雨上がりに咲く花
菊一
プロローグ
今日は入学式だというのに、空はあいにくの雨模様だった。
傘を差していても、足元からじわじわと冷えが伝わってくる。
「ついてないな」
せっかく高校生になるっていうのに。
私は校門の前で立ち止まり、校舎を見上げた。
灰色の雲に覆われた空は、まるでこれから先の未来を示しているみたいで、少しだけ気分が沈む。
——まあ、いいか。
ここから頑張ればいいだけだ。
そう自分に言い聞かせて、校舎へと足を進めた。
---
教室で担任の先生の自己紹介が終わり、私たちはそのまま体育館へ移動した。
ざわついた空気の中、式が進んでいく。
「新入生代表、橘美咲」
司会の声が響いた瞬間、体育館の空気がわずかに変わった。
長い黒髪をきれいにまとめ、背筋を伸ばして前を向くその姿は、同い年とは思えないほど落ち着いていて、堂々としている。
一言一言、言葉を選びながら話す声は、雨音に紛れることもなく、まっすぐに耳に届いた。
そのときだった。
ふと、体育館の窓の向こうが明るくなる。
雨が、止んでいた。
雲の切れ間から差し込んだ光が、壇上の彼女を照らす。
まるで、世界が彼女のために用意したスポットライトみたいだった。
私は思わず息を止めた。
私の足元に残る冷えと、彼女の周りに満ちる空気は、まるで別の場所みたいだった。
綺麗だとか、すごいとか、そんな言葉じゃ足りない。
ただ、目が離せなかった。
それなのに、不思議と胸の奥があたたかくなる。
雨上がりの空気の中で、私は初めて思った。
——この光に、少しでも近づいてみたい、って。
---
式が終わり、教室へ戻る。
席に着こうとして、気づいた。
隣の席に座っていたのは、さっき壇上に立っていた彼女だった。
——橘、美咲。
心の中でそっと名前をなぞる。
どう声をかけたらいいのかわからなくて、少し迷う。
でも、このまま何も言わないのは、なぜか嫌だった。
「あの……」
声を出した瞬間、自分でもわかるくらい緊張していた。
「さっき、新入生代表やってたよね。……すごかった」
我ながら、あまりにも素直すぎる感想だと思う。
一瞬、彼女はきょとんとした顔をして、それから小さく笑った。
「ありがとう。ちょっと緊張してたから、そう言ってもらえると助かる」
その笑顔は、壇上にいたときよりもずっと柔らかくて。
完璧だと思っていた姿に、ほんの小さな隙間が見えた気がした。
「あ、私、雨宮瑞貴。よろしくね」
「橘美咲です。こちらこそ、よろしく」
そう言って差し出された手を、私は少しだけ躊躇ってから握った。
たったそれだけのことなのに、胸の奥が、さっきよりも少しだけ騒がしくなった。
---
家に着いた頃には、雨の匂いはすっかり薄れていた。
玄関のドアを開けると、静かな空気が流れ込んでくる。 誰もいないことに、なぜか少しだけほっとした。
靴を脱いで、制服のままリビングへ向かう。 鞄を椅子に置いた瞬間、肩から力が抜けた。
「……疲れた」
まだ一日目なのに。 式に出て、話を聞いて、少し喋っただけなのに。
自分の体力のなさに呆れつつ、私はそのままソファに腰を下ろす。
テーブルの上に置いてあった小さなケースを開く。 中には、見慣れた錠剤がいくつか並んでいた。
水をコップに注ぎ、慣れた手つきで一粒、口に含む。
——別に、大したことじゃない。
そう思いながら、喉を鳴らして飲み下す。
昔から、こうだった。 人より少し疲れやすくて、 人より少し、休む回数が多いだけ。
それでも、今日はなんだかいつもとは違う気がした。
ソファに背中を預けると、ふと体育館の光景が蘇る。
壇上に立つ、橘美咲。 雨上がりの光を受けて、まっすぐ前を見ていた姿。
「……ほんと、別世界だな」
呟いた声は、部屋の中で静かに消えた。
私は目を閉じる。 胸の奥に残っている、あのあたたかさを確かめるみたいに。
同時に、 少しだけ、怖くもなった。
あの光に近づきたいと思ったこと。 隣に座って、手を握ったこと。 それが、なぜか“遠い未来”の話みたいに感じてしまったから。
——考えすぎ。
そう言い聞かせて、ゆっくりと息を吐く。
しばらくして、玄関の方から音がした。
「おかえり、お姉ちゃん」
妹の声に反応する。
「ただいま」
そう返すと、妹はスクールバッグを放り投げるみたいに置いて、こちらを見た。
「入学式どうだった?」
「……普通。雨降ってたし」
「えー、最悪じゃん」
くすっと笑う妹につられて、私も少しだけ口元を緩める。
「でもね」
一瞬だけ、言葉に詰まる。
——あの人のことを話したくて、 でも、今はまだ胸の中にしまっておきたくて。
