星空
@onomam
僕の星空
敦の世界は、いつも五月蠅かった。
街の雑音。
人の足音。
風がビルに当たる音。
異能のせいか、全部が“同じ距離”で聞こえてしまうのだ。
だから敦は、常に、意識的に音を絞っていた。
必要な音だけ拾い、他は切り捨てる。
そんな毎日を続けていたが──
或る日突然難聴になった。
けれど敦は、それをむしろ歓迎していた。
(静かでいいな……
異能で必要な音だけ拾えばいいし……
これくらいが、ちょうどいい)
敦は、自分の聴力低下を“問題”だと思っていなかった。
太宰との任務が終わり、社に帰ろうと二人で歩いていたとき。
太宰は不意に、何時もの調子で敦の頭に手を置いた。
「……敦君、今回の任務、よく頑張ったね」
その瞬間──
敦の異能が無効化された。
そして。
太宰の声が、まったく聞こえなくなった。
「…………」
「ん? 聞いてるかい?」
「…………え?」
「敦君?」
太宰が口を動かしていることだけは分かる。
でも、音がない。
世界が、完全に無音になった。
太宰はすぐに異変に気づいた。
き、こ、え、な、い? と太宰の口が形作る。
敦は驚き、目を見開いた。
否定しようとしたが──出来なかった。
太宰が手を離すと、周囲の音が一気に戻ってくる。
車の音。
人の話し声。
風の音。
遠くの工事音。
全部が、耳に刺さる。
「……あ、えっと……」
「成程。私が触れている間は、異能が使えないから……」
太宰の表情が曇っていくのを見て、敦は慌てて言葉を探した。
太宰は静かに待っている。
「……あの、僕……
普段、音が……聞こえすぎて……」
敦は視線を落とした。
「だから……耳があまり聞こえなくなっても……
異能で調整できるし……
丁度いいくらいで……」
「…………敦君」
太宰は優しく、しかし真剣な声で云った。
「敦君。私だって、君の気持ちを少しは分かっている
私も、見たくないものまで見えてしまう側の人間だ」
太宰はゆっくりと続ける。
「……でもね、聴力の低下は放っておいてはいけない。
耳は、進行が速いんだ。」
「……でも、僕は……」
太宰は、敦が自分の口元がよく見えるように屈かがみこんで再度口を開いた。
「敦君」
「私が君に触れている時、
君に私の声が聞こえないなんて、寂しいじゃないか。」
胸の奥がじんわりとして、敦は自分の瞼が熱くなるのを感じた。
一瞬、救われたような気がした。
けれど──次の瞬間、その温かさが、刺すような苦しさに変わった。
自分を透明な存在だと思っているような人が、どうしてそんなに優しい顔で、僕との繋がりを欲しがるのか。
太宰は表情を急に曇らせた敦に驚かず、ただ優しく微笑んで続ける。
「……敦君。世界が五月蠅いときは、私に声を掛け給え。
何時だって、この手で静かにしてあげよう。」
敦は絶句した。
嬉しかったからではない。
驚きと、確かな怒りを感じたからだ。
(……どうして。どうして貴方は、僕には『壊れるな』と云うんですか。自分はいつだって、壊れて消えてしまいたいと願っているくせに。自分を大切にしない人に、僕を大切にしろなんて云われたくない……!)
「……太宰さん、」
「何だい?敦君。」
「貴方は、どうして……如何して、そんなに無責任なんですか。」
「……御免ね、敦君。」
太宰は寂しそうに微笑んだ。
「それでも、私は......君が壊れていくのを見過ごすことなんて出来ないのだよ。」
「……僕だって、」
「僕だって!!!そうですよ!!
