聖女は王太子の優しさを赦さないーーだから婚約破棄します

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聖女は王太子の優しさを赦さないーーだから婚約破棄します

「ユリウス様。私はあなたを、誰より愛しています。……だから、婚約は破棄させてください」


 それを言い終えた瞬間、エリシアは胸が軋む音が聞こえた気がした。目には涙を溜めていた。

 本当は、こんな言葉を口にするはずではなかった……


 王太子ユリウス・フォン・レーヴェンハルトは、あまりに突然のことに、目を見開いたまま固まってしまった。それから自分の身に何が起きたのか確認するように、指先を動かした。

 突然の婚約破棄の宣言に、ユリウスは混乱しているはずだ。彼の落ち度は何ひとつない。むしろ、彼は優しすぎるほど優しい。


 そんなユリウスを、生涯をかけて支え、あるいはユリウスに支えられ、王国の人々のために尽くすと強く決意していたはずだった。


 それでも、この婚約を続けるわけにはいかない。このままではユリウスが王国のにされてしまう。

 その結末だけは、何としても変えなくてはならなかった。


「……理由を……聞いても?」


 やっとのことでユリウスが声に出した。


 用意していた答えを、エリシアはわざとらしいくらいに丁寧に口にした。


「私は聖女である以上、嘘をつくことができません。だから、あなたへの愛を失ったとは言えません。ですが、あなたと私が一緒になると、必ずお互いに不幸が訪れるのです」


「エリシア、なぜ君はそんなことを言うのだ? 必ず君のことは幸せにする。たとえどのような苦難があっても、必ず君を守る」


「あなたのその優しさが仇になるのです。あなたは私のためだけでなく、王国民のためにも自分を犠牲にしてしまうでしょう」


「それの何が悪いのだ。僕は君の婚約者で王太子なのだ。妻や王国民を第一に考えるのが当然じゃないか。皆の幸福が僕の幸福でもあるんだ」


「あなたは自分の命を捨ててでもその使命をまっとうしようとするでしょう? それは私にとって耐えがたい不幸だということをご理解ください」


「エリシア、そんな心配は無用だ」


「いいえ、あなたにとっては自分の命よりも王国民の安寧のほうが重要なのです。王族として、いえ、執政者としてあなたは本当に尊敬できます。ですが、恋人として、夫としては最低です」


「だからなぜ君はそんなことがわかるんだ?」


 やはり一筋縄では説得できそうにない。

 ユリウスは優しい男だが、頑固な一面もあった。特に自分以外の人間が犠牲になることは絶対に許せないのだ。

 世界がもう少しだけこの人に優しければ、自分もユリウスも幸せな結婚生活を送れたに違いない、とエリシアは思った。


 しかし世界はーー王家や聖教会は、ユリウスに対してあまりに残酷だった。


 エリシアは諦めて切り札を出すことにした。


「私はもう、あなたのために死んでしまいました」


   ※


 1年後、王国は異常なほど豊かになった。


 そして、その繁栄の裏で王太子ユリウスはひっそりと命を落とし、妻の聖女エリシアはただ一人、その死を看取った。

 


 そもそもの始まりのきっかけは大司教アウグスト・フォン・ヴァイスクロイツの提案だった。


「聖女エリシア、結婚してもらえませんか?」


 エリシアはその突然の提案に面食らったのを覚えている。


「はい? 大司教とですか?」


 今度は大司教が面食らう番だった。


「申し訳ございません。誤解を生むような言い方になってしまいましたね。私ではありません。ですが、どなたか意中の方はございませんか? 聖女がご自身でお相手を選ぶことが重要なのです」


 エリシアには恋仲の男性どころか、男性の友人すらいなかった。唯一、脳裏に浮かんだのは、王太子ユリウスだった。

 王族や貴族の人々は、平民の出自のエリシアに、聖女に対する最低限の敬意は見せるものの、どこか見下し、蔑むような態度があった。「聖女なら、もう少し作法を学んで、品性を高めたほうがよいですよ」「田舎ではこんな食事されたことがないでしょう?」「やっと文字を覚えたんですって? しっかり魔法の勉強もしてもらわないと、聖女の仕事も務まらないでしょう」などなど、何か口を開くたび、エリシアに平民の血が流れていることを意識させるのだった。

