優しい風は、今もここに。
風月夜
第1話
あの日、私は忘れ物を取りに、あの教室へ走った。
確か……あそこに置いたはず。
息を切らして廊下を駆け抜け、一気に三階まで駆け上がる。
廊下の一番奥の教室。その扉を開け、私は滑り込んだ。
私の席は、一番前の水槽の近く。
そこへ向かおうとして、ふと奥に視線が止まった。
窓辺の手すりに寄りかかっている人影。
誰だろう……二年じゃない。
三年の先輩……?
背中しか見えないのに、なぜか目が離せなかった。
この後ろ姿……どこかで見たことがあるような、そんな気がする。
一瞬そう思って、私は無意識に髪を整えた。
その時、彼がこちらの気配に気づいたのだろう。
ゆっくりと振り返る。
「……え?」
声にならない声が、喉から零れた。
漫画の中から抜け出してきたみたいな、整った顔立ち。
思わず息をのむほどの、超イケメン。
彼は私を見て、静かに、コクリと頭を下げた。
……なんだろう この感じ。
私は目を擦って、もう一度よく見る。
それでも、やっぱりどこかで見たことがある気がしてならなかった。
頬に当てた手は汗ばんでいて、蒸し暑い教室なのに、なぜか小さく震えている。
彼は眩しい笑顔で、ただ私を見つめていた。
「あの……」
声をかけようとした、その瞬間。
キーン——。
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。
あ……五時間目が始まる。
そうだ、本を取りに来たんだった。
私は慌てて机の下を覗いた。
……ない。
周りを見回して顔を上げた時には、もう彼の姿はなかった。
さっきまで彼が寄りかかっていた窓辺。
カーテンだけが、大きく外へ揺れている。
向こうのドアから出て行ったのかな……。
話してみたかったのに。
私は口を尖らせた。
早く戻らなきゃ。
そう思って、また自分の教室まで走った。
さっきの彼のことが、頭から離れられず、英語の授業なんて全く手につかなかった。
かっこよかったな……。
まるで本の中から出てきたみたい。
余韻に浸ったまま、無意識に頷いていると、
「笹川さん。
おーい、サ・サ・ガ・ワー」
教室中に先生の声が響いた。
「あ、はい。すみません……!」
私はびくっと立ち上がり、ぎゅっと目をつむった。
クスクスと笑い声が広がり、恥ずかしくて苦笑いするしかなかった。
「何を一人で頷いてたんだ? どうかしたのか?」
英語担当の大森先生。
私の大好きな、無駄にイケメンな先生。
いつもならちゃんと先生の顔を見て授業を受けているのに、今日の私の頭の中は、さっき見た彼でいっぱいだった。
「しっかりしてくれよ」
そう笑って、先生は黒板に向き直った。
その背中が、一瞬、理科室の窓辺にいた彼と重なった気がした。
六時間目が終わり、掃除当番で焼却炉へゴミを捨てに行った。
背後から声をかけられた気がして振り向くと、田所先輩が立っていた。
「よぉ、笹川。今日の部活は体育館だぞ。
次の舞台の打ち合わせがある。
学活終わったら急いで来いよ」
田所先輩は演劇部の部長。
脚本も演出もこなす、スーパーな先輩だ。
二年前、学園祭で観た演劇。
あれに魅了されて、この学校を選んだ。
……田所先輩がいたから。
そう言っても、過言じゃない。
「はい、分かりました」
そう答えながら、私は先輩の向こうに見える校舎に目を向けた。
三階。
理科室のカーテンが、大きく揺れている。
人影が……見えた、気がした。
「ねぇ、笹川? 聞こえてる?」
先輩が私の前に立ちはだかり、視線を遮る。
「あ、すみません……」
「どうしたの? いつもの笹川じゃない。
誰か探してるの?」
耳元で囁かれ、近すぎる距離に、思わず身体をよじる。
「部活、急いで行きますね」
息が止まりそうで、そう言ってその場を離れた。
体育館に入ると、すでに何人かがストレッチを始めていた。
床には立ち位置を示すテープ。
「よし、通しでいくぞ」
私は台本を握りしめ、深呼吸をする。
——集中しなきゃ。
そう思っているのに、浮かぶのは、理科室の窓辺と揺れていたカーテン。
「……笹川 」
自分の番だと気づいた時には、もう遅かった。
「ちょっとストップ」
田所先輩の声が、空気を切る。
「お前、心がここにいない」
胸が締めつけられる。
「誰を想って、そのセリフを言ってる?」
答えられなかった。
「今日はここまでにしよう。
笹川、あとで部室に来て」
部活後、私は部室の前で立ち止まった。
ノックする手が、少し震える。
「入って」
「あの……今日はすみませんでした」
頭を下げると、先輩の手が、そっと私の頭に触れた。
「今日は、何を考えてた?
誰を想って、セリフを言った?」
トントン、と優しく叩かれる。
「今度の舞台が、一緒にできる最後なんだ。
ちゃんと見て、感じてくれなきゃ」
その言葉が、胸に刺さった。
帰り道、駅前のバーガーショップに寄った。
他愛ない話をしながら、気づけば九時をまわってた。
「遅いから、送るよ」
断ったけれど、先輩は譲らなかった。
公園の前で、私は足を止めた。
「今日さ……誰を想って、セリフを言った?
誰が見えた?」
真っ直ぐな視線。
「俺ね、笹川のあのセリフ、一番好きなところなんだ。
だから……俺を想って言ってほしい」
その視線は動かない。
「笹川アンナさん。
俺は、キミが好きです」
私の肩に先輩の手が触れ、引き寄せられ、田所さんの香りが、私を包み込んだ。
その瞬間——。
キーッ……。
静かな夜に、不意に響いた金属音。
ブランコが、揺れる音。
私は先輩の胸から離れた。
「……すみません」
思わずそう言って、頭を下げる。
胸が苦しくて、息がうまく吸えない。
そのまま、私は先輩に背を向け、走り出していた。
家の向かいにある、小さな公園。
子どもの頃から、私が一番好きな場所。
こんな時間に……
誰かが、ブランコに乗っていた?
玄関に入ると、二階の部屋まで一気に駆け上がった。
電気もつけず、ベッドの横の窓へ近づき、カーテンをそっと開ける。
暗闇の中、公園を覗き込む。
……何か、光っている。
街灯の明かりじゃない。
淡く、ぼんやりとした光。
暗くて何も見えないはずなのに、
その光は、ゆっくり、左右に揺れていた。
まるで——
ブランコに乗っているみたいに。
キーッ……
キーッ……。
音は聞こえないのに、
揺れるリズムだけが、目に焼き付く。
しばらく、そうして揺れていた光は——
ふっと、突然、消えた。
闇だけが残ったような。
……今の、何?
その光を見て、私はふと思い出す。
——いつだったか、見たことがある。
夜に静かに揺れていた、あの光。
……蛍。
そう、まるで蛍のよう。
私はカーテンを閉め、暗い部屋の中で、しばらく動けずに立ち尽くしていた。
優しい風は、今もここに。 風月夜 @saiko-mi-ko
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