箱の中の少女——召喚された聖女は地下牢を忘れない
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箱の中の少女——召喚された聖女は地下牢を忘れない
エリシアと呼ばれた少女は、物心がついた頃から王城の地下牢に閉じ込められていた。
その地下牢に入ることが許されていたのは、王太子と、食事や教育の世話をする侍女や教師のみ、それも女性だけに限られていた。
つまり、エリシアは王太子以外の男性を知らなかった。
王国は荒れていた。他国や魔物の頻繁な侵攻を受け、兵士や民衆の多くが犠牲になり、土地が荒れた。その上、台風や天候不良にもみまわれ、作物が育たなかった。
税収が減り、贅沢ができなくなった王政府は、重く厳しい徴税を行い、生活が立ちいかなくなった民衆の中には犯罪に手を染める者も増え、そうでなければ飢えや病で命を落とす者も出ていた。そうなると重い税を課したところで収入も増えず、王家打倒の内乱の火種も燻り始めた。
王家はこの状況を打開するために、一つの策に賭けていた。
現国王の肝入りで、10年以上をかけて進めていた計画——聖女召喚計画。聖女の持つ「聖域化」と呼ばれる能力により、民衆への支配力を強め、土地の豊穣を取り戻す。
その聖女の依代——器として「飼われて」いるのがエリシアなのだった。
エリシアは、「聖女」になるだけでなく、その権威と能力を独占しようと目論む王家により、王太子の婚約者としての運命が定められていた。
そのため、婚前の、他の男性との接触が固く禁じられていたのだった。
エリシアは平民の家庭で生まれた女児で、幼くして両親を亡くし——事実は王家が殺害させたのだが——孤児として王家に引き取られた。
引き取られたその日から王城の地下牢に隠された。
見えるのは、牢の天井に設けられた、採光用の小さな窓からの光だけ。
侍女が食事を運ぶ際や、教師が入室するとき、ときおり王太子が様子を見にくるときだけ、窓の横にあるもう少し大きい入り口の蓋が開けられ、もう少しだけ空が大きく見えた。
エリシアにとっては、その箱のような地下牢が世界の全てだった。
昼は教師に作法や学問を習い、夜は燭台の蝋燭を使って明かりを取り、勉強や読書をするのだった。
エリシアがその生活に疑問を持つことはなかったが、勉強を通して外の世界について知っていくうち、夢想が広がっていた。
※
その日、騎士ユリウスは牢の夜番を務めていた。
牢番と言っても、ここは王城の敷地の中で、外からの侵入者がやってくることはほとんどなかった。
侵入者よりも、中の少女が外に出ようとするのを防ぐのが主な目的だ。
しかし、従順な少女が外に出ようとしたことは一度としてなかった。
牢番としてすべきことはほとんどなく、ただそこにいさえすればよい、という仕事になっていた。
普段は王家騎士団の中から、女性の騎士が牢番を担当するのだが、王都でも魔獣が発生したことで、対応した騎士たちに怪我人が続出し、夜番の対応ができる女性騎士がいなくなってしまっていた。
そこで牢番にユリウスが選ばれた。ユリウスは男性ながら女性的な美貌の持ち主で、万が一、少女がユリウスを一目見たとしてもすぐに男と認識できないだろうという観測があった。そして何より、ユリウスは忠義に厚く、誰からも信頼される男だった。
星が美しい夜だった。
何も起こらない夜の牢番は退屈な仕事ではあったが、星空を眺めていると、そこまでの苦にはならなかった。
「あぁ…」
そのとき、ずっと静かだった牢の中から呻き声が聞こえた。
男は絶対に中を見てはいけない、声もかけてはいけない。それがこの地下牢に関しての鉄則だった。
ユリウスは声が収まることを祈った。
「ああぁぁ……」
ユリウスの祈りに反して、呻き声がさらに大きくなってきた。
何か異変が起きているのは間違いない。
誰かを呼びに行かなければ、と考えたが、思いとどまった。
今はユリウス一人しかいない。ここを離れたら役目を放棄することになってしまう。
大声で人を呼べば、牢の中の少女に聞こえてしまう。
