人柱姫
内澤 瞳
人柱姫
その国は静かな国だった。
静寂が日々の大半を占める世界。森林に囲まれ、その果てには何があるかを、詳しく知る者はいない。
その国に生まれた者は大半が静かな世界の内で命を終える。そのことに疑問を抱く者はなく、変わらぬ静寂を当たり前の日々として生きていた。
その国にとある男がいた。国の王が住まう城に仕える下働きの男だった。馬の世話を任されていた男はいつも馬と共にあった。
静かな国の中で移りゆくものは季節と命であった。男は多くの馬の誕生を見、老いた馬の終わりを見届けた。
それは風が強い日のことだった。嵐が来るらしいという報に、国の者達はざわめいた。静かな国で天候が荒れることは滅多になかった。故に多くの者達は恐れて家の中に閉じこもった。
だが、男は馬の世話を忘れまいといつものように仕事を始めた。段々と強くなっていく風の中、馬達は普段と違う空気を感じ取り、徐々に怯えの様相を見せるようになった。男も馬達の様子を見、今日はもう小屋に連れて行こう、そして入り口や窓を固く閉ざしてしまおうと思い、馬達を引き連れて小屋に向かおうとした。
そう思った時だった。
風が連れてきたのか、嵐の前兆か、突如雷鳴が鳴り響いた。聞いたことがない轟音に男の動きが止まる。馬は、と思考を取り戻した時には既に馬達はその場を駆けていた。
しまった。
そう思ったが、馬達は止まることなくその場から離れ、森の中へ駆けていく。男が雷鳴を知らないというのは馬達も同じであった。恐怖に駆られた馬達は蜘蛛の子のように散っていく。男は偶然近くに留まっていた一頭に駆け寄り、その背に飛び乗った。
「戻れ!」
そう叫びながら男は馬を追う。だが、一頭で多数の馬を追いかけるのは至難の業であった。一頭を追えば姿を失う馬が多くいる。それでも男は、己の仕事を忘れなかった。
一頭、また一頭と、男は馬を捕まえ小屋へ連れて行く。それをひたすらに繰り返した。姿を見失った馬をどう追うか、思案を巡らせていた時だった。
「――この馬達は、此方の馬かしら」
強まった風が耳を覆う中で、その声は透き通るように聞こえた。
男が声の方を向くと、其処には森を背後にして少女が立っていた。
長く伸びた髪が風に舞い乱れていたが、そのことを気にする様子はなく、その手は手綱を握っていた。手綱が伸びる先には一頭の馬が繋がれており、その馬は男がよく知る馬の一頭であった。
その馬だけではない、少女の背後にも数頭の馬がいた。それらは全て、男が世話をしている馬達であった。
男は驚いた。見知らぬ少女が何故馬達を捕まえられたのか、疑問が次々に浮かぶ。だが男は、その疑問を口にする前に馬を下り、少女へと頭を下げた。
「此方の馬で間違いない。見失った数も合う。先程の音に逃げたところだった。助かった、礼を言う」
男の言葉に少女は手綱を手渡した。
「そうだったの。この子は興奮していたから宥めて私の手綱を付けたの。どこかに行きたいようだったから私は付き添っただけよ」
此方へと向かう途中で彷徨いていた馬も連れてきたのだという言葉に、男はただ感心した。
「随分と手慣れている。見ない顔だが、この辺りに住んでいるのだろうか」
男は少女を見たことがなかった。城の傍の地故に、住む人間は限られていた。城仕えの女中にも見た記憶がない。男の問いに少女は頷いた。
問いを重ねようとした男が口を開こうとした途端、今度は大きな雨粒が降り注ぎ始めた。嵐はすぐ其処に迫っていた。
「早く連れて帰って。風邪を引くわ」
少女の言葉に男は頷いた。
「君は大丈夫か?」
この先へは共に行かないと、少女の表情が告げていた。これからの嵐をどうするのかと男が問えば、少女は一度だけ微笑んだ。
「気にしないで」
男は馬から手綱を外すと少女に手渡す。受け取った少女はそのまま背を向け、森の方へと歩いていった。
