第1話(3) 大阪初日で死んだ夜

「今日からお世話になる早瀬亜希です。よろしくお願いします」

「あらー」

「!!」


 玄関を入った亜希がそう挨拶すると、初老で小太りの女性が歓迎の笑顔を浮かべる横で、同じく初老で小太りの男性が眉を吊り上げ、眼鏡を掛け直した。


「ちょっと! ここは女子寮! 男子寮は100メートル先だよ?」

「女子です。申し込み書で名前見てますよね?」

 と、亜希はお決まりの返答をする。


 西中島にある、◯△女子寮――亜希はここで下宿することになっていた。



 ***



 誤解が解けた亜希は中へと招かれると、スリッパに履き替えて玄関を上がった。

 この初老のご夫婦は寮長・寮母夫妻らしい。


 寮長が「ちょっと待っててね」と目の前の寮長室へ引っ込むと、「寮長の定年後、ここでの仕事を始めたのよ」、と寮母が頬に手を当てながら教えてくれた。


 亜希がぐるりと周囲に目をやると、8畳ほどの玄関周りには靴箱や寮長室、2階へと続く階段や奥へと伸びる廊下などがあった。


 ほどなく寮長が「いやー、ごめんごめん」と戻ってくると、プリントの入ったクリアファイルを差し出した。


「うちはこの辺一帯の学校の女子寮でね。いろんな学校の生徒が暮らしているんだけど、みんなで気持ちよく暮らすために、いろいろとルールがあるんだ」


 亜希は中の『寮のルール』の文字に目を落としながら、クリアファイルを受け取った。

 本音を言えば亜希は自由の効かない学生寮でなく、普通のマンションかアパートがよかったのだが、「悪い虫が付いたらイカン!」と父に反対され、この下宿先に決められたのだった。


〘こんな男みたいな娘でも、父親にとってはかわいいんかなぁ……掲示板見て怒っとったし〙


「はい、これ」

 亜希がその時の父の怒る姿を思い出して頬をかいていると、寮長が小さな板を見せた。

 裏と表が赤白に塗り分けられ、その両面には『早瀬亜希』の名前が入っている。

 寮長は階段下の壁にある、赤白の札の並ぶ、壁掛けカレンダーサイズほどの横長のボードを指した。


「そこに名札ボードがあるでしょ?」


「外出する時に赤札にして、戻ってきたら白札にするんだ。君の名札は、ここね」


 寮長は名札ボードの空いたところを指すと、亜希に名札を渡した。

 亜希が白札を掛けてみると、カラ、と小気味のいい音が鳴った。

 ずらりと並ぶ名札の中に自分の名前が加わるのを見て、乗り気でなかった亜希の心が少しだけ踊った。



 ***



 亜希の部屋は2階になるらしく、その後寮長に案内された。

 

「そこ、1階の奥は食堂。今日は休日でご飯出ないけど、キッチンやレンジやポットもあるから。寮はいろいろと決まりごとがあって面倒に思うかもしれないけども、食堂でみんなと食べるご飯も美味しいし、ここは君の学校の生徒も多いから、きっと楽しく過ごせると思うよ。みんな、いい子たちだしね」

「ふふ、そうですか」


 目を細めてそう語る寮長に、亜希もつられて笑顔がこぼれた。

 確かに毎日一人で過ごすより、誰かがいる方が楽しそうではある。

 乗り気でなかった寮生活だが、思っているよりずっと面白いかもしれない。


 階段を上がりながら、亜希は心を開きかけていた。

 真面目そうな四角い黒縁の眼鏡をかけて、人のよさそうな笑顔を浮かべる、この寮長に……


 しかし2階への最後の階段を上がろうとした、その時――


 ガンッ!


 2階の奥から物騒な物音が轟き、寮長が慌てて声を上げた。


「くっ、久住さん?!」



 ***

 


 ガンッ! ベココン!