ユリウスは静かに牢の採光窓に近づいた。
窓を覗き込むと、薄暗い牢の中に、蝋燭の小さな火に照らされた少女が机に突っ伏していた。
具合が悪いのではないか。
——禁忌を破って自分が処分されようが、少女の身を守るべきだ。
ユリウスは牢の蓋を開け、梯子をつたって牢の中に降りた。
小さな体だった。
「大丈夫ですか?」
ユリウスは声をかけた。
返事はない。
ユリウスは少女の肩に手をかけ、揺すった。
少女は動かない。
ユリウスは焦った。だが、少女が気を失っているのであれば、人を呼びに行くべきだと考え、地上に戻ろうと梯子のほうに向かった。
「待って」
か細い声が聞こえた。
「どなたですか?」
「私は牢番のユリウスです」
言ってしまってハッとした。
言葉を返してしまった。牢に入っただけでも許されないことだというのに……。少女に声をかけてしまった。
少女は顔を上げていた。
蝋燭の火で見えた顔の左目の周辺が腫れていた。
「お怪我をされているのですか? 痛むのですね?」
ユリウスが問うと、少女は頷いた。
「ではお医者様を呼んできましょう」
そう言ってユリウスは再び梯子を昇ろうとする。
「やめてください!」
より力強い声で少女が呼び止めた。
ユリウスは少女が必死な目で訴えているのを認め、何か事情があるのだと理解した。
「……わかりました。私では手当もできないので申し訳ないのですが……」
「大丈夫です。そのうち自然と治りますから」
そう言って微笑む少女が痛々しかった。
「私はエリシアと言います。……ユリウスさんは……男……ですか?」
ユリウスは頷いた。
エリシアの顔がパッと明るくなった。
「私、レオンハルト様以外の男の人とお会いするのは初めてなんです。何かお話をしてくれませんか? 外の世界のお話を」
ユリウスはエリシアの申し出に戸惑った。すでに言葉を交わしてしまった上に、さらに話などしてしまってよいものだろうか。
同時に、外に出ることができず、傷まで負っているエリシアを哀れにも思った。何よりも期待に満ちたその目に抗うのが難しかった。
「……僕は騎士なので、魔物と戦ったときの話なんてどうでしょう?」
「はい、ぜひお願いします」
エリシアは嬉しそうにユリウスを見た。
ユリウスは、騎士団が王都に侵入してきた魔物と戦い、苦戦の末に倒した話をした。エリシアは目を輝かせながら、じっと話を聞いた。
魔物が侵入してきたところでは恐怖に慄き、騎士団員の仲間が倒れたところでは泣き、倒したところで歓声を上げた。
ユリウスはその感情の豊かさに感心させられた。
エリシアは他にも話をせがみ、ユリウスは他にも魔物の討伐や、敵国との戦争の話をした。
話をしながら、自分もエリシアとともに悲しみ、高揚した。ユリウス自身も、エリシアとの時間に不思議な感覚と、長く忘れていた感情を思い出しているかのようだった。
「レオンハルト様は外の世界のお話をしてくれないのですか?」
話の合間にユリウスがそんなことを尋ねると、エリシアの顔がわずかに曇った気がした。
「レオンハルト様は礼儀とか作法のお話をしてくれます」
「エリシアは王太子妃になるんだから、礼儀や作法は大事だよね」
エリシアは黙って頷いた。
※
夜が明ける前に話を切り上げ、ユリウスは地下牢を出て番を続けた。
まずいことをしてしまったと思いながらも、エリシアとの楽しい時間を思い返し、気分は高揚していた。
日が昇ると王太子レオンハルトが侍女を連れてやってきた。
ユリウスはエリシアと会ったことを隠しつつ、怪我をしていることを伝えようとした。
「昨晩、エリシア様が呻き声を上げていらっしゃいました。体調がすぐれないのかもしれません」
レオンハルトは特に驚きもせず答えた。
「ああ、それは気にするな。俺が
「
「聖女の器となるための躾だ」
「お体を壊されてしまったら、聖女にもなれなくなってしまいます。もう少しお気遣いいただいたほうがよいと思うのですが……」
「おまえは……ユリウスかと言ったな。これ以上、余計なことを言うことは許さん。それとも、おまえも躾が要るのか?」