 翻って、平民の頃も、家が貧しく学校もまともに行けず、友達と呼べるような者もおらず、子供のときから親の仕事を手伝い、いつも一人遊びをしていた。近所の、学校に通っているような男子からは、からかわれたり、いじめを受けることならあったが、恋仲になることなど想像だにできなかった。

 村の教会での祝福適性試験ブレス・テストで、村始まって以来の高い光属性魔力マナが検出され、聖女として見出されたときには、村人たちからは親しくされるどころか、畏怖の念を持たれたものだった。

 

 そんな生い立ちのエリシアに唯一、表裏なく、一人の人間の女性として接してくれたのが、王太子ユリウスだった。


「こんな美しい聖女が誕生するとは思いもしませんでした」


 王都で行われた聖女誕生祭の後、わざわざエリシアに挨拶をしに大聖堂まで訪ねてきた王太子ユリウスは、にこやかにそんな言葉を投げかけてきた。それに続き、「こんな素晴らしい光属性魔力マナを見たことがない」「神秘的な品位を感じる」など、とにかくエリシアを褒めちぎった。

 王太子という肩書きに、平民出身のエリシアは当初ひどく警戒していたのだが、気づいたら笑い声を上げておしゃべりをしていたのだった。


 王太子とは軽薄なものなのかとそのときは思ったが、ユリウスは自分の身分の前に相手が萎縮しないよう、貴族に対してであろうと平民に対してであろうと、努めて軽薄で親しみやすいように振る舞っていたのだった。

 そんなユリウスは王国民からの人気は高かったが、王族の間では、「威厳が足りず、王族の品位を欠いている」、あるいは「次期国王に相応しくない」という評判まで立てられ、疎まれていた。


 友人と呼べるような者がいないエリシアにとって、ユリウスは特別な存在になった。そう思うと、自分がどうしても相手を選ばなければならないのであれば、王太子ユリウス以外には考えられなかった。

 ただ、身分差はどうしても意識してしまい、迂闊に結婚相手として名前を挙げるのは憚られた。


「いかがですか? どなたか心に浮かんだ方がおられるのでは?」


 エリシアはどうしてもその名を告げることができなかった。かと言って、「誰も思い浮かばない」と嘘をつくこともできず、ひどい羞恥心に襲われた。


「もしやユリウス王太子ではないですか?」


 アウグストからその名を告げられたエリシアは、顔を真っ赤にした。


「はい。しかし、あまりに身分差がありますから……私のような田舎娘を結婚相手として見ていただけるとはとても思えないので……」


 アウグストが手を上げてエリシアが言葉を続けようとするのを制した。


「聖女エリシア、あなたはまだご自身の身分を正しくご理解できていないようだ。『聖女』は最も神に近いとされるのですよ。大司教の私よりも、貴族よりも、あるいは場合によっては国王よりも高いご身分だと言えるのです。ですので、王太子のほうが恐縮するくらいなのです。それに、ユリウス様は身分差など気にする方でもないでしょう」


「……もしそうだとしても、女性として見ていただけるとは思えません」


「そんなことはないでしょう。あの方はいつもエリシア様を褒めていらっしゃるではないですか。まあ、私に任せてください」


 それからアウグストは半ば強引に、ユリウスとの縁談を進めた。

 そしてユリウス側があっさりと縁談を了承したと告げられたときには、エリシアはひどく驚いた。どこか嬉しい気持ちもあったが、それよりもユリウスが自分を受け入れたことが信じられず、騙されているのではという疑いすら抱いてしまっていた。


 そんな疑いも晴れぬまま、慌ただしく婚約式が準備され、式の当日を迎えることとなった。


 大聖堂の地下礼拝堂で開催された婚約の儀式は、王族と神官立会いの下で行われたが、一般観衆には公開されず、仰々しいものになった。

 婚約式というよりは、神聖な契約の儀式であるかのようだった。


 久しぶりに再会したユリウスは、エリシアと目が合うと、満面の笑みを浮かべた。エリシアは気恥ずかしくなり、すぐに目を逸らしてしまい、言葉をかけることすらできなかった。