 

「くっ、久住さん?!」


 青ざめた寮長が慌てて声を上げた。

 見ると、階段を上がって左側、突き当たりの部屋のドアを、黒髪ストレートの女性がガンガンと蹴り付けていた。


「ああ、寮長」


 黒髪の女性はこちらに気付くと、落ち着いたトーンでそうつぶやいた。

 そして冷ややかな目で寮長を一瞥すると、ショートパンツの裾からすらりと伸びる、ドアの壁にべったりとスリッパの裏を付けたままだった脚を、ゆっくりとおろした。


〘な、なんじゃこの人は……〙

 亜希はその様子を唖然として見守りながら、女性の蹴る部屋のドアに書かれた番号に目をやった。『201』、と書かれていた。


「久住さん、な、何してるの?」

「なんか最近ドアの閉まりが悪いんですけど」

「そ、そうなんだ。後で見させてもらうね」


 笑顔のまま、しかし声を震わせながら聞く寮長に、彼女は腕を組みながら気怠そうに答えた。まっすぐに伸びた黒髪がパーカーのフードに入るのを気にするように、時々目をやっている。


「あっ早瀬さん紹介するね。君のお隣で、同じ学校の1つ上の先輩の久住リカさん。とってもいい子なんだよ」


「…そーですか?」

 彼女を『いい子』と紹介した寮長に、亜希は疑いの目を向けた。

 さっきまで真面目そうに見えていた彼の四角い黒縁のメガネは、いまや冷や汗で曇り、胡散うさん臭く見えた。


「隣?」寮長の言葉に久住さんが眉をひそめた。「あんた女?」


「は、はい…」

 ワンレンの黒髪から覗く優美に垂れた切れ長の瞳が、亜希を鋭く睨み付ける。

 頭半分ほど小さい久住さんに下から顔を覗き込まれるように品定めされ、亜希はたじろいだ。


「あっ! そうそう、この子女の子!」

 彼女に詰め寄られてひるむ亜希の前に、寮長が慌てて割り込んだ。

「早瀬亜希さん、君のお隣なんだ。仲良くしてあげてね」


〘こ、こんな人と仲良くとか、どうやって?〙

 亜希は疑問に思ったが、とりあえずぺこ、と久住さんに頭を下げておいた。


「なんだ女かぁ、つまらん。とにかく、迷惑かけないでね」

 久住さんは面倒くさそうにそう言うと、フードに入り込んだ黒髪をピシャッと手で払い、去っていった。


「ふう、しかしこりゃ困ったね。君のこと、みんなに教えておかなきゃいけないな」

「なんかすみません…」


 久住さんの去った後、亜希と寮長の肩からどっと力が抜け、二人して汗を拭ったのだった。

 


 ***

 


「ぐあーー! 終わったぁ!」

 

 寮長に案内された202号室は6畳ほどの個室だった。

 亜希は部屋の中に届いていた段ボールの荷解きを終えると、ベッドにどさっ、と腰を下ろした。


「……。大阪かー…」


 引っ越し作業の終わった部屋をぐるりと見渡して、つぶやく。

 ドアを入って正面に大きな窓があり、左側にベッド、右側には本棚や学習机などが一体になった家具が備え付けられていた。

 それらに自分の持ち物の並べられた部屋を見てようやく、亜希は大阪へやってきたのだという実感が湧いてきた。

 

〘チカンに間違われたり雨に降られたり、散々な初日やったでホンマ……〙


 と今日起こった様々な災難を振り返りながら溜め息を吐く。


〘おまけになんじゃ、あの久住さんおとなり――ほんま大阪って――〙


 そしてやれやれ、と頭を振りながらベッドから重い腰を上げると――


 亜希は机の下からきゅるっと椅子を引き出して軽快に腰掛け、机の上に設置したばかりのノートパソコンをずいっと手前に引き寄せた。


「美人が多そうやんか~~いや来てよかったァ! どれ、では早速出会いを…」


 ぱかっ!


