初恋の残像 ―雨の夜に、名前を呼ぶのは誰?

宮永朔

第1話 東京の空、揺れる名前

​ 大学を卒業してすぐの日曜日。真中加世子は、故郷を離れる特急電車に揺られていた。


 一ヶ月後に控えた出版社の入社式を前に、研修を兼ねたアルバイトとして勤務するためだ。慣れないスーツの袖をなぞりながら、東京駅に降り立つ。人の多さに酔いそうになりながら、携帯で『鳴海陽介』の番号を呼び出した。


​ コールは一度。すぐに向こう側の声が耳に届く。

『加世子ちゃん? 着いた?』

「はい、たった今……」

『じゃあ、八重洲口を目指して。改札の前で待ってる』


​ 人波を掻き分け、待ち合わせ場所へ向かう。改札の向こう側、長身で端正な顔立ちの男が大きく手を振っていた。鳴海陽介。かつての親友・美咲の恋人であり、今は加世子にとって最も頼れる存在だ。


​「すみません、お迎えまで……」

「いいよ。それより――」


 陽介は加世子の顔をまじまじと見つめ、ふっと目を細めた。


「髪、切ったの?」

「あ、はい。心機一転かなって」

「すごくいいよ。やっぱり似合ってる」


​ 陽介にショートヘアを勧められたのは、高一の時だ。あの頃、彼の隣にはいつも美咲がいた。今や人気モデルとして活躍しているはずの美咲とは、卒業以来、一度も会っていない。


 陽介の車に揺られながら、加世子は窓の外を流れる東京の景色を見つめた。今日から始まる新しい生活。陽介が選んでくれた会社の近所のマンション。彼の手厚すぎるほどのサポートが、心強くもあり、どこか申し訳なくもあった。


​ 引越しの片付けを手伝い、生活圏を案内してくれる陽介は、どこまでも行き届いた人だった。

「ここが一番近いスーパー。0時までやってる」

「このコンビニが便利かな。あ、あそこに病院があるから覚えておいて」


 まるで自分のことのように親身な彼に、加世子は心から感謝した。けれど、そんな陽介にも見せられないものが、一つのダンボールに詰まっている。

​ 

 オルゴール、海の写真集、ストラップ、そして老女からの手紙。


 陽介が仕事で呼び出され、部屋が静まり返った後、加世子はそれらをベッドの引き出しにそっと移した。


​ 翌日から始まった出版社での毎日は、想像以上に過酷な「雑用」のオンパレードだったが、気付けば陽介がいつも気にかけてくれていた。


​ そんな四月が終わる頃、陽介が過労で入院した。

 病院に駆けつけた加世子を、陽介は弱々しい微笑みで迎えた。


「弱ってる時に優しくすると、その気になるよ」


 差し出された手に触れると、そのまま引き寄せられ病室で深いキスを交わす。


一年前、陽介に一度だけキスをされた。昔の恋人――薄井敦史の話をした直後の、強引で、でも熱いキス。それ以来、陽介の存在が、少しずつ、けれど確実に心の大半を占めていた。


 退院後、陽介のマンションで身の回りの世話をする加世子を、彼はソファーに深く腰掛け、ぼんやりと見つめていた。病室でのキス以降、彼は「加世子」と呼び捨てにするようになっていた。 


​「加世子は、男にモテるだろうな」

「モテてませんよ」


 キッチンで手を動かしながら苦笑いする加世子に、陽介は静かに言葉を重ねた。


「どちらかと言うと、『結婚したい女』だよ、加世子は。……ずっと一緒にいたい、愛する人」


​『結婚』という言葉に鼓動が跳ねる。それを悟られないよう、加世子は部屋の片付けに没頭した。


「……恋する人と、愛する人は違うんですか?」

「一緒の場合もあるだろうけど、恋した情熱はいつか冷めて、マンネリに変わる。でも、愛は違う」


​ 加世子は手にしたふきんに視線を落とした。脳裏には、どうしても忘れられない言葉が蘇る。


『――コイがアイに変わるんだ』


「私は……恋は愛に変わるものだと思います。例え家族になっても、もっと深く、もっと好きになれるって……そう、信じたいから」


​ 無意識に、過去の残像をなぞるように答えていた。そんな加世子の背後から、陽介が音もなく近づき、その体を強く抱きしめる。


「何、思いだしてんの?」

「……っ」


 耳元で囁く陽介の声は、低く、冷たく、加世子を射抜いた。


「一つだけ確かなことを教えてあげる。――初恋は、成就しない。あいつに会えるといいな、加世子

「……え?」

「思い出は美しいけど、実物は大したことないって分かるだろうからさ」


​ その言葉は呪文のように、加世子の胸に冷たく突き刺さった。


――初恋は成就しない。

もし、再会さえしなければ、私はずっとその呪文に守られていられたのかもしれなかった。


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2026年1月2日 21:00
2026年1月3日 21:00
2026年1月4日 21:00

初恋の残像 ―雨の夜に、名前を呼ぶのは誰? 宮永朔 @sakumiya3

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