鏡の泣き方

@rinrinze

鏡の泣き方

祖母が亡くなったのも、同じ夏だったと思う。蝉の声がやっぱり煩かったから。

私と双子の妹の真紀まきは、確か小学生になったばかりのころだった。葬式なんて行ったことがないのはもちろん、そこでの作法すら全く知らなくて、ただ訳も分からず母の両袖にしがみついていた。人は死ぬのだとその時初めて実感した。

 祖母は、少し不愛想なひとだった。終戦直後に生まれ、女手一つで母を育てあげたその苦労が額のしわには確かに刻まれていた。けれど、祖母は私たちを間違いなく愛してくれていたし、私たちも祖母を愛していた。

祖母の家に行くと、彼女はいつも私たちの好きな焼きそばを出してくれた。母もよく作ってくれていたし、それももちろんおいしかった。けれど、祖母の焼きそばは母のそれよりずっと味が濃くて、たまに食べられるその特別な味が私たちは大好きだった。

 だから、葬式が終わった後の宴会会場で妹の真紀が泣き出したのは、多分ごく自然なことなのだろうと思う。彼女が作るあのおいしい焼きそばも、あの不器用な笑顔も、優しく私たちの頭をなでてくれる皺だらけのあの手も、もう無いのだろう。そんなことを、妹の顔を眺めながらぼんやりと思った。

 泣き出した妹の周りにたくさんの人が集まり、いろんな言葉であやしているのが少し遠くに聞こえた。おばさん、おじさん、見たこともないおじいさん。悲しかったよね、つらいよね、と妹の周りにきれいに彩られる慰めの言葉。

父と母も泣き出した妹を精一杯あやしながら、その輪の中に入っていく。みんな泣き出した妹を見て、困ったような、けれどどこかほほえましいものを見るような、変な顔をしていた。私一人を輪の外において。

 ある一人のおじさんが、「でも、真紀ちゃんがこんなに泣いてまでして悲しんでくれるなんて、あのおばさんも天国で喜んでいるに違いないや」と言う。どっと、笑いが起こる。人がよさそうな顔をした小太りの男だった。 

他の大人たちが彼に同意する。「そうだそうだ」「あのおばあさんも幸せもんだ。自分のために泣いてくれるこんなちっちゃくてかわいいお孫さんがいるのだから。うちのどら息子なんか―」

 温かい空気に包まれる場の少し外側で、私は自分の頬を少し強引にぬぐってみたけれど、そこに私の欲しいものは何もなかった。思わず宴会会場の真ん中のテーブルに立てかけてある祖母の写真に弁明する。違うの。私も悲しいよ。真紀に負けないぐらい、私もおばあちゃんのことが好きだし、おばあちゃんが死んじゃって悲しいの。本当だよ。ただ、今はちょっと、涙が出ないだけ。それだけだよ。

 祖母はもちろん、何も言わなかった。私たちが今までに見たことのないような、自然な笑顔を浮かべた彼女の写真は、まるでその場にいるみんなをほほえましそうに見つめているみたいで。私は自分がその笑みの中に入れてもらえているのかどうしようもなく不安になった。

 私も、真紀のように綺麗に泣けたら、周りの人に慰めてもらえるのだろうか。つらいよね、寂しいよねって、真紀にそうしたように、私のことも慰めの言葉で彩ってくれるのだろうか。私にはわからなかった。けれど、大粒の涙を大きな両目からぽたぽたとこぼして、何も考えることがなく、それが仕事とでも言わんばかりにただ泣き続けている妹のことが、なぜだかどうしようもなくうらやましかった。妬ましかった。それほどまでに、彼女の涙は、魅力的で、美しかった。

自分もあの涙が欲しい。私は心の底から、そう思った。

 もう一度祖母の方を見る。やはりいつになく優しい目をしていた彼女は、私に何かを語り掛けようとしているように思えた。それが何なのかはわからなかったけれど。

 結局、私がその日から涙を流したことは一度もない。


 思い出の中に陽炎のようにかすかに残る祖母の顔の輪郭が、少しだけ丸みを帯びる。目元のしわは消え、髪の毛はボブというには少し長すぎるくらいになる。唇は、少し薄く。眼と鼻は、ほとんど同じ。やたらと見覚えがあるその顔が、祖母と同じように世界から切り取られた黒縁の枠に収まり、同じような笑みを浮かべ、同じような場所にいた。いい笑顔だな、と私は母の遺影を見て思った。本当に、よく似ている。