貴方こそ、……っ……」
気持ちが高ぶって大声を出したせいか、酷い耳鳴りがした。
太宰が何か喋っているが、キーンという高い音に全てかき消されていく。
「……うッ……」
耳鳴りが酷すぎて頭痛までしてきた。
異能で耳鳴りが何とかならないか試みるが、全く逆効果だったようで、
今度は濁流のように音が押し寄せてくる。
(
平衡感覚が掻き乱され、地面がぐにゃりと歪む。
胃の底からせり上がるような吐き気と、脳を直接針で刺されるような鋭い痛みが、視界を真っ白に染めていく。
敦は、両耳を手で塞いでしゃがみ込んだ。
五月蠅い。
五月蠅い。
音が、五月蠅い。
突如、世界から音が減った。
耳鳴りの高い音だけが、細い糸のように残っている。
肩に、温度を感じた。
顔を上げると、丁度覗き込んでいた太宰と目が合った。
『大丈夫?』
唇の形から、なんとなくそう云っているのだとわかった。
「は、ぃ……」
『病院に行こう』
とスマホに打ち込まれた文字を見て、敦は大人しく立ち上がり、
歩き出した太宰についていった。
病院に行って薬をもらった後、
太宰は敦の手を引いて、社とは反対の方向に歩き出した。
「あ、の……だざぃ、さん……どこ、に……」
(……自分の声が聞こえないせいでちゃんと喋れているか分からない……
ちゃんと伝わっているのかな……)
太宰は振り向いてにっこりと笑った。
い、い、と、こ、ろ、と唇が形作る。
取り敢えず伝わっていたようだと敦は安心した。
(結局、病院の先生への説明とか、全部太宰さんがしてくれたもんな……
僕、病院に行く前、あんなこと云っちゃったのに……申し訳ないな……)
太宰に手を引かれてやってきた場所は、小高い丘だった。
何時の間にか辺りは真っ暗になっている。
突然、太宰が敦を振り返り、人差し指を上に掲げた。
(……? 上を見ろ、ってこと……?)
つられるようにして上を見上げた。
「ぅ、わぁ……」
そこには、音のない、圧倒的な光の海があった。
一面に広がる濃紺から深い紫へのグラデーション。その上に、金色の砂を撒いたような星々が瞬いている。
都会の喧騒の中では決して見ることのできない、冷たくて、けれど優しい光。
風が、そっと敦の頬を撫でて通り過ぎていく。
五月の夜風はまだ少しだけ冷たく、長く歩いて火照った体に心地良い。
湿り気を帯びた草の匂いと、土の匂い。そして隣に立つ太宰の微かな気配。
何も聞こえないはずなのに、視界に飛び込む光の粒が、チリチリと心地よい音を立てているような錯覚すら覚えた。
(……星、だ……)
敦は、吸い込まれるように上を見つめたまま立ち尽くした。
「きれい……」
形作った敦の口元を見て、太宰が満足そうに目を細める。
彼の手元で、小さな液晶の光が静かに灯った。
差し出された画面には、夜の闇に浮かび上がる白い文字。
『佳い所だろう?』
敦は、弾かれたように何度も、何度も頷いた。
太宰は星空を背に、手を繋いだ儘まま、再度スマホを操作した。
画面の光が、夜の闇の中で小さく揺れる。
そして、敦に向けて画面をそっと差し出した。
『敦君、君が私に怒った理由は、分かっている
敦は息を呑んだ。
何と返したら良いか分からない。
だから、ただ太宰の顔を見つめるしかなかった。
太宰は続けて文字を打つ。
指先の動きは速く、迷いが無かった。
『君は、私が“助けてあげる”なんて云いながら、自分は彼岸を望み続けることに怒ったのだろう?』
敦の胸が痛んだ。
図星すぎて、何も云えない。
太宰は一度だけ星空を見上げ、また画面に文字を綴る。
『君の世界が壊れそうなとき、私は手を伸ばすくせに
自分の世界が壊れるときは、誰にも触れさせない。
そんな私が、君には無責任に見えたんだ』
居た堪まれなくて、敦は目を伏せた。
太宰はその表情を見て、微かに笑う。
太宰はそのまま、片手でスマホを操作し続ける。
『怒ってくれて、有難う』
敦の肩が震えた。
太宰は更に文字を打つ。
『私はね、敦君。
敦は太宰の唇の動きと、画面の文字を同時に追う。
『死にたがりでも、道化でも、参謀でもない。
太宰は星空を指さした。
青紫の闇に金色の光が散りばめられている。
『本当は、誰にも教える心算はなかった。
……というか、誰にも上手く伝わらないと分かっていたのさ。』
『でも、』
敦は打ち込まれていく文字を目で追っていく。
『でも、今の君には、この場所が必要かもしれないと思ってね……
君になら、伝わると思ったんだ。』
(僕に、なら……)
『此処は、静かだろう?』
頷いた敦を見て、太宰が微笑む。
『君は私とこの場所にいる限り、音を感じなくてもいいんだ。』
