手のひらの境界線
伊織
深夜の家庭教師
『手を離すなよ』
あの頃そう言って強く私の手を引いてくれた手のひらは、私の小さな世界、そのものだった。
時計の秒針が時間を刻む音だけが聞こえる。
目の前の数字の羅列を目で追ってはみるものの、その解を導くための足がかりが私にはさっぱり見えずにいた。
「も〜………わっかんない!」
握っていたペンを放り投げて、そのままその手で洗いたての癖毛を掻き回し跳ね上げた。
第一志望の高校へ無事入学し早ひと月。
背伸びして滑り込んだ学校で、授業についていくのも精一杯の毎日だ。
明日からは高校に入って初めての中間考査が始まる。
他の科目はなんとか食らいついているものの、もともと苦手だったこの教科に関しては最早どうしようもない。
友達に助けを求めようにも、さすがにこんな夜更けに連絡をするのは憚られる。
……かくなる上は。
乱れた髪の毛を頭のてっぺんでまとめて括り付けて、急いで階段を駆け下りた。
リビングの扉をそっと開けると、両親が寝間着姿でゆったりと映画鑑賞を楽しんでいた。
「お母さん、どうしても勉強わかんないところあって……瀬名呼んでもいい?」
ドアから首だけ出して、そうお伺いを立ててみる。
……答えは、だいたい予想しているけれど。
「あらそう。瀬名くんがいいならいいわよ〜」
予想通り、そんなのんびりした声が返ってきて、内心でガッツポーズをする。
短く、ありがと、とだけ伝えると、再び自室へと戻ってスマホを手に取り電話をかける。
しばらくの会話の後。
「今から行く」と返ってきた声に、「待ってる!」とだけ言って通話を切った。
それから10分と経たないうち。
ピンポーン、と深夜には似つかわしくない電子音が聞こえて、飛びつくように玄関のドアを開いた。
「瀬名!」
そこに居たのは、ゆるいTシャツの上に黒のパーカーを羽織り、ジーンズにサンダルという姿の隣家に住む幼馴染、その人だった。
「こら、いきなり開けないでモニターで確認しろって何度も……」
ため息を吐きながら、出会い頭に説教をお見舞いされかけたところで、その言葉が急にぴたりと止まった。
「…………なんでそんな薄着なの」
「え? なにが?」
急にワントーン下がったその声に、自分の服装を確認してみる。
風呂上がりで春先ということもあり、別になんの変哲もないルームウェアだ。
ありきたりなショートパンツに大きめの長袖Tシャツというセットだけれど、身体を締め付けないのが楽で気に入っている。
「あらあら、瀬名くんいらっしゃい。ごめんなさいね、悠里が迷惑かけて」
「ああ、いえ。すみませんこんな時間に」
母の暢気な声に一瞬走った不穏な空気はすぐに砕け、彼――瀬名は落ち着いた声で言葉を返していた。
「いいのよ〜。望月さん、お元気?」
「はい。母も相変わらず忙しくしてますけど、元気にしてますよ」
「お母さん! 私たち勉強するから!」
嫌な予感がして、そんな会話に割って入る。
彼をとても可愛がっている上に話好きな母のことだ。このまま放っておいてはいつ話が終わるかわかったものじゃない。
案の定、母は少し膨れたような顔をしていたが、“勉強”という単語を聞いてすんなりとリビングへと戻って行ってくれた。
ホッと息をついて、さっそく自室へと彼を招き入れる。
部屋に入ってすぐ、さっきまで解いていた問題集を手に取った。
「ここ、ここがどうしてもわかんないの!」
すぐにそれを見せようと顔を上げて、突然目の前に現れた手のひらに思わず面食らう。
「はいはい。いいけど、これ着て」
彼は着ていた上着を丸めて床に置いたかと思うと、そのままの動きで、そこに落ちたままにしていたジャージを差し出してきた。
「なんで、別に寒くない」
「いいから。風邪ひく。着ないなら教えない」
そう一気に早口で言い切ったかと思うと、今度はぴたりと口を閉じてしまった。
問答すら拒否するつもりか、目線すらも明後日の方向を向いている。
……彼がこういう言い方をする時は、その主張を決して曲げないと分かっている。
そしてこのままでいると、この瀬名という男は本気で帰りかねないということも。
もう昔みたいにすぐ風邪を引いたりなんかしないんだけど。
そう思いつつ、仕方なく鼻先に突きつけられたジャージを受け取った。
長い指がテキストの文字の上を滑っていくのを目で追っていく。
不意に気になって視線を上げると、彼の顔が目に入った。
耳元や襟足はすっきりと短く整えられているのに比べて、前髪は重めに下ろされ目にかかるギリギリまで伸ばされている。
その厚い前髪の向こうで、男性にしては長い睫毛を伏せ、静かな瞳が真剣に文字を追っていた。
そこから流れるように、スッと通った鼻筋、引き締まったフェイスライン、長い首……と視線が降りていく。
なんとなく眺めていて、ふと疑問が浮かんだ。
彼は、外見は悪くない……というか、幼馴染としての欲目を抜いたとしてもハッキリ言って整っている方だと思う。
強いて言うなら、この厚い前髪がその良さを殺しているなとは思うけれど。
それなのに、そう言えばこれまで、彼の浮いた話のひとつも聞いたことがない。
「……瀬名って彼女いないの?」
つい、ぽろりと思ったことが口から出てしまった。
彼は一瞬だけ驚いたように目を見開いて、それから呆れたような目線を向けてきた。
「なんだ急に。いないよ」
「できそうなのにねぇ。なんでだろう」
「なんでだろうね」
彼は全くこの話題には興味がないらしく、明らかに適当な返事をして流されてしまった。
それでも、私の中の疑問は消えない。
瀬名はとても面倒見がいい。
優しいし、頭がいいし、頼りになる。
今まで、彼が声を荒らげたところなんて一度として見たことがない。
だからきっと、すごく良い彼氏になりそうだと思うのに。
大学では、あまりそういう姿を見せていないのだろうか。
「彼女、できたら紹介してよ!絶対だよ!」
「はいはい、できたらね」
いったいどんな女性が、彼の恋人になるのだろう。
一気に興味が湧いて、なんだかわくわくしながらそんな約束を取り付けてみた。
彼はといえば相変わらず、女性に興味もないようでまたさらりと受け流されてしまった。
テキストに置かれていた右手がゆっくりと上がり、その手で頭をこつん、と小突かれる。
「こら、無駄口。時間ないぞ」
いいのか、と言われてようやく本来の目的を思い出す。
まだまだ試験範囲の前半なのだ。
たしかに、余計な話をしている時間はない。
はーい、と返事をして慌ててテキストに目を落とすと。
彼が、ふ、と軽く笑った。
「……ほんっとに、昔っから返事だけは無駄にいいんだよな」
「もう! それいくつの時の話!」
物心もつかない頃からの幼馴染ゆえに、こうして何かといえばすぐ幼少期の言動と結び付けられてしまう。
いつまでも園児ではないというのに。
「ほら、勉強!」
「はあい」
つい反射的にそう返事をすると、また彼が可笑しそうに笑った。
ああ、でも瀬名に彼女ができたら、こうやって勉強を教えてもらったりできなくなるのかな。
…………それはちょっと、さびしいかも。
まだ来ていないそんな未来を想像して。
飲み込んだ小さな棘が、ちくん、と胸を刺した。
手のひらの境界線 伊織 @iori2601
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