 大司教は、伝統的な聖女の婚約式に則るということで、手順を細かくエリシアとユリウスに説明した。


 地下礼拝堂の地面には魔法陣が描かれており、ユリウスはその魔法陣の中央に立たされた。

 その横にエリシアが立ち、今しがたアウグストから教えられた古代魔法言語ルーンでの詠唱を行うのだった。

 すべての手順はつつがなく行われ、エリシアが詠唱を行うと、魔法陣が淡い青の光を発し、ユリウスを包んだ。

 エリシアは自身の魔力マナが大きく消費された感覚を覚えた。婚約とはこんなにも魔力を使うものなのかと思った。


「聖女エリシアと王太子ユリウスの婚約は成立です。おめでとうございます」


 アウグストが宣言した。列席した王族や神官たちが一斉に拍手し、二人を祝福した。


 ユリウスが魔法陣を出て、エリシアに歩み寄り、その手を取った。


「これで僕は君の婚約者だ。エリシア、これからよろしく」


 そのときエリシアは初めてきちんと正面からユリウスの顔を見た、と思った。気後れと気恥ずかしさから、きちんと目を見て話し合うこともなかったのだ。


 ユリウスの顔は、整った知性的な美青年のそれなのだが、どこか少年っぽさのある、人懐っこい笑顔を見せていた。

 エリシアはそのとき、自分が恋に落ちた、とはっきりわかった。婚約の儀式の完了と相まって、幸福感がじわりと湧き上がってきたのだが……


「本当に、私なんかと婚約なんてしてしまってよろしかったのでしょうか?」


 エリシアは申し訳なさそうにユリウスにそう問うた。

 ユリウスは少し困ったような顔をしながらその問いに答えた。


「エリシア、君はもっと自分に自信を持つべきだ。聖女が自信なさそうだったら、王国民も不安になってしまうよ。

 だから僕がはっきり言おう。君以上に素敵な女性に僕は会ったことがない。僕は今、この上なく幸せだし、君のことも誰よりも幸せにすると誓う」


 エリシアは、ユリウスが真剣に話す顔を見て、嘘やお世辞で言っているのではないとわかった。この人なら信頼してもいい、とエリシアは思った。そう思うと抑えようとしていた幸福感が溢れ出し、エリシアは笑いながら泣き出していた。

 自分のこれまでの人生は、聖女になるためにあったのではなく、この人に出会うためにあったのだと悟ったのだった。


 厳かで仰々しかった婚約の儀式とは打って変わって、結婚式は盛大なものとなった。


 大聖堂の大礼拝堂で、多くの観衆を招いて式の様子が披露され、二人は永遠の愛を誓った。

 式が終わると、二人を乗せた馬車が王城までの道のりを行った。二人は沿道の人々に手を振りつづけ、沿道の観衆は大いに沸いたのだった。


 エリシアにとって、それからの生活は幸福に満ちたものだった。世界を彩る色彩がすっかり変貌して、明瞭で美しいものになったかのようだった。


 ユリウスは結婚を機に、より優しく頼りがいのある存在になった。

 日中は大聖堂で聖女として祈りや癒しを行い、それ以外は王城での生活となった。

 王族には未だ平民出自のエリシアを見下すような者は多く、慣れない王城での生活に不安もあったのだが、ユリウスが常にエリシアを気遣ってくれるため、窮屈さも感じなくなった。


 共に王都を散歩し、食事し、愛を囁き合い、ときに王国の問題について真剣に語り、二人で過ごす全てが大切で幸福な時間になった。

 エリシアはユリウスに抱いた最初の印象を恥ずかしく思っていた。ユリウスは軽薄な男などではなかった。優れた知性を持つ彼の優しさは、他者や王国を思いやる知性に裏打ちされたものだったのだった。ますますユリウスへの尊敬と愛慕が募り、同時にユリウスと一緒にいられる幸せを噛み締めるのだった。