 久住先輩は美人だった。亜希は睨み付けられた時の先輩の艷やかな瞳を思い出しながら、うきうきでノートパソコンを開き、いつもの出会い掲示板にアクセスした。


 しかし目当てのスレッドを探しながら、「でも…」とその手を止めた。


「……駅のあの子には、最後まで女やとは言えんかったな……あーあ、もし男のフリしとったとかバレたら、恥ずかし過ぎて死ねるやん」


 と苦笑いを浮かべながら首の後ろをさする。

 再三『女だ』と告げるチャンスがあったのに、彼女にはなぜか意地になってしまった。


「ま! もう会うことも無いやろしえーかぁ! ……ん? もうこんな時間か」


 ノートパソコンを見ると、時計が夕食の時間を示していた。

 

「……寮長、1階の食堂にポットあるって言うとったっけ」


 亜希はノートパソコンを閉じると、机の上のカップ麺を手に立ち上がった。



 ***

 

 

 ……その頃。


 ガッチャン。

 

 サアサアと小雨の降る中、寮の玄関を開ける者がいた。

 彼女は傘を仕舞って身体とカバンについた雨粒を軽く払って玄関に上がると、カラ、と自分の赤札を白に返そうとして、見慣れぬ札に気付いた。

 

「ああ、青山さん、おかえり」

「寮長さん、こんばんは」


 ちょうど寮長室から寮長が出てきて彼女に声をかけた。


「来たんですか?」

 彼女は少しだけ毛先の濡れた薄茶色の髪をハラ、と揺らすと、嬉しそうに1枚の札を指さした。

 

「ああ、そうそう。君と同じ学校の」

「わー、あとで会いに行こ」

「ふふ、でも見たらちょっと驚いちゃうかもね。だから今、ビラ作ってるんだ」

「ビラ?」


 階段下の名札ボードの前で二人が談笑していると、廊下の奥から背丈の低い黒髪の女の子がやってきて、薄茶色の髪の彼女に声を掛けた。


「あ、葉月おかえりー」

「結衣」


「ごめん、お待たせ」

 葉月と呼ばれた薄茶色の髪の彼女が、結衣と呼ばれた女の子に詫びる。

「ううん、もうほとんどできとるから食堂おいで」

 頭上で小さくタン、タン……と音がしていたが、談笑の声に紛れて誰も気に留めない。


「あ! そういえば雨! 傘大丈夫やった?」

 と女の子が話を振ると、薄茶色の髪の彼女は、はは、と笑って、肩に付いた水滴をもう一度軽く払った。



「はは、それがさー…」



 ボトッ。

 

 トッ! トッ、トッ、コロコロコロ……

 


 にわかに頭上で鳴った異音に、三人の談笑が止まった。

 階段の上の方から、乾いた音を立てながら何かが落ちてくる。誰かが途中でカップ麺だと気付いたそれは、踏み板を跳ねながら1階まで落ちるとコロコロと転がって、やがてその薄茶色の髪の彼女の足に当たって揺れた。


 三人の視線がその未開封のカップ麺から一斉に頭上へと移り、寮長が「おや」と声を出した。


「噂をすれば、早瀬さん」



 その視線の先、2階への階段の中段で、割り箸を手にした亜希が呆然と立ち尽くしていた。

 にこやかに亜希を見上げる寮長の横で、薄茶色の髪の彼女と、背の低い女の子がぽかんとした顔でこちらを見上げている。

 

 その薄茶色の髪の彼女は、駅で会った、彼女だった。

 


 ***



 好きな人に「好きだ」と言える――それはとても幸せなことだろう。

 だがこの早瀬亜希は、まだ一度も「好きだ」と伝えたことがない。

 

 最後の恋は、高校3年間におよぶ片思い。

 カミングアウトすらできずに、

 卒業式の日、目の前で好きな子がかっさらわれるのをただ黙って見ていた。

 

 そんな亜希、だが――

 

 やがてこの彼女に、黙って譲るわけにはいかない恋をすることになる――。


 これは早瀬亜希、二十歳の頃の、

 彼女に「好きだ」と伝えるまでの1年間を描く、

 まっすぐで、不格好な、青春の記録――

 

 ……しかしどうやら、大阪初日で死んだらしい。



 亜希は階段の下を見て呆然とした。

 あの横長の深い瞳が、自分を見上げてぽかんとしている。

 事態を飲み込んだ亜希の顔が、みるみる青ざめていく――


「うっげ!」


 窓の外、サアサアと雨の降り続ける春の夜――大阪西中島の女子寮に亜希の小さな悲鳴が上がった。

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マイノリティ青春グラフィティ~無理めのノンケに恋をして、「好きだ」と伝えるまでの1年間~ Dostoicski @Dostoicski

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