第二話 祈りが街を灯し、異端が影を落とす

――この世界に来てから、気づけば数日が経っていた。


まだ朝靄の残る時間。

教会の鐘が低く鳴り、屋根の上から白い鳩が羽音を立てて飛び立っていく。


古びた木の扉を押し開けると、石畳の回廊にひやりとした空気が流れ込んだ。

庭の向こうには小さな礼拝堂。蔦の絡んだ壁、苔むした階段。

ここは――私が今、暮らしている場所だ。


借りている一室の窓辺には、干したハーブが揺れている。

机の上には聖書と、見慣れない硬貨。

ベッドは硬いけれど、夜になるとステンドグラス越しの月明かりが床に落ちる。


……この世界で、唯一「安心して眠れる」場所だった。


飛行機事故に巻き込まれたのは、海外赴任している父に会いに行った帰り。

あの瞬間、死を覚悟した。

なのに私は生きていて――そして、ここにいる。


(どうして……?)


理由は分からない。考えても答えは出ない。

でも一つだけ確かなのは、アベルさんが私を見つけてくれなかったら、今ごろ私はどうなっていたか分からないということだ。


想像しただけで、背筋が冷えた。指先が震える。


(恩返ししなきゃ)


今は善意……たぶん善意で住まわせてもらっている。

けれど、いつまでいられるかは正直分からない。

だからこそ、せめて私は役に立ちたい。


少しずつ、この世界の通貨にも慣れてきた。

町の人たちは穏やかで、優しい。

挨拶をすれば返してくれるし、手伝えば素直に笑う。

――それだけで、救われた気持ちになる。


けれど、ふと見上げれば。


町外れにいても存在を誇示するように、白い塔が遠くに立っていた。

聖務庁の塔――空に刺さる、白い槍。


この国、ヴァルティス王国では「信仰」がすべての基盤らしい。

貨幣には天使の紋章。法律は教義がもと。

王でさえ、聖務庁の許可なしに戦を起こせないという。


聖務庁セラフィム・オーダー

退魔も司法も教育も医療も――すべて、教会の手の中にある。


……まあ、私には関係ない。今のところは。


「さて。そろそろご飯でも作ろうかな」


窓を閉め、部屋の入口へ向かったところで――扉が控えめに叩かれた。


こん、こん。


「起きてますか、異界の娘さん?」


聞き慣れた声に、私は肩をすくめて返事をする前に口を開く。


「……その『異界の娘』って呼び方、いつまで続くんですか?