 しかし、そんな幸福な結婚生活は長くは続かなかった。


 結婚から一ヶ月も経たない頃、エリシアが大聖堂から王城へと帰ると、いつも出迎えてくれるユリウスがいなかった。

 ユリウスのいない王城は、エリシアにとって居心地のいいものではなく、言い知れぬ不安に襲われた。


 エリシアはそのまままっすぐユリウスの部屋に向かった。王城は広かったが、ユリウスと一緒であれば遠く感じなかった道のりが、今日はひどく長かった。


 やっとのことでユリウスの部屋にたどり着いた。

 扉をノックし、「エリシアです」と言った。

 中から「どうぞ」とユリウスの声が返ってきたので、エリシアは安堵し、部屋の中に入った。


 ユリウスはベッドに横たわっていた。エリシアは驚いて走り寄った。


「どうされたのですか? 体調がすぐれないのですか?」


「いや、ちょっとめまいがして倒れてしまっただけだよ。心配ない」


 そうは言うが、ユリウスの顔は蒼白で、エリシアがいるというのに、体を起こそうともしなかった。


「そうですか。念のため、治癒をさせていただいてよいですか?」


「聖女様の治療を直々に受けられるのか。それはありがたい」


 エリシアはこれまでに覚えた最も治癒力の高い聖女固有魔法でユリウスの治癒を試みた。

 一瞬、ユリウスに顔が苦痛に歪んだ気がしたが、すぐに笑みに変わった。

 具合が良くなったのか、ユリウスは上半身を起こそうとした。まだ力がうまく入らないようだったので、エリシアも手を貸して起き上がらせた。


「すごく良くなったよ。さすが聖女様だ」


 ユリウスは大きな笑顔を見せ、それを見たエリシアは安堵した。



 ところが翌日からもユリウスは表に姿を見せなかった。自室に寝たきりとなり、外に出てくることがなくなったのだ。

 エリシアは毎日治癒を行い、そのたびにユリウスは一時的によくなった素振りを見せるのだが、翌日にはまた悪化し、病が治ることはなかった。


 それだけではない。王太子が倒れたというのに、医師も呼ばれなければ、見舞いに来る王族もいなかった。エリシアを除いて、誰もユリウスが回復することを望んでいる者がいないかのようだった。


 エリシアはただ一人、ユリウスを救うため、必死に治癒魔法を学んだ。自分にできることはそれしかないと考えていた。

 新しい治癒魔法を覚えては、ユリウスの治癒を試みるものの、一向に効果は現れなかった。聖女の公務も中断し、魔法研究とユリウスの治癒に集中したが、ユリウスの病は治るどころか、悪化の進行が止まることすらなかった。


 その一方、王国はかつてない好況に沸いていた。

 作物は異常な成長の速さを見せ、豊作続き。製造するものはすべて品質が高く、欠陥品が出ない。噂を聞きつけた外国からも買い付けが多くあり、貿易での利益も巨額となった。

 王族の徴税額も大幅に増え、聖教会への寄進も大きくなっていった。単なる増収と表現するにはまったく足りないほど極端な額になっていった。

 

 王国中が好況の熱狂の渦にある中、ユリウスは静かに息を引き取った。彼の死の間際、傍にはエリシアしかいなかった。王族の家族たちも、王国民たちも、すでにユリウスへの興味を失っているかのようだった。


 ユリウスは言葉を発するのも苦しげな様子だったが、力を振り絞るように、エリシアに最期の言葉を告げた。


「……エリシア、最期まで一緒にいてくれてありがとう。君と出会えて本当によかった」


「嫌! ユリウス様! 逝かないでください……お願いだから……」


「心配しないで、僕たちはまた出会って、必ず幸せになるから。

 ……次に僕に会うとき、『おまえの優しさを赦すな』と僕に言ってくれるかい? 頼んだよ」


 死の際に、ユリウスは死後の二人の来世を祝福し、今世を自省するような言葉を残して亡くなった。その希望を持たせるような言葉によって、エリシアはより悲しみと喪失感を深めることになった。


   ※


 エリシアはユリウスの死の真相の調査に没頭するようになった。

 大司教アウグストや、国王フリードリヒを含めた王族の面々にまで謁見し、ユリウスの病の原因に心あたりがないか尋ねて回った。しかし誰もがこう口にした。


「聖女ですら原因がわからず治癒できない病を誰が治癒できたと言うのですか?」


 世界はユリウスと出会う前に戻ったかのようだった。王族は、ユリウスを失ったエリシアを見下すべき存在と再確認したようだった。


 エリシアは聖女の公務を完全に放りだし、大聖堂内の蔵書室に籠るようになった。もはや聖教会も王国もエリシアにとってはどうでもいいものだった。ただユリウスの死の真相を知り、彼の死の意味を見出すことだけに彼女の熱意は向けられた。


