第3話

 三年前の春、僕たちは「いつか、江ノ島の見えるあの古いホテルに泊まりに行こう」と約束した。当時はまだ、未来という言葉は無限に広がる草原のようなものだと思っていた。いつでも行ける。いつでも叶えられる。そう思って先延ばしにしていた約束が、今、僕たちの手元に「返却期限の迫った図書カード」のように残されていた。


 あと、五十五日。僕たちはあえて、その約束を果たすために旅に出た。鈍行列車に揺られながら、窓の外を流れる景色を眺める。紬は僕の隣で、借りてきたばかりのような、どこか余所余所しい横顔をしていた。以前の旅なら、彼女は駅弁の中身で一喜一憂し、これから行く場所のガイドブックを熱心に読み耽っていたはずだ。けれど今の彼女は、膝の上で指を絡ませ、ただ移ろいゆく線路脇の菜の花を追いかけている。


「……海が見えてきたよ、慧くん」  


 低い声だった。青い、あまりに青い海。水平線はどこまでも平坦で、僕たちの悩みなど一切関知しないという風情でそこに横たわっている。ホテルは、彼女の言った通り、ひどく古びていた。潮風に晒されて剥げかけた外壁や、歩くたびに微かに軋む廊下の床。それが、かつてここを訪れた数多の恋人たちの時間を吸い込んでいるようで、僕の胸を静かに締め付けた。


 夕暮れ時、僕たちは砂浜を歩いた。波が寄せては返す。その規則正しい音は、まるで地球が吐く大きな溜息のようだ。  


「ねえ、慧くん。あの時、どうしてここに来たいって言ったか、覚えてる?」


 紬が波打ち際で立ち止まり、僕を振り返った。風に煽られた彼女の髪が、夕陽に透けて細い金糸のように輝いている。


「……確か、ここから見える夕陽が、世界で一番寂しくて綺麗だって、雑誌で見たからじゃなかったっけ」


「違うよ」  


 彼女は小さく首を振った。


「ここで夕陽を見ながら、おじいちゃんとおばあちゃんになるまで一緒にいようねって、約束したかったの。……勇気がなくて、言えなかったけど」


 その言葉は、潮騒に紛れることなく、僕の鼓膜に突き刺さった。彼女は三年前から、ずっと同じ場所を見ていたのだ。僕との地続きの未来。子供が生まれ、成長し、やがて巣立ち、二人きりに戻って老いていく。そんな、当たり前で、けれど僕にとっては恐ろしくて仕方のなかった「時間」を。


「……ごめん。本当に、ごめん」  


 僕はそれしか言えなかった。謝罪は、愛の対極にある言葉だ。謝れば謝るほど、僕たちの愛は「負債」へと変わっていく。砂浜の隅に、誰かが置き忘れた子供用のスコップが半分埋もれていた。プラスチックの、鮮やかな黄色。紬はそのスコップをじっと見つめ、それから視線を逸らした。その夜、ホテルの部屋で、僕たちは旅の記念として小さなガラス細工を買った。二匹の魚が寄り添うように泳ぐ、透明な置物。  


「これ、どうする? どちらかが持っていく?」  


 僕の問いに、紬はしばらくその置物を手のひらに乗せて眺めていた。やがて彼女は、それを部屋のサイドボードの上に、そっと置いた。  


「ここに置いていこう。……この部屋の一部として」


「……いいの?」


「うん。私たちの思い出は、私たちの部屋と一緒に片付けなきゃいけないから。外に持ち出しちゃいけないの。……呪いになっちゃうから」


 彼女の言葉は、鋭利なガラスの破片のように僕の心を切り裂いた。思い出を呪いと呼ばなければならないほど、彼女を追い詰めてしまったのは僕だ。深夜、隣のベッドから忍び泣く声が聞こえてきた。僕は寝たふりをすることすらできず、暗闇の天井を見つめ続けた。彼女を抱きしめに行けば、彼女は「やっぱり行かないで」と言うだろう。僕が「子供を作ろう」と言えば、この別れは霧のように消え去るだろう。  でも、それは嘘だ。一時的な情熱で結ばれた未来は、きっと数年後、もっと無惨な形で崩壊することを、僕は知っていた。彼女には、心から望むものを手に入れてほしい。僕以外の誰かと、この砂浜を歩き、今度こそ「おじいちゃんとおばあちゃんになるまで」という約束を叶えてほしい。翌朝、ホテルをチェックアウトするとき、僕はサイドボードの上に残されたガラスの魚たちを振り返らなかった。帰りの電車。  車窓に映る自分の顔は、行きよりもずっと老け込んだように見えた。    