ユリウスは引き下がり、頭を下げた。
「大変失礼いたしました。余計なことでした」
——そうだ、俺は何をしているのだ。自分は何も事情を知らないくせに、王家の方のお考えに口出しするなど……
レオンハルトはそれ以上は何も言わず、牢に入っていった。
地下牢から小さな悲鳴が聞こえたような気がした。
ユリウスは気のせいだと思い込もうとした。
※
次の夜もユリウスは牢番を担当した。
夜が更けてきて、周囲に誰もいなくなると、ユリウスはダメだと思いながらも、採光窓から地下牢の中を覗いた。
するとエリシアがこちらを見上げていた。
目が合うと、エリシアが微笑み、手招きした。
その顔の左目の周辺は今日も腫れ上がっていた。
ユリウスは少し躊躇ったものの、牢の蓋を開け、降りていった。
エリシアの顔の腫れは引くどころか、より悪化していた。
「やはりお医者様に見ていただかないと……」
「いえ、大丈夫です。これは必要なことだとレオンハルト様は仰っていました。騒ぎ立てたらレオンハルト様がお怒りになってしまいます」
「それは……あなたが望まれていることではないのではないですか?」
「? 望む望まないではなく、そういうものなのです」
ユリウスはエリシアの思考が「躾」によって毒されているのだと悟った。
外の世界を知らず、限られた人間としか顔を合わせないために、思考が偏ってしまっているのだろう。
「望むものといえば、ユリウス様のお話です!」
ユリウスは目を細めて微笑み、話を始めた。
ユリウスとエリシアの逢瀬はその後も毎日続いた。
王太子レオンハルトが訪ねた日には、エリシアは決まって新しい怪我を負っていた。それを見るたび、ユリウスは心を痛めた。何も知らない、美しい心を持ったエリシアに、なぜこのような仕打ちをするのかユリウスには理解ができなかった。
エリシアが傷のことに触れたがらないので、ユリウスは代わりに、少しでもエリシアを痛みから救うのであればと、自分が「外」の世界で体験したことを語るのだった。
騎士としての戦いの話から、なぜ騎士になったのか。騎士になる前の冒険者だった頃の話。あるいは幼少期や修行時代の話。
死に別れたかつての恋人と、失ってしまった婚約指輪の話を聞いたときには、エリシアは自分のことのように泣き崩れた。ユリウスにとっても忘れがたいとても大切な思い出で、話しているうちに嗚咽が漏れてしまった。
どの話もエリシアにとっては新鮮で、驚きと興奮と悲しみと、大きな感情を喚起するものだった。
ある日、ユリウスが地下牢に降りてくると、エリシアが椅子にかけられたローブのポケットに何かを隠した。
ユリウスはそれには気づかなかったふりをし、二人はまた楽しい会話を始めた。
「外に行ってみたいな……」
ユリウスの話が一区切りつくと、エリシアがそう小さく呟いた。
採光窓から夜空に輝く星が見えた。しかしそれは、外の世界のごくごく一部にしか過ぎなかった。
まだ夜はこれからだ。日が昇るまでにはたっぷり時間がある。これまで牢番をしてきて、朝まで誰かがやってきたことはない。
ユリウスは意を決し、エリシアに言った。
「少し出てみましょうか?」
「え!?」
エリシアの輝いた目がユリウスを見る。しかし、すぐにその目を伏せた。
「でも、だめ……」
エリシアが我慢をしているのは明らかだった。
「大丈夫です。この時間は誰も来ませんよ。こっそりちょっとだけ星空を見るだけです」
ユリウスがそう言うと、再びエリシアの目に輝きが戻った。
「私が先に出ますからついてきてください。梯子を昇りますよ」
ユリウスが梯子を昇り、地下牢の蓋を開ける。外の冷たい空気が入ってきた。
「少し寒いかもしれません。上着を羽織られたほうがいいですね」
エリシアはユリウスの言葉に従い、ローブを纏った。
そして躊躇いながら梯子に近づき、手をかけ、ゆっくり昇り始めた。
やがて出口に近づくと、ユリウスが手を伸ばす。
「さあ、掴まってください」
エリシアが手を伸ばし、ユリウスの手を掴んだ。
