静寂の音

happy song

静寂の音

静寂の音



 この世には音のない世界が存在する。いや、正確に言えば、音のある世界が存在する、とでも言えばいいのだろうか。僕はそれを認識し、音というものを理解したつもりだ。もちろん僕の中の音のイメージと、本当の音は比べようがないけれど。


 僕は本物の音を聞いたわけではないし、聞くことも叶わない。僕は生まれながらに耳が聞こえなかったからだ。多分、健常者から見れば不完全なのだろう。だけど、僕にとってはそれが世界の全てだったから、物心つくまでは、音と言う概念が存在しなかったし、それで良かった。気付き始めたのは、きっと病院に通っていたから、なんとなく、その概念を理解できるようになったのかもしれない。例えば手をたたいても、音なんて聞こえないが、自分の両手がくっついている、あるいは手と手がたたかれた衝撃を感じる。僕はその衝撃に似た痛みが、音なんだと認識していた。しかし、どうやらそれは音という概念を正確に捉えたものではないと自分では感じていた。


 そんなふうだったから、僕は年齢を重ねても、音というものには興味がなかった。それは自分には関係のないことのような気がしてならなかったから。しかし、振動と音が何か関係があるってことは、なんとなくわかるし、それが自分にとって社会的にマイノリティーに括られていることも分かった。


 世界が忙しく追われている。分刻みで電車は動いているし、ほとんどの人が時間に支配されながら生きている。僕は時計が苦手だった。僕の世界は、小説や図鑑の中にあった。それは二次的なコミュニケーションだとも言える。小説や図鑑を介して、学ぶことが多かったからだ。確かに人とコミュニケーションをとるのに苦労した。だけど、今はパソコンやメモ用紙で会話もできるし、手話という手法も使える。


 僕は音から逃れることができる。音が聞こえない恐怖に苛まれることもあるが、ゆったりと時間が欲しいときには、僕は世間、言ってみれば音のある世界から、すぐに逃れられるんだ。そして、例えば今日のような青空のもと、ひとり公園に行って、ベンチに座って、僕の視界の中で少しずつ形を変える雲を眺めていると、音のない世界も悪くないなって思えるようになった。


 そんなことを君に話したことがあるね。その時、君は真剣な顔で、音について教えてくれた。もちろん、紙とペンを使ってだ。


「あなたが感じているのは静寂ね。きっと、静寂にも音があると私は思うんだ。物理的な音の話じゃなくて。耳をすましても聞こえない音ってあるんだと思うの。空気の流れ、呼吸の音。そして私という音もよ」


「私は音の種類はあなたに教えてあげることができないけれど、あなたには私と言う音を感じてもらいたいの。なんていうのかな、私の気配って言えばいいのかな。それを構成しているのは、もちろん音だけじゃないわけだから。私、矛盾したことを言っているのかもしれないけど、私の音は感じてもらいたいの。わがままなかな。望みすぎかな。だけど、私はそういうあなたの直感的な音になりたいの」


 君はそう言って、泣き出した。僕の心に音が鳴り響く。それは多分、物理的なものじゃなく、何かを感じる音。僕にしか聞こえない音。きっと、それが君が望んでいる音なのかもしれない。



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