 駅に着き、いつもの改札を抜けたとき、そこには日常が待っていた。半分に減った本棚と、段ボールの積まれた部屋。  


「……ただいま、だね」


 紬が力なく笑った。


「……ああ、ただいまだ」  


 僕たちは、約束を果たした。それは、幸せな思い出を作るためではなく、一つずつ、心残りを潰していくための作業だった。カレンダーの数字が、また一つ、砂に埋もれるように消えていく。あと、五十三日。旅の終わりは、本当の終わりの、序曲に過ぎなかった。


 部屋の中に積まれた段ボールの山は、さながら僕たちの愛の墓標だった。かつては生活の彩りだった雑貨や食器が、今や「割れ物注意」の赤いシールを貼られた記号へと成り下がっている。ガムテープの端を爪で剥がすたび、僕たちの時間が無理やり剥ぎ取られていくような、不快な音が鼓膜を震わせた。


「……慧くん、新しい部屋、決まったよ」


 夕食後の、ひどく静まり返ったリビングで、紬がスマートフォンの画面を僕に向けた。そこには、見慣れない街の地図と、簡素なワンルームの図面が映し出されていた。ここから電車で一時間ほど離れた、緑の多い古い住宅街。彼女が手がける造園事務所にも近く、けれど僕が仕事で使う駅からは、絶望的なほどに遠い場所。


「いい場所だね。日当たりも良さそうだし」


「うん。……一人で住むには、ちょうどいい広さかなって」


 その「一人で」という言葉が、鋭い礫(つぶて)となって僕の胸に刺さる。僕は彼女の隣に座り、画面上の地図をそっとなぞった。彼女の指先が触れた場所に、彼女の新しい人生が始まる。僕が立ち入ることのない、彼女だけの朝と、彼女だけの夜。そこには、僕の脱ぎ捨てた靴下も、僕が淹れた少し苦いコーヒーも存在しない。地図の上に引かれた、僕たちの住まいを隔てる一本の境界線。それは、どんな物理的な距離よりも遠く、僕たちの人生を切り裂いていた。


「慧くんの方は? もう決めたの?」


「……いや、まだ。いくつか候補はあるんだけど」


 本当は、決めるのが怖かった。新しい住所を記した契約書に署名することは、僕にとって、この部屋に残っている彼女の「残り香」を完全に捨て去ることを意味していた。数日後、公共料金の解約手続きを進めることになった。電気、ガス、水道。二人の名前で登録されていた「共有のサービス」を、一つずつ切り離していく。スマートフォンの画面をタップするだけの事務的な作業。けれど、カスタマーセンターの音声ガイダンスが「解約の受付が完了しました」と告げるたび、僕たちの関係の根っこが、土から引き抜かれていくような感覚に陥った。


「ねえ、これ。最後に二人で食べようよ」


 紬が冷蔵庫の奥から取り出したのは、去年の冬に二人で漬けた梅酒の瓶だった。  「一年後が楽しみだね」と笑いながら冷暗所に仕舞った、あの日の約束。琥珀色に染まった液体の中で、丸々と太った梅の実が、行き場を失ったまま沈んでいる。    僕たちは、まだ少し早いその梅酒を、一番小さなグラスに注いで口にした。尖ったアルコールの匂いと、強い酸味。


「……まだ、少し早かったかな」


「そうだね。……あと一年、待てればよかったのにね」


 紬の言葉に、僕は答えられなかった。一年。あと一年あれば、僕たちは変われただろうか。僕が父親になる覚悟を持てたのか、あるいは彼女が、子供のいない人生を心から受け入れられたのか。いや、答えは最初から出ていたのだ。僕たちは、相手を不幸にしないために、相手を愛することをやめる道を選んだ。この梅酒の味が、期待していたほど甘くないのは、僕たちの決断が正しかったという、残酷な証明でしかなかった。


 深夜、僕は一人でリビングの床に座っていた。家具が運び出される前の、最後の静寂。壁にかけられていた時計の跡だけが、白く浮かび上がっている。そこには、確かに僕たちの時間が刻まれていたはずなのに。ふと見ると、ゴミ袋の山の中に、あの公園で拾ったような、黄色いプラスチックのスコップの破片が混じっていた。……いや、それは僕の思い込みだ。あと、三十八日。カレンダーの数字は、もう「未来」を指してはいなかった。それは、僕たちの「遺体」が安置されている、葬儀までの日数を数えるような、絶望的なカウントダウンだった。

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賞味期限のあと、僕たちのゆくえ 王堕王 @oosoo

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