するとエリシアは恥ずかしそうに目を伏せた。手を握ったことをはしたないと思わせてしまったかもしれないと、ユリウスは少し申し訳なく思ったが、安全に引き上げるためには仕方がなかった。
エリシアは生まれて初めて夜空を見た。
空は、採光窓から見る空よりもずっと広かった。
エリシアはその広さと、無数の星の煌めきに圧倒されていた。
「すごい……」
エリシアが呟いた。
「気に入っていただけましたか?」
エリシアは大きく頷き、大きな笑顔を見せた。
「そうだ……ユリウス様……」
エリシアがローブのポケットの中に手を入れ、何かを探ろうとした。
と、そのとき暗がりの中から近づいてくる者があった。
ユリウスは咄嗟にエリシアを自分の背後に隠した。
王太子レオンハルトと、護衛の騎士、そして宮廷魔術師と思われる女性だった。
「どういうことだ?」
そう問うてきたのは、王太子レオンハルトだった。
ユリウスはエリシアの姿を見られたことを悟った。地下牢の蓋も開けっぱなしにしてしまっていた。いずれにしても地下牢の中を見れば、エリシアがいないことはわかってしまう。ごまかすこともできないだろう。
「おまえは牢番だろう? 牢番の役目は何だ?」
「……牢の中のエリシア様が外に出るのを防ぐことです」
「その女は俺以外の男を知っていけないということは当然知っているだろう? それともおまえは女なのか?」
レオンハルトは蔑むような目でユリウスを見た。
そして腰に差した剣を抜いた。
「王家への反逆罪だ。首を刎ねる。膝をつけ」
そこに、エリシアがユリウスの前に出て割り込んだ。
「レオンハルト様、どうかユリウス様をお許しください。私が無理やりお願いしたのです」
「エリシア様、嘘はいけません……。連れ出したのは私ではないですか……」
ユリウスがエリシアを制そうとする。自分のせいでエリシアが罰せられるくらいなら処刑されるほうがずっとマシだと思った。
「エリシア、どけ」
「どうしてもユリウス様の首を刎ねるなら、私も死にます。先に私を殺してください」
レオンハルトは剣に力を込めていたが、振り上げることはなかった。
そして剣の代わりにエリシアの顔を殴った。それでもエリシアはその場をどかない。
レオンハルトは舌打ちし、護衛の騎士に向けて言った。
「その男を投獄しておけ」
※
少女は聖女召喚の器として十分成長したと見なされ、いよいよ聖女召喚が実行されることとなった。
地下牢から連れ出される前に、少女は宮廷治癒師の魔法で目に見える怪我を治癒された。召喚時に聖女の醜い姿を見せまいと考え、レオンハルトが夜にエリシアの牢を訪れたのはそのためだった。
エリシアは王城敷地内にある大聖堂へと連れて行かれた。
公に地下牢の外に出るのは初めてだったが、エリシアに喜びはなかった。この後の自らの運命を知っていることもあったが、投獄されたユリウスのことがずっと心配だった。
大聖堂でも、再び地下へと降りていった。そこに聖女召喚のための礼拝堂があった。
礼拝堂の地面には魔法陣が描かれており、エリシアはその魔法陣の中心に立たされた。
魔法陣の周囲に4人の宮廷魔術師が等間隔に並ぶ。
さらにその周りを、国王フリードリヒや王太子レオンハルトを含めた王政府の面々と神官たちが囲い、その視線のすべてがエリシアに集中していた。
そして国王フリードリヒが号令を発した。
「これより聖女召喚を行う」
周囲の者たちが拍手を行う。周囲の者たちの目が、好奇と期待とそれぞれの思惑に色づく。
エリシアにはその数々の目が、ユリウスの話に出てきた魔物の目のようだと思った。
「では始めよ!」
宮廷魔術師たちが詠唱を始めた。
長い詠唱が終わると、エリシアを大きな白い光が包んだ。
空の星が降りてきて、包んでくれているようだ、とエリシアは思った。
「ユリウス様……ありがとうございました。どうかご無事で」
誰にも聞こえないほどのか細い声でエリシアはそう呟き、目を閉じた。
エリシアと呼ばれ、地下で育った少女の人生は、そうして地下で終わった。
※
白い光は次第に収まっていった。
魔法陣の中に立つ少女は目を閉じていた。
「聖女様……ですか?」
宮廷魔術師の一人が声をかけた。
