第2話
ヒロカズが逆さまで死んでいた。幼い頃から温室で育てられてきた小僧には、まだあの種の拷問に耐えるだけの体力が備わっていなかったのだ。使用人たちは他人を思いやるような器量を持っていずに、自分だったらまだ大丈夫という測りしか持っていなかったから、事態は本当に大変な場所にまで移動していた。
とはいえ、まだ誰もそのことには気がついていなかった。
関西人の女の訪問のごたごたで、誰もがヒロカズを二の次にしていて、悲痛な呻き声の対処を、自分以外の誰かがしたから庭からの呻き声が聞こえなくなったと勘違いをしていたのだった。
午前の三時に邸宅のオーナーが執事と一緒に高級車で帰宅した時、関西人の女は用を足した後ですでに邸宅の中から消え去っていた。
それは何人か雇われていたのだったが、わたしも特別な任務を割り当てられていない雑務係として働いていた。邸宅の二人のセキュリティが、深夜に帰宅した邸宅のオーナーと執事とを順番に迎え入れている。
「留守の間になにか変わったことが無かったか?」と声が聞こえた。
「御主人様のいない間にですか?」とセキュリティが言った。
「馬鹿の家庭教師が揉め事を起こしたりはしなかったのか?」
「家庭教師ですか?」
「馬鹿に家庭教師が務まりますかね」ともう一人が言った。
そんなセキュリティたちの受け答えに、物陰で聞いていたわたしは笑ってしまった。
確かに馬鹿に家庭教師は務まらないのだ。
「ヒロカズは?」と邸宅のオーナーが聞いた。
「おぼっちゃんですか?」
「ええい!」とオーナーの怒号が飛ぶ。
それは致し方ないことのように思えた。セキュリティたちが筋肉を鍛えて頭のネジが外れているのは皆が知っていることだったのだが、こうまで質問をオウム返しにされると人は苛々とさせられて声が荒ぶってしまうのだ。
邸宅のオーナーが自分の息子の名前を呼びながら廊下をうろうろとし始めた。
わたしは自分に言い聞かせていた。邸宅のオーナーの息子のヒロカズを庭に埋めたのは邸宅のオーナーからの指示で、それを手伝ったわたしは一切悪くない。確かに、深夜の三時まで庭に埋めているのはやり過ぎの感じはあるが、基本的にわたしたちの頭はネジが何本か飛んでいて、埋めた後に「出せ」という命令がなければずっとそのままにしているという機械的な頭脳の持ち主なのだ。
邸宅の物陰に潜んでオーナーの動向に注意していると、同じ雑務係として雇われていた果穂という女が近寄ってきた。この女もオーナーの動向には注意をしていたが、ヒロカズを埋めるのに手を貸していなかったから、わたしたちが緊迫した場面に遭遇しているというのに、表情はとても緩んでいた。
「こんな夜中にオーナーは何を騒いでいるの?」
「息子のヒロカズを探しているんだ」
「あいつは寝室じゃないの?」
「違うよ、庭に埋められているんだよ、知っているくせに」
「そのことは確かに知っているわ、だからあたしは言ったのよ」
「いいや、お前は何もしなかったけれど、その代わりに何も言いもしなかった」
「言ったわよ、言った」
「言ってないんだって、果穂」
「言ったわよ、了明」
次に剪定師の男が強張った表情で現れた。
わたしたちが潜んでいる物陰に近寄ると、物陰には入らずに、全くの独り言のような感じで教えてくれるのだった。
「ああ、最後におれが確認した時には確かに息があったんだが」
「え」
「え」
「え」
「え」
「え」
皆がそんな風に絶句した。わたしたちが潜んでいた物陰には、続々と最初から潜んでいた雑務係たちが顔を現す。剪定師の男はそれだけを伝えて去っていったのだが、それではもうヒロカズは埋められたままで死んでいるという意味ではないか。
果穂はわたしの顔色を伺っていた。
次々に現れた雑務係たちも、果穂と同じようにわたしの顔色を伺っていた。
「おれは見たんだ、了明。お前があいつを埋めている時に楽しそうな顔で何個かのお菓子も穴の中に入れていたよな」
「こいつはそれを笑いながらしていたんだ」
「全く人の命をなんとも思わないんだな」
「本当なの、了明?」
わたしは説明しなければいけなかった。確かにヒロカズを庭に埋める時、逆さまになったヒロカズの頭の部分に、ヒロカズが家庭教師の女を強姦した際に直前まで食べていたチップスやグミを放り投げていた。しかも、わたしは完全なる勝利を手にした征服者の気分にさせられ、声を出して笑いながらそうしていたのだ。
「してないよ」と強がって答えた。
「いいや、お前が確かにそうしているのをおれたちは見たんだ」
「でも皆で面白がってもいたじゃないか」
「ほら見ろ、そう言うということは、やっぱりしていたんじゃないか」
「してないよ」
「お前はしたんだ、もう白状をしたんだ」
「したからっておれは何罪に問われるんだ」
「人命軽視罪だよ、了明」
「まだヒロカズが死んだと決まった訳ではないよ」
「今何時だ?」と誰かが聞いた。
