昭和区

@-nellson-

第1話 見学

体験開始前に、同意画面が三枚続けて表示された。


本体験は、特定の個人の人生を再現するものではありません。


行動への干渉、結果の変更はできません。


本体験で得た感覚・印象は、学習目的の範囲でのみ利用されます。


最後の一文だけ、文字が小さい。


体験内容により、強い懐旧感や違和感を覚える場合があります。


学生は深く考えず、すべてにチェックを入れた。

大学の授業の一環で、昭和区を見学し、簡単なレポートを書く。それだけだ。


椅子に腰を下ろした瞬間、視界が切り替わった。


最初に戻ってきたのは、足元の感覚だった。


立っている。

正確には、「立っているような感触」だけがある。


身体は見えない。

手も影もない。


目の前に、灰色の集合住宅が並んでいた。

同じ形の建物が、同じ間隔で続いている。

壁の色は揃っているのに、古さだけが不均一だった。


ベランダには洗濯物が干されている。

揺れているように見えるが、風は感じない。


空は夕方の色で止まっていた。


歩こうと意識すると、前に進めた。

足音はしない。

近づこうとした場所だけが、少しずつ鮮明になる。


遠くから、音が重なって聞こえる。


商店街の呼び込み。

レジの音。

意味の分からない会話の断片。


内容は理解できないのに、「生活の音」だと分かる。


「……静かだな」


声に出したが、返事はない。

同じ授業を受けているはずの学生も、ここにはいない。


住宅地を抜け、商店街の入口に近づく。

看板の文字は、読めるものと読めないものが混ざっている。

知っているはずの漢字が、意味を失った形に戻っている。


しばらく歩いていると、視界の端が引っかかった。


住宅の一室。


他と同じ構造のはずなのに、

そこだけ輪郭がはっきりしている。


理由は分からない。

ただ、「見てもいい場所」だと感じた。


畳の部屋だった。

低いテーブル。

壁際に置かれたテレビ。


画面は白く滲んでいるのに、音だけは鮮明だった。

番組の内容は分からない。

それでも、決まった時間に流れていたものだと、なぜか分かる。


台所に、人がいる。


後ろ姿だけが見える。

性別は判然としない。

体格は平均的で、動きに無駄がない。


鍋をかき混ぜる音。

食器が重なる音。

湯気が立ち上るが、匂いはない。


学生は、少し居心地の悪さを覚えた。


これは、誰かの家だ。


そう理解した瞬間、

勝手に入り込んでいる感覚がはっきりする。


だが、追い出されることもない。


部屋の空気は、長い間、同じ形で繰り返されてきたようだった。

特別な日ではない。

何かが起こる予定もない。


ただ、

「毎日、ここにあった時間」。


テレビの音が、わずかに大きくなる。

背中を向けたままの人物が、何かを言った気がした。


言葉は聞き取れない。


近づこうとすると、視界が滲む。

それ以上は許可されていないらしい。


学生は、その場に留まった。


離れるのも、進むのも、

どちらも違う気がした。


どれくらい時間が経ったのかは分からない。


やがて、テレビの音が遠のいた。

台所の人物も、薄く溶けていく。


住宅地。

商店街。

夕方の空。


すべてが同時に解像度を落とし、色を失う。


次の瞬間、椅子の感触が戻った。


体験時間は十五分と表示されている。

体感より、ずっと短い。


端末に感想入力画面が開いた。


――昭和区の体験について、感じたことを記入してください。


学生はしばらく考え、短く入力した。


「よく分からなかったけど、

たしかに、ああいう時間があったんだと思う」


送信すると、即座に受付完了の表示が出た。

評価ポイントが加算され、課題は提出済みになる。


学生は端末を閉じ、立ち上がった。


窓の外では、夕方の空がちゃんと動いている。


さきほど見た家の中も、

どこかで、同じ形のまま再生されているのだろうか。


そう考えかけて、やめた。


これは見学で、

考える必要のある体験ではない。


学生は何も持たず、教室を出た。

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