誰かの手の中で
タカラノ
誰かの手の中で今日も私は生きる
朝、駅の改札を抜けると、背中に手が触れる。
触れていないはずなのに、体重が一瞬だけ前に傾く。
急げ、とその手は言わない。
代わりに、周囲の速度を私の中に流し込む。
遅れたら弾かれる――そう思わせる圧だけを残して。
私はそれに逆らわない。
逆らわないことが、いちばん楽だと知っている。
電車では、肩に別の手が乗る。
重いが、乱暴ではない。
「ここにいろ」と、居場所を与える手だ。
空いた席を見ても、私は立ち続ける。
誰かが座るべきだ、と思うから。
その誰かが自分でない理由を、もう考えなくなっている。
昼休み、同僚が笑顔で近づいてくる。
言葉と一緒に、細い指が伸びる。
踏み込むな。
本当のことを言うな。
私は頷き、同じ指を返す。
相手の言葉の端を、軽く押し戻す。
その人は気づかない。
私が今、どこを触ったのか。
その瞬間、私は知る。
手は、受け取るものじゃない。
渡すものだ。
帰り道、交差点で足が止まる。
信号が変わるまで、どの手も来ない。
誰にも支えられていない数秒。
体がわずかに揺れ、靴底が地面を探す。
進めない理由も、止まる理由も、ここにはない。
青になる。
私は待つ。
一拍遅れて、背中に手が戻るのを確認してから、歩き出す。
その遅れが、私の小さな抵抗だ。
夜、布団に入ると、今日の手が集まってくる。
押した手。
止めた手。
そして、私が押し返した手。
それらは絡まり、重なり、
一つの形になる。
その形は、私の両手だった。
眠りに落ちる直前、
その手が、無意識に伸びる。
誰かの背中へ。
触れた瞬間、
相手が一歩、前に出る。
私はそれを見て、
初めて安心する。
誰かの手の中で タカラノ @Takarano2026
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