

魔物はピクリとも動かない。腹部には風穴が空き、そこから光の粒子となって崩壊が始まっていた。

俺は服についた砂埃を、パンパンと払う。

「さて、これで終わりですね」

振り返ると、世界が停止していた。

水樹は腰を抜かしたまま、口をパクパクとさせている。

遠巻きに見ていた武装警察の女性たちも、避難していた市民たちも、まるで時が止まったかのように俺を凝視していた。

「怪我はありませんか? 立てます?」

俺は膝をつき、水樹に視線を合わせた。

彼女の肩口からは、魔物の爪に掠られたのか、赤い血が滲んでいる。

「あ……あ、あ……」

言葉にならないようだ。

俺はポケットからハンカチを取り出し、傷口にそっと当てた。

「あ、あの! そんな! もったいないです!」

水樹がようやく声を取り戻し、慌てて身を引こうとする。

男性の持ち物は、それだけで高価なブランド品のような扱いを受けるこの世界だ。

だが、俺には関係ない。

「君の体の方が、ずっと大切ですよ。女の子なんだから、傷を残しちゃいけない」

俺は彼女の瞳を見つめ、微笑んだ。

その瞬間、水樹の顔が一気に沸騰したように赤くなる。

「っ……!!」

彼女は蕩けたような目で俺を見つめ、ハンカチを押さえた自分の手を、愛おしそうに胸に抱いた。

「や、優しい……そして、なんて強い……」

沈黙が破られる。

堰を切ったように、周囲から歓声が爆発した。

「見た!? 今の見た!?」

「一撃よ! S級モンスターを素手で!」

「あんな男性、歴史の教科書でも見たことないわ!」

「キャアアアアア! こっち向いてぇぇぇ!」

興奮した女性たちが、バリケードを乗り越えて殺到してくる。

瞳孔が開いている。獲物を狙う肉食獣の目だ。

これはまずい。

魔物より、こっちの方が厄介かもしれない。

「ご縁があれば、また会いましょう」

俺は水樹に短く別れを告げ、騒然とする公園の出口へと早足で向かった。

「ま、待ってください! 私は水樹です! お名前を、せめてお名前を!」

背後から悲痛な叫びが聞こえたが、立ち止まるわけにはいかなかった。


大通りに出ると、事態はさらに悪化していた。

街中の大型ビジョンに、先ほどの戦闘映像がリプレイされているのだ。

『速報です! 謎の男性が、S級指定モンスター・アラクネを一撃で粉砕しました!』

『見てください、この筋肉の躍動! 護衛なしの単独行動です!』

『彼は神か、それとも人類の希望か!?』

アナウンサーの絶叫が街に響き渡る。

俺はジャケットの襟を立て、顔を隠すようにして人混みに紛れようとした。

だが、俺の体格はあまりに目立ちすぎる。

すれ違う女性たちが、次々と足を止め、熱っぽい吐息を漏らす。

「嘘……あの肩幅……」

「いい匂いがする……本能が疼くわ……」

「ねえ、そこの彼。お茶しない? 全財産あげるから」

逆ナンパのスケールが国家予算並みだ。

どうしたものかと思案しながら路地裏へ入ろうとした時、一台の黒塗りのリムジンが滑り込んできた。

音もなく俺の目の前に停車し、行く手を阻む。

後部座席のドアが開く。

現れたのは、冷ややかな美貌を持つ一人の女性だった。

流れるような銀髪。最高級のスーツに身を包み、その瞳には絶対的な自信と、隠しきれない情熱が宿っている。

「見つけたわ。私の宝物」

彼女は俺を指差し、所有権を主張するように宣言した。

周囲の空気が凍りつく。

野次馬たちが、彼女の姿を見てざわめき出した。

「あの方は……神宮寺財閥の……」

「日本の経済を牛耳る女帝だわ……」

どうやら、とんでもない大物が釣れてしまったらしい。

「僕のことですか? 何か御用でしょうか」

俺は極力、平静を装って尋ねた。

彼女は優雅な足取りで俺に歩み寄り、至近距離で見上げてくる。

「私は神宮寺。この国の経済を回している者よ」

香水の甘い香りが漂う。

「あなたの力、見させてもらったわ。素晴らしい。あまりに美しく、強靭な暴力。私の理性が焼き切れそうよ」

「恐縮です。でも、僕はただの一般人ですよ」

「一般人? いいえ、あなたは人類の至宝よ」

神宮寺は俺の手首を掴んだ。

細い指だが、万力のような力強さがある。逃がす気はないようだ。

「私の屋敷に来なさい。あなたを全力で保護するわ」

「保護ですか。見ての通り、自分の身くらい自分で守れますが」

「法律をご存知ないの? 男性保護法第3条。男性の単独外出は厳禁。違反者は強制保護の対象よ」

彼女は艶然と微笑み、リムジンのシートをポンポンと叩いた。

「それに、お腹が空いているのではないかしら? 最高の食事と、王族のようなベッドを用意させるわ」

その言葉に、俺の腹がグゥと正直に反応した。

旧人類の肉体は燃費が悪い。

「……食事ですか。それは少し惹かれますね」

「ふふ、素直でよろしい。さあ、乗りなさい」

俺は観念し、革張りのシートへと身を沈めた。

車内は広大で、微かに柑橘系の香りがした。

「出せ」

神宮寺が短く命じると、車は滑るように走り出した。