どうやら、しばらくの間ぼうっとしてしまったらしい。私は自分の制服のスカートをぎゅっと握る。いつもは黒が主体の味気のないこの制服に文句を言っていた私たちだったが、今回ばかりはそれに感謝しなければならないようだった。

夏だというのに、葬儀場の中は少し肌寒い。青と白のコントラストがあまりに鮮やかすぎる空や、建物の壁を貫通して聞こえてくる蝉の声、嫌味ったらしいほどに晴れている外の天気。そのすべてが夏を感じさせるのに、この冷房の効きすぎた葬儀場だけ、夏から切り取られた別の空間みたいだった。

母の遺影と、添えられた沢山の白菊の前では、萌黄色の法衣を羽織ったお坊さんが、お経を唱えている。外の音に負けじと声を張り上げていたが、渡された経典のどこを読んでいるのか、私にはさっぱりだった。

ふと、視界の端で何かが動いた。もう見なくても分かる。父だ。きっとまた、手に持った黒いハンカチで涙をぬぐっているのだろう。   

生まれて初めて見る父のそれはとても悲しく、繊細で、美しかった。何度見ても、飽きることは無いのだろう。父という生き物には、存外涙が似合っているのかもしれない。

父と反対側の隣には、真紀がいた。

真紀は、自分の目から零れ落ちてくる涙を、止めようともせず、ただぼんやりと、母を、もしくは母の後ろにある何かを見ようとしていた。それはまるで絵画のワンシーンのように、私には思えた。

母は、駅で電車に轢かれて死んだ。私はその場にいて、真紀はその場にいなかった。

母が駅のホームに落ちていく様子だけが、私の頭の中に鮮明に残っている。まるで、パラパラ漫画の同じシーンをコマ送りにしているみたいだった。それ以外の事は全てぼんやりとしか記憶していない。ただ、棺の中は空っぽだということだけが、確かだ。

ああ、痛かっただろう。つらかっただろう。悲しかっただろう。そんな黒い感情を微塵も感じさせない母の綺麗な笑顔を見ながら、私は彼女のことを想う。

そして私は、そっと自分の頬を撫でてみる。あの時と同じ乾いた感触が、私の中にある申し訳なさを加速させる。貴方は薄情者だと誰かから指摘されたような気がして、私は泣きたくなった。ごめん。お母さん。こんな娘で、ごめん。心の中で、そう謝ってみる。


母は、どちらかというと、真紀より私の方を気にかけてくれていたように思う。ひょっとしたら私の勘違いだったのかもしれないけれど、だとしたらそれはきっと、幸せな勘違いなのだろう。

 彼女は、私が泣けないことに悩んでいることを知っていた。その悩みを誰かに打ち明けたことがなかったから、なぜそれに気づいたのか少し不思議だったが、「私があなたの母親だから」と言われて、なんだか少し、照れてしまったのを覚えている。

 小学生になって、はつらつと育っていく妹と異なり、感情をあまり大っぴらにすることがなくなってきた私は、当たり前だけど勿論妹より可愛げがなかったわけで、そんな私に「真紀には内緒だよ」と言って、最後の一個になった詰め合わせのプリンをこっそりくれるような母が、私は大好きだった。

 ある日、家で飼っていた亀が死んでしまったことがあった。近所のおじいさんに譲りうけた、小さくて黒い亀だった。ご飯をよく食べ、よく眠る。その怠惰な亀が、私も妹も大好きだった。

 日光浴のために私が外に出したその亀は、どれほど苦しんだのだろう、白目をむいて、仰向けになって、水の上にぷかぷかと浮いていた。夏の太陽を正面から受け止めた水槽の水は、驚くぐらい熱く、思わず私は伸ばした手を引っ込めた。

 その子が死んで、私も真紀も、しばらくの間ご飯がのどを通らないくらいに落ち込んだ。真紀なんか、一晩中泣いていたような気がする。私もつらかった。本当は大きな声で泣いてやりたかった。けれど、どうしても、私は泣くことができなかった。

 間違いなく、外に放置していた私のせいだった。私が、その亀を殺したようなものだ。だからこそ、私が泣かなければならないのに。私が悲しいことを、皆に、死んでしまった亀に伝えなければならないのに。

 やっぱり、皆私のことを疎んじているのではないだろうか?亀を家族のみんなで庭に埋めながら、私は思った。表向きは誰も私を批判したりしない。むしろ、悲しくても泣けない私に寄り添ってくれている気がする。けれど、活発で、社交的で、辛いときに美しい涙を流すことができる妹に比べて、私は愛される要素を何も持っていない。