私の名前は、新名莉子にいなりこです!」


扉の向こうで、黒い法衣の裾がひらりと揺れた。

アベルさんが顔を覗かせ、悪びれもせず笑う。


「ええ、でもほら。名前を呼ぶのはまだ少し照れくさいので」


「照れなんて言葉、アベルさんの辞書にあるんですか?」


むっとする私に、彼は肩を竦めて柔らかく言った。


「冗談ですよ、リコさん。……おはようございます」


その声音は穏やかで、少し眠たげで――どこか、体温が低い。


「朝食をお願いできますか? 私、料理が壊滅的に苦手でして」


「知ってます。だから絶対に手を出さないでくださいね?」


「ありがとうございます、女神」


「神父がそんな例え使わないの!」


私が突っ込むと、アベルさんは満足げに目を細めた。

……わざとだ、この人。



小さなキッチンで、私は朝食の支度を始める。

鍋でスープを温め、干し野菜を少し足して、味を整える。

パンは魔道具の熱で軽く炙るだけで香ばしくなる。便利すぎて怖い。


ふわりと湯気が立ち、香りが満ちていく。

教会の空気が、少しだけ「暮らしの匂い」に変わる瞬間が好きだ。


アベルさんは紅茶用のお湯を沸かし、湯をカップに注ぐ。

その仕草が驚くほど様になっていて、思わず見惚れた。


……黙っていれば背も高いし、顔も整っていて、普通に格好いい。

うん。黙っていれば。ここ重要。


「リコさん、お茶入りましたよ」


「ありがとうございます。スープも出来ました。パンも焼けたし……食べましょう」


向かいの席に座るアベルさんと、軽い朝食を囲む。

外では早起きの子どもたちが走り回る声。

商人の鐘が、遠くで小さく鳴っている。


教会のまわりに、小さな町の朝がきちんと流れていた。


……ふと思い出す。

聖務庁直属の神父たちは白い法衣を纏い、都の中心で暮らしているらしい。

なのに、ここに例外が一人いる。


「アベルさん」


「……はい?」


パンをちぎりながら、彼が返事をする。


「どうして庁の人なのに、こんな町外れの教会にいるんですか?」


「堅苦しい生活が苦手でして。あと、いろいろやらかしましてね。最終的には左遷です」


「“いろいろ”の部分が気になりますけど?」


すると彼は、さも軽い雑談みたいに指を折り始めた。


「口が悪い。仕事サボる。上司に盾突く。書類なくす。

……ああ、それと異端審問の連中と喧嘩もしましたっけ」


「うわぁ。ダメな見本のオンパレードですね」


「性格が合わないだけですよ」


さらりと笑い、アベルさんは紅茶にミルクを注ぐ。

その動作が妙に優雅で、腹が立つほど絵になる。


「ここは辺境ですが、私には居心地がいいんです。

信仰も罪も……ここでは少し緩やかですから」


横顔の笑みが、一瞬だけ遠くを見ていた。

寂しさが滲んだ気がして、私はそれ以上聞かなかった。


触れたら壊れそうな沈黙に、踏み込む勇気がまだない。



◆町の風景


午前になると、町は一気に賑やかになった。


石造りの街並み。屋根の上を走る猫。

露店から漂う焼き果物の甘い匂い。

道の両脇には水路が流れ、橋の下では子どもたちが釣り糸を垂らしている。


空には魔導気球が浮かび、商人たちの声が風に乗って飛んだ。


この世界では魔法が、“祈り”の形で日常に溶け込んでいる。

街灯は祈りの炎。時計は聖句の歯車。

人々は朝に短い祈りを唱え、夕暮れには感謝の歌を口ずさむ。


――美しい。

綺麗すぎて、現実感が薄い。


「……映画を見ているみたい」


私が呟くと、アベルさんは立ち止まらずに目だけを細めた。


「本当の私はもう死んでて、長い夢の中を彷徨ってるんじゃないかって……たまに思います」


「現実というのは案外、夢より理不尽ですから」


彼は街角の花屋で、白いユリを一本買った。

鼻先に近づけ、香りを確かめる。花弁に触れる指が、驚くほど優しい。


「一度死んだと思った人生なら――ここで存分に楽しんではどうです?」


「……え?」


「人の命なんて、あっという間です。

悩むより、受け入れて楽しむほうに時間を使いましょう」


私は唇を噛む。


「でも、元の世界のことも……思い出すんです。お父さん、心配してるだろうなって」


アベルさんは、ほんの少しだけ笑みを深くした。


「忘れる必要はありませんよ。

でも、悩んだって解決しない事柄なら――割り切って、人生を二倍楽しめばいい」


淡々とした声なのに、言葉に妙な重さがある。

彼は“知っている”みたいだった。取り返しのつかない喪失を。


「ある日突然、帰れるかもしれない。

誰も明日のことなんて分からないんですから」


そう言って、ユリを私に差し出した。


「お部屋の彩にどうぞ」


「……ありがとう、アベルさん」


白い花を受け取った指先が、少しだけ温かかった。




◆聖務庁の動き


同じ頃――都アルトレア。

聖務庁本部、白い塔の奥。異端審問局の会議は、冷たい静けさに満ちていた。


「――異界から来た娘?」


報告を受け、上座の神父が目を細める。

マタイ・クロイス神父。白い法衣。指先でロザリオを転がしながら、口角をわずかに上げた。


「はい。数日前、空から現れたとの報告です。現在はアベル・クレインの保護下に」


「……アベルが」


名を呼ぶだけで、そこに含みが生まれる。


「異端として捕らえますか?」


張りつめた沈黙。

マタイはゆっくりと聖典を閉じた。


「いいえ。――暫く様子見しましょう」


部屋の空気がさらに冷える。


「災いの種となるようなら、異端審問にかければいい」


その瞳には、温度のない光が宿っていた。



◆夜の教会


夜。

風が止み、ろうそくの炎だけがゆらゆらと揺れている。


聖堂の長椅子で、アベルさんが祈っていた。

黒衣の裾が床に広がり、影が長く伸びる。


私は息を殺して近づき、そっと声をかける。


「……アベルさん、いつも夜中に祈ってますよね」


「ええ。眠れない性分でして」


祈りをやめないまま、彼は短く答えた。


「神様に何をお願いしてるんですか?」


その問いに、アベルさんはようやく目を開けた。

そして、ゆっくり微笑む。


「……沈黙の理由、ですかね」


「沈黙の理由?」


「どうして神は、救うべき人を選ばないのか。

どうして奇跡は、必要な場所に降りないのか」


静かな声。

それは問いかけというより、何度も反芻した傷口のようだった。


「――まあ。答えはまだ、順番待ちです」


思わず、私は吹き出した。


「待ってたら教えてくれるんですか? この世界の神様は」


「神様も忙しいんですよ。悩める人間が多すぎますからね」


笑い声が、静かな聖堂にやわらかく響く。

けれど、その瞳の奥にはどこか深い闇があった。


祈るたびに少しずつ削れていくような、静かな消耗。

……私はそれを見てしまった気がした。



翌朝。

アベルさんは黒衣を翻し、出入りする信徒に穏やかに挨拶していた。


その背中を見つめながら、私は胸の奥で誓う。


(この世界に馴染めるよう、頑張ろう)


空は高く、鐘の音が青空を震わせる。

ステンドグラスから射す光が、私の髪を柔らかく照らした。


その光を見上げながら、アベルさんが小さく呟く。


「……神よ、彼女をお守りください。

――いや、保険として私も付けておきましょう」


「今、なんか言いました?」


「いえいえ。信仰心の話ですよ」


アベルさんは笑い、黒衣の裾を揺らして歩き出した。

その笑顔の奥には、誰にも見せない静かな覚悟が宿っていた。


白い塔の影が、遠くでこちらを見下ろしているとも知らずに――。

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祈りの銃と異界の娘 白玉蓮 @koyomi8464

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