「新入生代表、すごい人だった」
それだけ言うと、妹は「ふーん」と興味なさそうに頷いた。
「お姉ちゃんもそのうち人前に立つかもね?」
「私はいいよ。そういうの得意じゃないし」
そう言いながら、なぜかさっきの光が頭をよぎる。
向いてない。 そう思っていたはずなのに。
「……疲れたから寝る。ご飯になったら起こして」
「はーい」
部屋に戻り、ベッドに腰を下ろす。
制服を脱ぎながら、今日一日を思い返す。
雨。 体育館。 光。 隣の席。 差し出された手。
そして、 胸の奥に残る、名前の感触。
——橘、美咲。
小さく息を吸って、吐く。
明日も、隣に座る。 それだけのことのはずなのに。なぜか少しだけ、 世界が変わった気がしていた。
---
朝、目を覚ましたとき、窓の外は昨日とは違いすっかり晴れていた。
カーテン越しに差し込む光が、昨日の雨を嘘みたいに消している。 少しだけ眩しくて、目を細めた。
「……晴れてる」
それだけで、なぜか胸がざわついた。 昨日のことを思い出してしまうからだ。
制服に着替えて、身支度を整える。 薬を飲むタイミングを、ほんの少しだけ早めた。 理由は自分でもよくわからない。 たぶん、そういう気分だった。
「いってきます」
リビングに声をかけると、妹が振り向いた。
「お姉ちゃん、薬もった?」
「うん、持ってるし、飲んだよ」
「そっか、いってらっしゃい」
---
教室に入ると、まだ人はまばらだった。
自分の席に向かいながら、自然と隣を見る。
彼女はまだ来ていないようだった。
少しだけ、肩の力が抜けた。 がっかりしたのか、ほっとしたのか、自分でもわからない。
鞄を机に置いて、椅子に腰を下ろす。 窓から差し込む朝の光が、机の上を照らしていた。 昨日、体育館で見た光とは、少し違う。 でも、どこか似ている気がした。
「おはよう」
不意に、隣から声がした。
顔を上げると、そこには橘美咲が立っていた。 昨日と同じ制服なのに、今日は少しだけ印象が違う。 髪は下ろされていて、肩のあたりで揺れている。
「……おはよう」
間の抜けた返事になってしまった。
「昨日、ちゃんと眠れた?」
「え?」
いきなりの質問に、少し戸惑う。
「あ、入学式の日って、ちょっと疲れない?」
「ああ……うん。まあ、確かに」
そう言うと、美咲は小さく笑った。
「だよね。私も、家に帰った瞬間、何もできなかった」
その言葉に、なぜか親近感を覚えた。 壇上で完璧のように見えた彼女も、同じように疲れている。 それだけのことなのに、距離が少しだけ縮んだ気がする。
「橘さんも、緊張するんだね」
「するよ。あれ、向いてないし」
意外な答えだった。
「でも、すごく堂々としてた」
「……そう見えたのなら、嬉しいな」
そう言って、少しだけ視線を落とす。
完璧じゃない。
昨日、感じた隙間が、今日も確かにそこにあった。
---
一時間目の授業が始まる前。
クラスメイトがぽつぽつと集まり始め、教室が少しずつ賑やかになる。 その中で、美咲はあまり前に出てこなかった。 誰かに囲まれることもなく、必要以上に話しかけることもない。
——意外と、静かな人なんだ。
そんなことを考えていると、美咲がふとこちらを見る。
「雨宮さん」
「なに?」
名前を呼ばれるだけで、少しだけ背筋が伸びた。
「昨日さ、声かけてくれて、ありがとう」
「……どういたしまして?」
「正直、ああいうのって、終わったあと一気に力抜けて」
「うん」
「誰にも触れられたくない感じになるんだけど」
そこで、言葉を切る。
「雨宮さんは、ちょうどよかった」
胸の奥が、きゅっと鳴った。
「ちょうどいいって……」
「距離。近すぎなくて、遠すぎなくて」
そう言って、少しだけ照れたように視線を逸らす。
その距離が、今の私には心地よかった。 踏み込みすぎない。 でも、無関係でもない。
——このくらいが、いい。
そう思ってしまった自分に、少しだけ驚く。
---
チャイムが鳴り、授業が始まる。
ノートを開きながら、私は隣の気配を意識していた。 ペンの音、ページをめくる指先、時折聞こえる小さな息。
昨日の光は、もうそこにはない。 でも代わりに、穏やかな明るさが、確かにあった。
それが、いつまで続くものなのかはわからない。 でも——
少なくとも、今日一日は。
私はこの席が、少しだけ好きになっていた。
雨上がりに咲く花 菊一 @kikuiti_
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