そもそも彼女は、純粋な、清い心で亀だけを想って泣いている。それに比べて私は、私のせいでペットが死んだというのに、自分の事ばかり。どっちが愛されるかなんて、明白だ。

私は、ペットの死と、妹への嫉妬と、自己嫌悪に押しつぶされそうだった。そんな時、母が泣き方を教えてくれた。私は朝の洗面所で、それを見た。

 それは、驚くほどに単純だった。母は指先に作った小さな水滴を、鏡の向こうの自分の目にそっと押し付けたのだ。重力の赴くままに、水の道を鏡に作りながら落ちてゆく水滴は、鏡の向こうの母の涙に見える。ほら、こうすれば泣いているみたいに見えるでしょう?そう言って、静かに笑う母の顔を、私は忘れることができない。

 なのに、今回も、私のせいで。


アラームをかけたわけではないのに、夜に、目が覚めた。時計を見ると、午前3時を少し回ったあたり。変な時間に目が覚めてしまったな、と思うけれど、今から二度寝をするには私の目はあまりにも冴えていた。リビングに降りて、かなり早いけれど朝の準備を済ませてしまおう。2段ベッドの上で起き上がり、そこで私は動きを止める。ベッドの下から、すすり泣く声。上からそっと覗き込んでみると、こっちに背を向けている妹の姿があった。

「…お姉ちゃん?」

声をかけるべきかどうか悩んでいると、妹がぱっとこっちを向いてきた。ふいに色素の薄い二つの目が私をとらえる。その頬を伝う涙は、窓からかすかに差し込む月明かりに照らされて、きらきらと宝石みたいに光っていた。

「大丈夫?その…」

「うん、平気。見られちゃったね」

そういって、照れくさそうに笑う真紀の顔には、いつものような元気さは感じられなくて。気が付いた時には、私は梯子を駆け下りて彼女を抱きしめていた。真紀の心臓が早鐘を打っているのが、よくわかった。

「夢を見たの」

真紀はつぶやく。それは私に向けた言葉なのか、独り言なのか、わからないくらいの小ささだった。私は静かに彼女の言葉に耳を傾ける。彼女の息の温かさを感じる。

「それはとっても、幸せな夢」

「確かに幸せだったはずなのに、起きたら何も覚えてないの」

 真紀が私の肩で震えている。声も少し上ずっていた。

「ねえ、お姉ちゃん。私が見てたのはどんな夢だったのかな。お母さんの手料理を食べる夢?それともお母さんに服を選んでもらう夢?」

 彼女は私の手を握る。離れないくらい強く。手が少し冷たかった。

「お母さん、ホームから落ちたとき、怖かったかな、辛かったかな」

「…かもね」

 私の表情に、妹ははっとした表情をする。

「ごめん、お姉ちゃんを責めてるつもりじゃないの。しょうがないよ」

「でも、私はそこにいて、真紀はそこにいなかった」

「それは、そうだけど」

「私じゃなくて、真紀だったら違ったのかな」

 分からない。もし、真紀が私で私が真紀だったら。そんな、ありえない仮定。

「ううん、きっと私たちの立場が逆でも、同じだよ。どうしようもなかった。ごめんね、もうこの話はやめよっか」

 彼女はそう言って、私の頭をそっと撫でる。真紀は、どこまでも優しい。こんな私も許してくれる。そして、私はそんな妹に甘えてしまっている。私たちは、どこまでも甘い。

そうして、しばらく私は彼女を抱きしめたままじっとしていたのだけれど、次第になんだかおかしくなって、けれどもやめ時を見失っている私を見て、妹は控えめに笑った。

「お姉ちゃん、困ってる」

「困ってなんかはないけど、」

「ううん、困ってるときの顔。お姉ちゃんはクールだ、とかポーカーフェイスだ、とかよくクラスの子たちから言われてるけど、私にはお見通しだよ。お姉ちゃんは信じてくれないかもだけど。だって、私たち双子じゃん。お姉ちゃんを見るのも、鏡越しに自分を見るのも、私にとっては同じようなもの」

「…」

「お母さんがいなくなって一番つらくて、悲しいのはお姉ちゃんだってことも知ってる。お姉ちゃん、お母さんと似てるところも多かったし。お母さんもお姉ちゃんの事、よく気にかけてた」