窓の外を流れる未来的な街並み。

だが、車内の空気はもっと濃密だった。

神宮寺は俺の隣に座り、遠慮なく体を密着させてくる。

「ハルト。良い名前ね。今日からあなたは私のものよ」

彼女は俺の肩に頭を預け、陶酔したように目を閉じた。

「あの、神宮寺さん。少し近すぎませんか」

「いいのよ。私は疲れているの。あなたのその溢れる男性ホルモンを吸っていると、頭の痛みが消えていくわ」

彼女の手が、俺の太腿の上を這う。

セクハラだが、この世界ではこれが「女性の権利」なのかもしれない。

「神宮寺さんは、毎日忙しいんですか?」

「ええ。愚かな政治家たちの尻拭いに、ダンジョン対策の出資。この国の男たちは弱すぎて癒やしにもならない。……でも、やっと見つけたわ」

彼女は目を開け、潤んだ瞳で俺を見上げた。

「強くて、温かい。本物のオス。私の全てを捧げるに値する存在」

重い。愛が重すぎる。

だが、不思議と不快ではなかった。

彼女からは、強者の孤独と、俺への純粋な敬意が感じられたからだ。


車は都心の喧騒を離れ、広大な敷地を持つ屋敷へと入っていった。

高い塀。厳重な警備システム。

門が開くたびに、整列したメイドたちが深々と頭を下げる。

「お帰りなさいませ、お嬢様。そちらの男性は……?」

出迎えた老執事が、俺を見て目を見開いた。

「私の大切な客よ。国賓級の扱いでもてなしなさい」

「かしこまりました。直ちに準備を」

屋敷の中は、美術館のようだった。

天井には巨大なシャンデリア。床には深紅の絨毯。

「まずは、お風呂に入りなさい。戦闘の汚れを落とすのよ」

「わかりました。案内をお願いします」

メイドの一人に案内され、俺は大浴場へと向かった。

脱衣所に入ると、メイドたちが顔を赤らめてついてくる。

「お、お背中をお流ししましょうか?」

「いえ、全身洗わせていただきます!」

鼻息が荒い。

「結構です。自分で洗えますから、外で待っていてください」

「そ、そんな! 男性に労働をさせるわけには!」

「これは労働じゃなくて、入浴です」

俺は半ば強引に彼女たちを追い出し、鍵をかけた。

扉の向こうから「あああ、ハルト様の裸体が見たかったぁぁ!」という断末魔が聞こえたが、無視する。

浴槽はプールのように広かった。

湯船に浸かり、大きく息を吐く。

「ふぅ……生き返るな」

湯面に映る自分の顔を見る。

以前と変わらない顔立ちだが、瞳の奥に宿る光が違う。

血管を流れる力が、尽きることなく湧き上がってくるのを感じる。

これが旧人類。ウイルスの影響を受けない、完全なるオスの肉体。

この世界で生きていくには、この力を上手くコントロールする必要がありそうだ。


風呂から上がると、最高級のシルクで作られたシャツとスラックスが用意されていた。

肌触りが恐ろしく良い。

着替えてダイニングルームへ向かうと、そこには数十メートルはあろうかという長テーブルがあり、豪華絢爛な料理が並べられていた。

神宮寺が、ワイングラスを片手に待っていた。

「お待たせしたわね。さあ、召し上がれ。我が家のシェフが腕によりをかけた最高傑作よ」

「ありがとうございます。いただきます」

俺は席につき、目の前のテリーヌを口に運んだ。

……ん?

次に、メインディッシュの肉料理を一口。

「……」

箸が止まる。

「どうしたの? お口に合わなかったかしら?」

神宮寺が不安そうに問いかけてくる。

「いえ、美味しいのですが……少し味が濃すぎますね。それに、スパイスが強すぎて素材の味を殺している」

俺は正直に感想を述べた。

この世界の女性たちは、過酷な労働と戦闘で感覚が麻痺しているのかもしれない。

刺激の強い味付けが「美食」とされているようだ。

だが、これでは体は休まらない。

「あら……これは三ツ星レストランのシェフが作ったのよ? 男性の繊細な舌には合わなかったかしら」

「神宮寺さん。この屋敷のキッチン、借りてもいいですか?」

「え?」

彼女がきょとんとする。

「僕が作り直します。本当の『癒やされる食事』というものを、教えてあげますよ」

「あ、あなたが料理を? 包丁なんて持てるの?」

「任せてください」

俺は席を立ち、エプロンを求めてキッチンへと足を向けた。

その背中を、神宮寺が信じられないものを見る目で見つめていた。

最強の武力を持つ男が、最強の家事能力をも持っていること。

それを彼女が知るのは、数分後のことだ。

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2026年1月19日 19:05
2026年1月20日 19:05
2026年1月21日 19:05

男性の九割が軟弱化した貞操逆転の現代日本。唯一ウイルスの影響を受けない旧人類の俺が、ダンジョンで絶体絶命の女性警護官を助けたら、国家予算レベルの求婚が殺到した 旅する書斎(☆ほしい) @patvessel

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