幸福な標本箱(ひょうほんばこ)

淡綴(あわつづり)

『幸福な標本箱』

 隣の席の「ゆゆ」は、いつも機嫌が悪そうに僕を見ている。


「また忘れ物? あんた、私がいなかったらどうするつもりなのよ」


 呆れ顔で彼女が差し出してきたのは、一本のシャープペンシル。僕が今朝、寝坊して筆箱を丸ごと机に置いてきたことに気づくより先に、彼女はそれを僕の机に置いた。


「……あ、ありがとう。なんで忘れたってわかったの?」

「あんたの鞄、いつもより軽そうに揺れてたから。……ほら、さっさと前向きなさい。先生来るわよ」


 ゆゆはぷいっと窓の外を向いてしまう。少しだけ赤くなった耳たぶを見て、僕は「やっぱりゆゆは優しいな」と、幼馴染特有の気取りのなさを感じながら前を向いた。


 放課後。僕はレポート作成のために図書室の隅で、難解な資料と格闘していた。 

 ふと、喉の渇きを覚えて顔を上げると、いつの間にか対面の席にゆゆが座っていた。彼女は自分の勉強をしている風を装いながら、一パックの紙パックジュースを僕の方へと滑らせてくる。


「……これ、飲みなさいよ。買いすぎちゃったから」

「え、いいの? ちょうど喉が渇いてたんだ。……でも、これ、僕が一番好きなメーカーの期間限定のやつだ」

「……偶然よ。売店で一番手前にあっただけ。そんなことより、そのレポート、三ページ目の解釈が少しズレてるわよ。さっきからあんた、そこばっかり読み返してるから」


 そう言って、彼女は僕が詰まっていた箇所を的確に指差した。

 僕は驚いて彼女を見る。確かに僕はそこを何度も読み返していたけれど、彼女はずっと自分の本を読んでいたはずだ。


「ゆゆ、僕のこと見てたの?」

「……本を読む視界の端に、あんたのペンが止まってるのが入っただけ。自意識過剰じゃないの?」


 彼女は再び本に目を落とした。けれど、その指先がわずかに震えているのを、僕は見逃さなかった。その時は、彼女が僕の視線を恥ずかしがっているだけだと思っていたんだ。


 図書室を出て、校門までの帰り道。夕暮れの涼しい風が吹き抜ける中、ふとした違和感が僕の足を止めた。


「……あれ? 自転車の鍵がない」


 制服のポケットを叩いても、カバンの底をかき回しても、あの小さな銀色の鍵が見当たらない。さっき図書室で席を立ったときは、確かにポケットの重みを感じていたはずなのに。


「……あ、あった」


 背後で、ゆゆが立ち止まっていた。

 彼女の足元、アスファルトの上に鍵が落ちていた。安堵して拾おうとしたとき、ゆゆが僕よりも早く、それを拾い上げた。


「本当に、あんたって無防備ね。……悠太、知ってる? あんた、今日これで三回目よ」

「えっ、何が?」


 僕が聞き返すと、ゆゆは一瞬だけ表情を強張らせ、すぐにいつもの涼しげな微笑みに戻した。


「……ううん、なんでもないわ。ほら、鍵。今度は失くさないように、しっかり持ってて」


 彼女は鍵を僕の掌にそっと乗せた。彼女の指先が触れた瞬間、ほんの少しだけ、吸い付くような熱を感じた。


「さあ、帰りましょう。……あんた、明日はハンバーグが食べたい気分でしょ?」 「え、どうしてわかったの?」

「なんとなく。……あんたのことなら、何でも知ってるんだから」


  ゆゆが先に歩き出す。その背中を見送りながら、僕は鍵をポケットにしまった。


  ……ふと、奇妙な感覚に襲われる。  さっき、彼女は何と言っただろうか。

 今日、僕が鍵を失くして困ったのは、今が初めてだったはずだ。

 それなのに、彼女は「三回目」と言った。


 残りの二回、僕が「失くしたことにすら気づかなかった」鍵を、彼女は一体どこで拾っていたのだろうか。

 そして――彼女はいつ、どうやって、僕が気づかないうちにそれを僕のポケットに戻していたのだろうか。


 前を行く彼女が、振り返って僕に笑いかける。


「ほら、早く来なさいよ。置いていくわよ?」


 その笑顔は、どこまでも澄んでいて、けれど、すべてを飲み込んでしまうほどに深かった。

 僕は何も言えず、彼女が作り出した「完璧な日常」という名の檻の中を、なぞるように一歩を踏み出した。

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