真紀が私の体からそっと離れる。かすかなぬくもりが手から逃げてゆくのが無性に悲しくて、思わず手を伸ばして、もう一度、彼女を抱きとめる。真紀は驚いたのか、少し表情を硬くしたけれど、すぐにいつもの優しい顔に戻って私を受け入れてくれた。心地よい感覚に、また眠りに落ちそうになる。

「私、お姉ちゃんが泣いてるの見たことないんだよね」

彼女がぽつりとそう言う。

「お姉ちゃんは、自分がつらくても、つらいよ、ってそぶりはあまり見せないよね。だから、みんなお姉ちゃんはしっかり者だ、お姉ちゃんは大人っぽいって言って、あまりお姉ちゃんの心を気にかけない。」

真紀の目が私を正面からとらえる。祖母のそれによく似ていた。

「私は外からそれを見ていることしかできないのが、辛かった。本当は、お姉ちゃんも辛いのに、悲しいのに、周りの人は誰も分かってくれていない。ひょっとしたら、お姉ちゃん自身も」

「だから私は、お姉ちゃんの辛さを知ってるよって、ちょっとおこがましいかもしれないけれど、泣けなくても気持ちを分け合えるんだよって、そう、伝えたかった。もっと早く、伝えるべきだった」

「ありがとう、真紀。あなたがそう思ってくれているだけで私は十分。ほら、まだ早いから眠っておきなさい。お姉ちゃんは朝の準備をしてくるから」

「うん。私、お姉ちゃんのためならなんだってできる。…お姉ちゃんになら、殺されたっていいよ」

「馬鹿な事言わないの」

 また、真紀の頭をなでる。さらさらした、絹のように滑らかな髪に隠された彼女の表情は、私からは全く見えない。


 真紀を寝かしつけて、父を起こさないように音を鳴らさず静かに階段を下りて、洗面所へ向かう。そこで水だけで顔を洗うのが私の昔からの朝の習慣だった。

 月明かりにわずかに照らされている私の顔を、洗面所の鏡越しに明かりもつけずに見る。そこに映っているのはいつもの私。しいて言うなら少し眠そうな顔をしている私、だろう。真紀ではない。当たり前だ。真紀は真紀で、私は私。でも、それはいつからだったのか、私にはわからない。

 小さい頃、私と真紀は、多くの双子がそう言われてきたのと同じように、そっくりさんだと近所で評判だった。外見だけではなく、私と真紀は性格や好物、好きなキャラクターなど何から何まで同じで、私たちにとって、互いはまるで写し鏡のような存在だった。双子とは、こういうものなのだと信じて疑わなかった。

 洗面台に水を出し、手を濡らす。冷たい水が、手首まで伝ってくる感覚が心地よい。夏の一番好きなところだ。

私は指の腹で小さな水滴を作り、鏡の向こうにいる私の目にそっと置く。かつて母に教えてもらったように。コンタクトレンズを付ける時みたいに優しく、丁寧に。表面張力を振りはらって水滴が私の指から離れたとき、その水滴は、一筋の、きらきらした道を作りながら鏡を伝っていった。

 その涙は、静かで冷たい。私はもう一回、鏡の向こうの私に、涙のコンタクトレンズを付ける。死んだ母を想いながら。

どれくらい私は鏡の中の私を見つめていたのだろう。そこに二本の涙の道がはっきりとでき、鏡の向こうにいるのが私なのか真紀なのかもおぼつかなくなってきたとき、不意に、本当に不意に、私の目に温かいものが一つあった。それは確かに鏡越しじゃない。本物の私の頬を流れて、床に小さく音を立てて落ちる。目の燃えるような熱さを、少し遅れて感じる。

 私は笑みを抑えることができなかった。ひょっとしたら、声をあげて笑っていたかもしれない。

ああ、こうすれば涙は出るのか。なんで今まで気づかなかったのだろう。自分のしたことは、全くの無駄ではなかったのだ。

 ごめんなさい。と、今度は声に出して謝ってみる。ごめんなさい、お母さん。大好きでした。優しくて、強くて、暖かいあなたが、大好き。でも、私は本当の涙が欲しかった。あなたの教えてくれた偽物じゃ、満足できなかったみたい。

 母の教えてくれた泣き方は、私の心を大いに慰めてくれた。皆が寝た後にこっそりベッドを抜け出して、鏡の涙を流したことも、一度や二度ではない。そこでは、私は他の人と同じように泣くことができた。それが、たまらなく嬉しかった。

