第2話

 

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 姉の葬式は、父と母の希望で私の自宅で行われることになった。前日の夜、つまり姉が自殺した日の夜、父は、何となく沈黙して居間に集まっていた私と母にむかってこう言ったのだ。


「明子は、あんなにも我が家がすきだったのだから、ずっと我が家にいてもらおう」

 父は、今朝から居間のテーブルに出したままになっている朝食の残りを見つめながら言った。氷水のようにもうすっかり冷たくなっているであろうお茶を右手に持つ。

 私には、そのお茶が少し震えているように見えた。

 父はそれを口に持ってきてすすろうとする。一口飲んだとき、顔を少ししかめた。

 今ではそのテーブルを挟んで向かい合わせのソファに父と母が顔を伏せて座っている。私は、母の隣のソファの一番端に座っていた。まだ姉がいた頃からの私の指定席だった。

「それは、葬式を、自宅で行う、ということですか?」

 母はおどおどした目で父の方を見やる。

「そうだ」

 先ほどから降り出した雨は風も引き連れてきたらしく、窓ガラスをがたがたと揺する。そして時々、木の葉のざわざわという音もそれに混じった。私は、それが八重桜の葉の音に聞こえた。そして、姉が八重桜を通して私に何かを懸命に訴えかけようとしているに違いないと思った。

「お姉ちゃん、そんなに家のことが好きだったのかな?」

 私はつぶやくように言った。

 父と母は居間のはじっこにいる私を見る。その顔は、隠そうとしていても驚いていることが私にもありありと見えた。だけど、私の言葉の意味に驚いている訳ではない。むしろ父と母は、このような深刻な場面はいつも黙って自分の世界でやり過ごしていた臆病な私が言葉を口から出したという行為自体に驚いているのだ。私はそう思った。その二つの顔を目の当たりにして私は、自分が言った事をとても後悔した。だけど、一度口から吐き出した言葉をまた口の中に吸い込む術を私は知らなかった。

 しかたなく私の言った言葉は、誰の中にもとりこまれることなく、しばらく居間の空中を魂のように漂っていた。

 初めにその言葉の尻尾を掴んだのは父だった。

 わざと音を立ててお茶が入ったコップをテーブルに置く。少しお茶がこぼれた。そして父は不愉快そうな抑えた口調で、「どういう意味だ?」と私の目を見て言った。

 私も父のその睨むような目を正面から見返す。懸命だった。心は理由の分からない恐怖で、庭の八重桜と同じようにざわざわ震えている。それを父の目から隠すのに懸命だった。

 私は、答える代わりに上着のポケットの中に右手を入れた。中に入っている紙切れに触れる。父と母にはまだ見せていない、〈姉の遺書〉だった。

「慶子も、姉が自殺したんで、色々と動揺しているんですよ」

 母がとりなすように静かに言う。

 母の言葉のあまりの静かさに言葉を無くしてしまったように、父は黙っていた。もちろん母も私も一言もしゃべらなかった。居間では、石油ストーブの上にのせられた赤いヤカンだけがジュジュと音を立てていた。


 葬式の執り行われる朝は、昨日の夜から降り続いていた雨がすっかりやんでいた。

 私が眠りと覚醒の境界線を行ったり来たりしているうちに、私の部屋の窓ガラスは、黒い絵の具にゆっくりと白の絵の具を混ぜていくように白んで来た。私は机の上に転がっている時計を見る。時計が五時くらいを指しているのが辛うじて見える。私は、このままベッドの上でじっとしているのが嫌だったので、起きた。そして、音を立てないように階段を降りる。寝不足の頭はくらくらとして、気分は少し悪かった。

 私は今のドアを見て、驚いた。

 居間のドアの隙間から、光が漏れ出ている。私は、そっとドアを開けた。

「あら、慶ちゃん」

 居間では、父と母が昨日の夜とまったく同じ位置に座っていた。ストーブはついていなくて、部屋の中は痛いくらいに寒い。しかも、ドアの外からこの部屋に入っただけで、寒さが増したような感じすらした。

「おはよう。今日ははやいのね」

 母がドアの方を振り返って私に言う。その顔に、私が早起きをしたという事に対する驚きは全く無かった。まるでその事を始めから予測していたようだ、と私は思った。

 私は、無意識のうちに居間の中に視線を巡らせて、姉の姿を探していた。姉はもちろんいなかった。昨日まではそこのソファに座っていたのに、今日はいない。明日もいない。ずっといない。

 そのとき突然、私は、頭の中でぐらぐらと大地震が発生したかのような耐えきれないくらいの悲しみを感じた。今まで感じたことのあるどの悲しみとも、それは質的に違っていた。

 もうこの居間で、姉が、「おはよう」と私に笑いかけてくれることは二度とない。私は、あまりにかけがえのないものを失ってしまったのではないだろうか、と思った。

「どうしたの?」

 母はうつむいてしまった私に心配そうに声をかける。私はいそいで右手で目をこすりながら顔を上げた。

「うん、眠れなくて。お母さんたちは?」

「お父さんと、明子が自殺した訳を考えていたの……。明子の部屋を少し調べてみたのだけど、遺書も無くて」

「一晩中?」

「うん……。考えれば考えるほど分からなくて」

 母の目は赤く充血している。泣いたせいだろうか。それとも寝ていないせいだろうか。だけど、私は母にそれを聞く気にはどうしてもなれなかった。

 私は、母の前に座る父の方に、チラッと視線を走らせる。父は私に顔を背けるように、右の大きな窓ガラスを見ていた。私もその窓ガラスを見てみると、まだ外は薄暗くて何も見えなかった。