しばらくの間をおき、やがて少女は目を開け、頷いた。
「おお!」と歓声が起こった。
「聖女召喚、成功です!」
さらに歓声が大きくなる。
「これで王政府も安泰だ」「内乱も抑えられる」「土地も蘇って、収穫が増えるぞ」「また遠慮なく贅沢ができますな」と、そんな声が方々で上がっていた。
すると聖女が口を開こうとしたので、その言葉を聞こうと、観衆たちは静かになった。
「全身が痛いですわ」
それが聖女の第一声だった。
人々はどう反応したらいいものかと戸惑った。
召喚が肉体の負担になったのだろうかと人々は思った。
「手当て……しましょうか?」
宮廷魔術師の一人が尋ねた。
「いえ、けっこう自分でできます」
そう言うと、聖女の体が淡いオレンジの光に包まれた。
「素晴らしい!」「聖女の奇跡だ!」とまた観衆が沸いた。
聖女は一人の男を観衆の中から見つけ、そちらに近づいていった。
「あなたですね」
聖女の進んだ先にいたのは、王太子レオンハルトだった。
「そうだ。俺だ。おまえの
「エリシアの人格はもう消えました」
「……人格が消えようが、俺が躾けた記憶は残っているだろう? おまえは俺に逆らえん」
「暴力を振るわれ、痛めつけられた、恐怖の記憶が強く刻まれています」
レオンハルトがにやりと笑った。「
「その下品な笑みをやめてください。とても不快です」
レオンハルトが一瞬怯んだが、すぐに怒りの表情になった。
「何だと? 主人に向かって下品とはどういうつもりだ!?」
レオンハルトは拳を振り上げ、聖女に殴りかかった。
が、拳は聖女に届かないどころか、レオンハルトのほうが鼻から血を流し、倒れこんだ。
「い、痛い……。なんで……」
「この王城一帯を聖域化しました。私に悪意や害意を向ければ、それが自らに向くので気をつけてください」
「許さんぞ、エリシア! 王太子の顔に傷をつけるとは……死罪だ!」
レオンハルトは立ち上がり、激昂して剣を抜いた。
「どこまで愚かなのですか。人の話を聞いていました? あなたには簡単に死んで欲しくないのですけれど」
レオンハルトは構わず聖女に斬りかかった。
するとレオンハルトの肩が切れ、血が吹き出た。
「ぐあぁぁっ!」
レオンハルトは地面を転がった。
「早く治癒したらどうですか? 私はその男を治癒する
慌てて宮廷魔術師がレオンハルトに駆け寄り、治癒魔法を施した。
傷は塞がったが、レオンハルトが聖女を見る目は恐怖の色に染まっていた。まるで魔物に対峙しているかのような怯えようだった。
その恐怖はすでに他の王政府の面々にも伝染しており、誰も声を上げなかった。
「皆様、見ましたよね。この男は何もしていない聖女の私を殺そうとしました。今に始まったことではありません。地下牢にいたときから日常的に暴力を振るわれておりました。
聖女への暴行、殺害未遂は大罪です。終身刑相当ですね。そうだ、あの地下牢に投獄しましょう。
あなたに恨みのある者がいたら自由に暴力を振るわせてあげましょう。暴力が好きなあなたのために、
そう宣告し、聖女は微笑んだ。
「次はあなたたちですね」
聖女は国王フリードリヒと、王政府の面々のほうを向いた。
「見たところ、あなたが国王ですか」
国王フリードリヒは心中穏やかではなかったが、威厳を保とうと必死だった。
「そうだ。聖女よ、王太子の愚行は詫びよう。しかし、我々は王国のためにおまえを召喚したのだ。王政府には従ってもらうぞ」
聖女は冷ややかな視線を国王に浴びせる。
「ええ、もちろん、私は聖女である以上、人々のために尽力するつもりです」
聖女がそういうと安堵の空気が流れる。
——しかし、それは一瞬だけだった。
「先ほど、聖域の効果は聞いてらしたかしら? 悪意や害意を持った者にはそれが返ってくるのですよ。あなた方は悪意を持って私を支配しようとしましたね?」
聖女のその言葉を理解した者たちは青ざめた。理解できなかった者たちも、自分たちにとって利益のある話でないことは理解していた。
「安心してください。私は王国の人々のために役割を果たしますから。やましいことがなければあなた方が不利益を被ることはございません」