 けれど、空腹のときにほんの少しだけお菓子を食べるとなおさらお腹がすいてしまうように、醜い私は、鏡の前で偽物の涙を流すたび、本物への渇望が、脳を焼くように苦しくなった。感動する映画を見たときも、悔しい思いをしたときも、涙を流せる妹に嫉妬したときも、亀や祖母が死んだ時でさえ、私は真に涙を流せない。泣いているのは、鏡の向こうの私で、本当の私ではない。

 もっと身近な人が死んだら、泣けるのではないか。そのありえない、最低な考えは、確かに甘美な匂いをぶら下げて、私の中に入り込んできた。何度振り払おうとしても、そのたびに私をなおさら強く、縛り付ける。

 その日、私は母と二人で外にいた。母は私の服を選んでくれ、私はまた、母の服を選んでいた。鏡の前で母が私の襟を直してくれる。丈がぴったりになったときの、母のその微かな微笑みを見て、私は母をどうしようもなく愛していることを知った。だから、彼女を殺そうと思った。本物の涙を得るために。

 帰り道の駅のホームの人混みに紛れて、母の背中を少し押すだけで、両手に紙袋を持っている彼女がバランスを崩すには十分だった。誰かに押されたと勘違いした母が、驚いた顔で落ちていくのを、私は悲鳴を上げて手を伸ばすふりをしながら見送った。たった、それだけ。

 私の頭の中にいろんな母の顔が浮かぶ。笑ったときの母。怒ったときの母。機嫌がいいときの母。あの時、私に静かにほほ笑んだ時の母、黒縁の中にいる母。そのすべてが私にとって愛おしい。胸の中にそれらの記憶をそっとしまい込む。宝物を丁寧に扱うように。

私いま、悲しいの。悲しくて、苦しくて、寂しい。ほんとうだよ?お母さんが死んで、私とっても悲しい。見たらわかってくれるよね?だって私、泣いているんだもの。亀でも、おばあちゃんでも泣けない。貴方が死んだから、私は泣けた。

 涙は、止まることなく私の頬を伝っていく。今まで吐き出せなかった感情をすべて乗せて。ぽつぽつと、雨が降ったときの歩道みたいな跡を洗面所の床に残して、私に自分の存在を主張している。健気で可愛く美しい、妹のものではない、私だけの涙。

 ああ、なんて素晴らしいのだろう。月光に照らされた私の涙が、ぬらぬらと光る。いくら泣いたところで母は帰ってこない。その虚しさが私をさらに感傷的なものにさせる。まるで、物語の主人公になったみたいだった。

そして、私は妹のことを考える。私の愛する妹。人を疑うことを知らない、私を盲目的に信頼し、私の全てを知った気になり、私の写し鏡になったつもりでいる妹。

 私の中に、また、邪な考えが浮かび上がってくる。あの時と同じだ。下衆で、醜い思いつき。いけない考えだ。だめだ。おかしい。信じられない。けれど、一度それを意識してしまったら、風船が膨らむ時みたいに、その考えがどんどん私の頭を侵食していく。

 そうだ。真紀は、犯人を恨んでいる。そうに違いない。母を殺した相手を、どうして許すことができようか。

 もし真相に気がついたら、私は確認するように小さくつぶやく。彼女は深く傷つくだろう。あの子は繊細で優しい子だから、ひょっとしたらもう立ち直れないかもしれない。姉として、そのような事態は避けなければならない。

だから、彼女が真実に気づく前に、私が彼女を殺してあげよう。

真紀は、幸せの中に生き、幸せの中に死ぬべきだ。だから、もし彼女が真実に触れそうになったら、私の手で、少しでも彼女のこころが傷つかないままに、殺してやろう。そして、そのそばで泣いてやろう。彼女のためだけを想って。

しょうがない。真紀のためだ。私だって本当はこんなことをしたいわけではない。最愛の妹を失うなんて、考えられない。考えたくもない。けれども、彼女の心が深く傷ついて、これから一生立ち直ることができなくなるくらいなら、いっそ私が、真紀を、平穏なままに。

 鏡の向こうの私が、じっとこちらを見つめていた。私が鏡の向こうの私をじっと見つめているのかもしれなかった。

透明で、色素の薄い彼女のその目は、やはり祖母のものとよく似ている。私の真意を読み取ったのだろうか、彼女がかすかに笑いかけたとき、私は漸く自分がほほ笑んでいることに気がついた。

どちらが鏡でどちらが本体なのか、私にはもうわからない。多分彼女にも。ただ、向こうが先に笑いかけてきたことだけは、確かだった。

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