「雨、やんだみたいね」

 母は誰にともなく呟いた。

「明子が、自分の葬式のために、雨をやませてくれたのかな」

 父と私は、母のこの言葉に何も答えなかった。

 そのとき、家の前の坂道を、ガーと大きな音を響かせてバイクが駆け上る音が聞こえた。音が次第に私の家に近づいてくる。音を響かせては静まり、音を響かせては静まる。一軒一軒のポストの中に朝刊を配っていく新聞配達のバイクだった。

 私は、今しか尋ねられないと思った。さっきまでのようにあまりにこの居間が静かだと、その言葉を発してしまうと、あまりにその言葉が鮮明なために、父や母や自分までも傷つけてしまう気がした。逆に、そのバイクの騒音があったほうが、その言葉が私を傷つける前にかき消してくれる。

 私の中で、姉の遺書の最後の、姉の悲しい言葉がどうしても引っ掛かっていたのだ。

 私は、バイクの音の間に挟み込むように負けないように力を入れて言った。

「お父さんは、お姉ちゃんがなんで自殺したと思う?」

「お父さんとお母さんで、色々話し合ってみたけど、さっぱり分からないのよ……。慶ちゃんこそ、なんでか知らない?」

「私は、お父さんに聞いているの。お母さんはしゃべらないで」

 私は必死に気持ちを奮い立たせて父のどす黒い横顔を見つめ続けながら、母の言うことを退けた。母はこれ以上何も言わなかった。

「お父さん、お姉ちゃんがなんで自殺したか知ってる?」

 父は、私がこの居間に入ってきてから初めて私の方に顔を向けた。私と父は正面から見つめ合う。

 考えてみたら、父の目をこんなにも真剣に見続けるのは私には初めてだった。どうせ私の事なんて分かってくれるわけがない、といつも父の目を見ずに離していた。今の私は逸らしたくなる目を必死に固定する。少しでも気を抜いてしまうと、父と母を置き去りにして無言で居間を飛び出し、階段をかけあがり、自分の部屋に飛び込み、いつもそうしてきたように自分の世界に閉じ籠もってしまいそうだった。

 父の目は濁って見えた。もともと自分の目玉が入っていた穴に、濁ったおもちゃの目玉を埋め込んだようだった。何かをその濁りの裏側に隠している。大人になると、このような、相手と見つめ合うための術を学ぶのだろうか。

「ねえ、お姉ちゃんはなんで自殺したの?」

「知らんよ」

 父は冷たく言い放った。

「明子は、親の気持ちを考えない、恩知らずな子供ということしか知らんよ」

 そう言ったときに、父の目の濁りがさざなみのように揺れたような気がした。そして、私は絶望した。波の間に見えた父の目は、私の質問に対してはっきりと苛立っていたのだ。しかも、質問した私に苛立っている以上に、自殺した姉に対して苛立っていたのだ。なぜかはよく分からなかったけれど、そう確信した。

 気がついたら、新聞配達のバイクは我が家の前の坂を既に通り過ぎていた。遠くの方で小さく、音を朝の空に響かせていた。

 また、痛いくらいの静けさがこの部屋に訪れようとしていた。自分の心の中で二十数える。数え終えたら、それをきっかけとしてこの息苦しい居間から逃げ出そうと思ったし、二十の間に、父が何かを言ってくれる事をどこかで期待していた。

 九……十……十一……。

 父も母も、もちろん私も一言もしゃべらない。

 十九……二十。

「新聞、取ってくる」

 私は開けっ放しになっていた居間の戸から、玄関に抜け出た。出るとき、少しだけ迷ってから、居間の戸を閉めた。


 玄関でサンダルを足に引っ掛けたとき、私は自分がパジャマだけで薄着であることに気付いた。確か、新聞を取りに行くときにはいつもいつも来ていた赤いチャンチャンコは、昨日の朝、今のサイドボードの前に脱ぎ捨ててそのままにしていた。だけど私は、今更、「チャンチャンコ忘れた」と言って、居間の戸を開ける気にはならなかった。

 私は、ドアの鉄製の取っ手に右手をかける。金属的な冷たさが右手に流れ込んできた。なんだか手が把手にくっついてしまいそうだった。

 体をドアにつけて、少し体重をかけた。そしてドアの隙間から飛び込んでくるであろう冷気に腕を組んで身構えながら、少しだけドアを押し開ける。

 だけど、触れるだけで切れてしまいそうな冷気は今日は流れ込んでこなかった。

 私は、肩透かしを食らったような気持ちで、赤い軽自動車と家の壁との間の狭い通路に足を踏み出した。家の壁の前に植えられている小さな灌木がパジャマに触れて、カサカサと鳴った。そして、新聞受けが付いているコンクリートの塊に手をつきながら、ふと、空を見上げた。

 空は、母の言ったとおり雨が上がっていた。

 だけど私は、母が言ったように、「姉が雨を止ましてくれたのだ」とはどうしても思えなかった。

 空は、黒々とした灰色の塊が溢れそうなほど詰め込まれている。しかも、放射冷却が無かったせいなのか、姉が死んだ朝よりは全然温かい風が、時々私の髪を揺すった。

 私には、その生温かい雲の塊が、とても重くて息苦しかった。なんだか、一瞬でも気を抜いてしまうと、その塊に押しつぶされてしまいそうだった。いや、もしかしたら、雲にではなくて、姉の影に押しつぶされそうだったのかもしれない。私は、いっそのこと雨でも降って全てを流し去ってくれればいいのに、と思った。

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2026年1月18日 21:00
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落とし穴 鷺岡 拳太郎 @monogatari9

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