王政府の中にやましいことがない者などいなかった。善人は排除されるのが王国の政権だった。
「指示を出します。あなた方の財産はすべて国庫に返還してください。救護院と民のための食糧倉へ回します。徴税は一度停止してください。飢えと病で失った分は、民へ返します」
その場にいた者たちが動き始めた。
国王も王政府の者たちも絶望しつつ、指示を実行すべく礼拝堂を出ていった。
聖女を支配しようとした者たちは、聖域の効力で逆に支配されたため、誰も聖女の言葉に逆らうことができなかったのだった。
その場には何人かの騎士と宮廷魔術師と神官だけが残った。
聖女は一人の騎士に声をかけた。
「ユリウスという騎士を、聖女の守護騎士に任命します。彼が投獄されているところに案内してください」
※
聖女はユリウスを牢から解放させた。
牢から出てきたユリウスは左目のあたりが大きく腫れ上がっていた。
聖女は、彼がエリシアと同じように、王太子レオンハルトの暴力の玩具にされそうになっていたことを察した。
「エリシア様……ご無事でしたか……良かった……お怪我はもう大丈夫ですか?」
そうユリウスが声をかけると、ユリウスの顔の腫れがすっと消えた。
「この王城で善意を向けてくださるのはあなただけですね。悪意だけでなく、善意だって本人に返る聖域だというのに」
「何を仰っているのですか?」
「あなたは自分の身をまったく気にされないのですね」
自分の傷が治ったことにも気づかないユリウスに、聖女は微笑んだ。
「エリシア様はもう地下に戻らなくてよいのですね?」
「厳密には、私は『エリシア』ではないです。ですが、そう呼びたければ、それでも構いません」
「エリシア様はエリシア様ではないですか。地上に出られて、少し変わられたようにも思いますが……いつもお会いするときは夜でしたからでしょうかね。お顔の怪我もなくなっているようですし……」
少し胸が痛んだが、聖女は自分がエリシアの体を使って召喚されたことをユリウスに説明した。
「申し訳ないのですが、聖女召喚によって、エリシアの人格は消えてしまいました」
「それは……つまり、エリシア様はもうこの世にいない……ということですか」
聖女は申し訳なさそうに頷いた。
「ただ、記憶は引き継いでいます。あなたのこともしっかり覚えておりました」
「エリシア様の人生は、幸せなものだったのでしょうか……」
ユリウスが寂しそうに呟いた。
「人生のほとんどは不幸だったと言っていいでしょう。わずかな光しか入らない地下で一生のほとんどを過ごし、王太子に日常的に暴力を振るわれて……」
悲しげな顔をするユリウスに、聖女は微笑んだ。
「それでも人生の最後の日々は本当に素晴らしかったです。ユリウス様、あなたにお会いして、あなたのお話を伺い、世界が変わったかのように本当に素敵な時間でした。
そしてあなたの手を握り、外の世界で星空を一緒に見た時は天にも昇るような幸せな気持ちになりました」
聖女の話を聞いていたユリウスの頬を、涙が伝って落ちていった。
「最後の瞬間も、あなたの身を案じながらも、あなたとの時間を思い出し、幸せな気持ちで亡くなりました。その思い出だけで、十分に生きた価値があったと思えました」
聖女が身に纏っていたローブのポケットから何かを取り出した。
少し頬を赤らめて、聖女はそれをユリウスに差し出した。
それは小さなリング状のものだった。
「蝋燭の芯で作った指輪です。こんなものしか作れなかったのですが……エリシアがあなたに渡そうとしていました。その……婚約指輪です。あなたが失った恋人のことが頭にずっと残っていたんです」
ユリウスはその指輪を受け取り、薬指にはめた。
「私の守護騎士になってくださいますか?」
そこには紛れもない
ユリウスは涙を流しながら微笑み、頷いた。
箱の中の少女——召喚された聖女は地下牢を忘れない Vou @Vouvou21
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