(音を……感じなくてもいい……)
『この場所では、音は、あってもなくてもいいのだよ』
(分かるような……分からないような……)
『君にとってそれ《欠落》は音だが、私にとっては、実は少し違う。』
『此処では、全て、あってもなくてもいいんだ。 何故なら、この星空の下で私たちは、 降り注ぐ光であり、吹き抜ける風であり、
……醒めない夢の、一部なのだから』
(光と、風と、夢……)
敦は頬を撫でる夜風の冷たさと、目に痛いほどの星の光を感じた。
音が聞こえない分、その二つが、自分の体の中に溶け込んでくるような気がした。
自分が風になり、光になる。
そうすれば、聞く必要なんてない。
(少し、難しいような……でも、)
不思議と、ストンと胸に落ちた。
「わかり、たぃです」
太宰は目を見開いた。
「ぼくは、ぁなたを、わかりたぃ」
自分の声が、喉を震わせる無機質な振動でしか分からない。
掠れているのか、酷い音色なのかも判断がつかなかった。
それでも、込み上げてきたこの熱い塊を、形にして伝えなければいけないと思ったのだ。
太宰は目を見開いて、一瞬だけ息を止めたように動かなくなった。
長い睫毛が微かに震える。
それから──ゆっくりと、何かの呪縛から解き放たれたかのように、今迄で一番深く、柔らかな顔で笑った。
スマホを草の上に放り投げ、敦の空いている方の手を取る。
よ、う、こ、そ、と形どられた太宰の口を見て、敦もまた破顔した。
「わっ、」
突然太宰が手を引いた。
太宰に引かれたまま、敦は其の
太宰は、まるで異国で見かける舞踏のステップを踏むように、軽やかに地を蹴った。
繋いだ手から伝わる一定のリズム。
(……踊って、る……?)
敦は反射的に足を動かす。
追いつこうとしているのか、合わせようとしているのか、自分でもよく分からない。
太宰の手が、敦の手を引く。押す。回す。
その指先の微かな力加減が、音を失った敦への何より雄弁な言葉だった。
音は、相変わらず無い。
それでも、足裏から伝わる草の感触や、腕に伝わる力の変化が、勝手に“拍”を作っていく。
一歩。
半歩。
少し大きく、踏み出す。
太宰が方向を変える。
敦も遅れて、けれど迷わずついていく。
(……あれ)
いつの間にか、聞こえないことを気にしていなかった。
転びそうになって、思わず笑いそうになる。
それを見た太宰が、くっと口元を歪める。
その表情を見た瞬間、敦は吹き出した。
「……っ、ふ」
声が出ていたかは、分からない。
それでも、笑ったことだけは、確かだった。
そこから先は、もう止まらなかった。
太宰が回る。
敦も回る。
合っているかどうかなんて考えない。
上手いか下手か、そんな概念すら存在しなかった。
唯ただ、動きたい方向に、身体を預ける。
夜気が頬を撫でている。
上着が揺れる。
星が、視界の端で流れていく。
(……たの、しい)
理由は分からない。
意味も、目的もない。
けれど、胸の奥が軽くて、
身体が、勝手に次の一歩を欲しがる。
敦は、夢中で足を動かしていた。
耳のことも、異能のことも、
先刻の言葉の衝突も、全部、何処どこかへ押し流されて。
(嗚呼、きっと太宰さんも…………)
二人は、息が上がるまで、
丘の上を行ったり来たりして、
時々回って、
時々立ち止まって、
また急に動き出す。
そして、殆ほとんど同時に、足を止めた。
「……はぁ……」
敦は肩で息をする。
太宰も、珍しく少し呼吸が乱れている。
それが何だか可笑しくて、
二人揃って、目を合わせて笑った。
ただ、
夜が静かで、
身体が熱くて、
少し疲れているだけ。
太宰が、また喉仏を小さく揺らした。
三日月のように細められた目が、悪戯っぽく、けれど慈しむように揺れている。
何と言ったのかは分からない。
だけど、彼が今この瞬間、心から笑っていることだけは分かった。
敦も、何も云わず笑った。
言葉なんて、要らなかった。
それからまた、
月が少しずつ傾いていくのにも気づかず、
踊って、
踊って、
踊っていた。
ふいに、ポケットの奥で何かが震えた。
微かな振動に気づいた太宰が足を止め、繋いでいた手をそっと離す。
彼が取り出したスマホの画面が夜の闇を白く照らし、そこには『鏡花』という二文字が浮かんでいた。
それを見た瞬間、止まっていた時間が動き出したかのように、現実が敦の元へ帰ってきた。
鏡花からの着信に応じる太宰の背中を見ながら、敦はもう一度だけ、静かな星を見上げた。
夜の冷たい風が、また頬を撫でていった。
星空 @onomam
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