果穂が答える。「あたしが部屋を出た時には三時を回っていたわよ」
「よお、御主人の所に行って謝ってきた方がいいぜ」
「なんて言うんだよ」
「人命を軽視してすみませんでしたって謝るんだ」
「分かったよ、くそ……」
「待て!」と雑務係の一人が言った。
この雑務係に、わたしは一目を置いていた。とにかく寡黙で口が固く、ついに何かを喋ったと思った時には、皆の頭に輝かしい光明を差してくれるのだ。
「何だよ、ヨシキ」とわたしは嫌そうにしながらも、ヨシキが何を言うのかを待った。
「今の問題はだよ、了明が人命を軽視したとかそんな話ではないんだ。了明は確かにあいつを軽視したかもしれないが、それはあいつがまだ死んでいない時のことだろう?」
「そうだよ、あいつはまだ生きていたんだ」
「だったら人命の軽視には当たらないよ」
「だったらヒロカズの軽視だ」
「そうだよ、ヒロカズを軽視するなよ」
「ヒロカズを軽視してすみませんでしたって謝ってこいよ」
やいのやいのと、外野がとてもうるさかった。
深夜を四時も回ると、ことの全貌がうっすらと見えてきた。ヒロカズは死んだ。皆が邸宅のオーナーによって庭に集められた。執事の男は年配だったこともあって招集は免れたのだったが、この場所にいない誰かを犯人にしようとするわたしたちの魂胆はオーナーに見破られていて、邸宅のオーナーは前置きで「小畑さんは長時間のフライトで疲弊しきっているから、私がじきじきに休養を命じてある」と説明した。
「ここにいないからと言って、彼を犯人にすることは出来ない」
邸宅のオーナーは、集まった使用人たちの中に、セキュリティの姿を探した。
二人のセキュリティが手を挙げる。
「お前たちはこの蛮行が行われていた時に、一体何をしていたんだ」
誰もが「筋トレ」と心の中でその言葉を思い浮かべた。
「筋トレです」と二人のセキュリティが告白した。
「なんだってそんなにトレーニングをするんだ、お前たちは十分にもう立派ではないか」
「まだです」
「トレーニングに終わりはありません」
次のオーナーの矛先は雑務係に向けられた。
「お前たちは何をしていた」
ヨシキは皆の陰で息を潜めていた。
雑務係の誰一人として口を開くものはいない。
次のオーナーの矛先は剪定師や掃除婦、医療事務を任されている安子に向けられた。
「安子、お前はおれの指示を的確に伝えたんだろうな、おれは穴蔵の中に二時間ほど閉じ込めておけと言ったはずだぞ」
「伝えました」と安子は項垂れた。
これでは指示があべこべではないかと思った使用人は少なくなかったが、そのことを指摘して活路を見出すことの出来る程の頭脳を持った使用人はいなかった。正しくはヨシキがいるのだったが、ヨシキは邸宅のオーナーをどういう訳だか恐れていて、例えどんな的確な指摘であったとしても、解雇が怖くて縮こまっているのが常だったのだ。
邸宅のオーナーが続けた。
「安子からの指示が正しかったとして、おれの息子が庭に逆さまに埋められていて、その場所で息が出来ずに死んだ経緯を誰か説明はできないのか!」
邸宅のオーナーが穴に落ちていた菓子類の袋を拾った。
それを忌々しさから放り投げる。
わたしはその光景を見ながら、ちょっと笑ってしまいそうになった。
だがすぐに人命軽視のことを思い出し、唇をぎゅっと結んだ。
その時だった。午後の十時頃にトイレを貸してそれっきりだった関西人の女が、敷地内のずっと奥の方を、こちらの様子を伺いながら近づいてきているのが分かった。木から木へと飛び移るかのように素早い身のこなしで、邸宅のオーナーからの視線を遮っているのだった。
関西人の女の接近に気がついているのは、わたしの他に果穂がいた。
「何よ、あの女、変な服を着て」
「元はブードゥー教の信者なんだ」
「宗教?」
「そうだよ、可哀想な人なんだ」
「おい、そこ!」と邸宅のオーナーがわたしたちのお喋りを諌めた。
わたしたちは背筋を伸ばした。
ヒロカズが死んで悲しかったのは邸宅のオーナーだけではなくて、わたしも同じように悲しんでいた。馬鹿だったが、家庭教師に勉強を教えてもらって頑張っていたし、誕生日にオーナーからプレゼントされた競走馬の機嫌を取るために髪を伸ばしてもいたのだ。
邸宅のオーナーがついに言った。「もういいよ、お前たち」
「待って!」とその時に、関西人の女が輪の中に入ってくるのだった。「あたしはやっぱりこの辺りに良くない雰囲気を感じるわ」
「もういいよ」と使用人たちの誰かが言った。
「もういいんだって、もういいよ」
「もういいよ、おばさん」
「誰がおばさんですって?」
それは本当にもう良かった。もう終わったのだ。
庭にヒロカズが埋められている ようすけ @taiyou0209
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