何か言葉を掛けようとしたが、男は止めた。男の意識は少女よりも馬に向き始めた。馬が体調を崩してはまずいと、男は少女が連れてきた馬達を引き連れてその場を離れた。
風と雨の音が、世界の静寂を消していた。
夜になり、男は寝泊まりしている部屋の中で少女のことを思い出していた。
少女の正体は誰なのか。だが、男に知り得る手段はなかった。
男は窓を見やる。強くなった雨が窓を叩きつけていた。この雨の中、少女はどうしているだろうかと思った。
男は静かに目を閉じ、一日を終えた。
次の日には嵐は去っていた。だが、城には重苦しい空気が漂うようになった。
嵐は国の危機の前触れだと。
次はもっと大きな災害が国を襲うと。
その為に王や重臣が大きな決めごとを行っていると。
噂や憶測は男の耳にも届いた。それでも男は普段通りに馬の世話を続けた。
召集されたのは嵐から十日ほど過ぎた日だった。
呼び出された男は目の前に立つ王の臣下に一つの命令を下された。
『王の命令である。馬を一頭、人柱に貸し与えよ』
人柱とはなんなのか、男は問うた。
「人柱とは生け贄である。先の嵐は災いの前触れである。災いを鎮める為の存在である」
聞けば、その者は城より遠ざけられて育てられたという。城で生まれた高貴なる人物であるのかと問えば、臣下は一つ頷いて「だが、」と続けた。
「その者の存在意義は人柱としてのもののみ。国に災いが起ころうとしている時、生け贄として捧げられる為に命がある」
それ以上を知る必要はないと、臣下は男を下がらせた。
男は一瞬、この命令を受けて良いものか悩んだ。だが男には逆らう術がなかった。王の命令に逆らうことは職を失うこと、そして命を喪うことと同義であった。
男は小屋に行き、一番の上等な馬を選んだ。毛並みを整え、馬具を着けた。あの嵐の時、少女に連れられて戻ってきた内の一頭であった。
「馬の用意は出来ておるか」
低い声に男は振り向いた。そして息を飲んだ。
其処には二人の兵士と、一人の娘が立っていた。その娘こそ、件の少女であった。
少女の両腕には縄が繋がれ、その端は両隣の兵士が掴んでいた。少女は逃げられる状態になかった。少女は恐れた様子もなく立ち、目を伏せていた。
男は兵士へと頷いた。
「此方に」
「うむ」
馬の手綱を兵士へ渡すと、兵士は少女を促した。
「乗れ」
「はい」
短い声は、先日よりもか細かった。そのまま黙って馬に跨がった少女は手綱を握った。握った手首から伸びる縄は両側に着いた兵士の手の中にあった。
そのまま馬は少女を乗せて歩き出した。男は何も言わないまま、その影が森の中に消えるまで、その場に立ち尽くしていた。
男が少女を見たのはこれで最後である。
数日経った日、一頭の見知らぬ馬が男の元へと連れてこられた。曰く『飼い主がいなくなった』とのことだった。
その馬が着けていた馬具は、あの日少女が持っていた馬具と同じものだった。
その後、国では静寂の日々が続く。嵐もあの日を最後に起こっていない。少女が何を成したのか、そのことを知る者はいない。少女という存在がいたことを知る者すらほぼいない。
乗り手のいない一頭の馬だけが、静かに男の下へ帰ってきた。
男は思う。
もし。自分がもう一歩少女に歩み出ていたら。何か言葉を掛けたなら。果たして何が変わっていただろうか。
そう思い、その思考を消した。何も変わらない、そのことは自明であったから。
男は思う。
少女は一人、あの森で何をして過ごしていたのだろう。馬に慣れていた様子から、馬に触れていたのだろうか。少女が持っていた馬具は、どんな馬に使われていたのだろうか。
知る術は、もうない。
男は今日も、馬の世話を続ける。
国は今日も、静寂の中にあった。
人柱姫 内澤 瞳 @uchizawahitomi
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