 エリシアは始め、医学書を中心に読み漁っていたが、聖女の治癒魔法で治すことができないような病は見当たらなかった。


 漫然と膨大な書庫の背表紙を眺めていると、「禁忌魔法総覧」という書物が目に入った。

 「呪い」という言葉が脳裏に浮かんだ。しかし、エリシアの治癒魔法には浄化の作用が含まれているものがほとんどで、呪いだったとしても、簡単に浄化されていたはずだった。


 そう思いながらも、エリシアはその書物を手に取り、読み始めた。

 そこでエリシアはある一つの章を見つけた。「禁忌神聖魔法」という章名が妙に気になり、胸がざわついた。神聖魔法とは光属性魔法の別名、特に高位の光属性魔法使いの扱う魔法のことを指すはずだった。例えば……聖女の扱う魔法……。

 神の聖性を利用した光属性魔法であるのに、闇属性魔法と同じように禁忌の魔法が存在するとはにわかに信じられなかった。

 エリシアがページを捲る手は震えていた。しかし、その手を止めることはできなかった。


 神聖魔法の中には、やはり他者を呪うようなものはなかった。しかし、禁忌とされている魔法は確かにあった。

 それは神に生命とマナを捧げることで、世の摂理に反した効果を生み出す魔法だった。ーー例えば、土地の豊穣や人々の能力の向上……


 エリシアは一つの希望を持って読み進めた。闇属性の禁忌魔法に「死者蘇生ネクロマンシー」というものがあった。それならば、自分が扱える光属性魔法でも、ユリウスを生き返らせることができるものがあるのではないか。それがたとえ自らの命を捧げなくてはいけないものであったとしても……


 しかしそんな都合の良い魔法はなかった。エリシアは何度も何度も読み返したが無駄だった。


 そうなると、エリシアの目的は次に移っていくーーユリウスの死の原因の特定だ。


 書物を読んでいる中で、エリシアにはすでに思い当たることがあった。いくつかの禁忌神聖魔法の中に一つ、覚えのある古代魔法言語ルーンの詠唱文があったのだ。

 そして、その真相に思い当たったとき、エリシアは強い自責の念に苛まれ、同時に、聖女らしからぬ強い恨みが湧き上がった。



 エリシアは蔵書室を出て、大聖堂の地下礼拝堂に行った。

 ユリウスとの婚約式を行ったあの場所だ。

 あの魔法陣ーー婚約の儀の際、ユリウスが立ったあの魔法陣と、そこに刻まれた古代魔法言語ルーンを確認して確信した。


 自らの婚約がすべての原因だったのだ。



 エリシアはその足で、大司教アウグストのもとに向かい、婚約の儀で使用した禁忌神聖魔法と、ユリウスの身に起こったことについて問いただした。


「蔵書室で神聖魔法の研究をされているかと思ったらそんなことでしたか」


 アウグストは驚いた表情を見せたかと思うと、次の瞬間には呆れ、そして諦めたような顔をした。


「もうユリウス様はいないことですし、いいでしょう。エリシア様にはお話ししておきます。ただし、これをお話ししたら、聖女の公務に戻っていただきたいですな。近ごろ国は豊かになりましたが、祝福や治療を求める者は多いのです。彼らを飼い慣らし続けるのには、聖女の力は不可欠だということもご理解いただきたいですな」


 アウグストの言葉に引っかかるところがあったが、エリシアはただ頷いた。


 満足そうに笑みを浮かべたアウグストも頷き返し、一つ咳払いをした。


「ユリウス様は王国の繁栄のために亡くなられたのですーー婚約式の際に使用した魔法は、ご指摘のとおり『光葬レクイエム・豊穣アバンダンス』という禁忌とされている神聖魔法です。生命と引き換えに、豊穣をもたらす魔法です」


 やはりそうだったか、とエリシアは唇を噛んだ。


「ユリウス様が地下礼拝堂の魔法陣に立たれていたでしょう? あの魔法陣は、『光葬豊穣』に捧げる贄を定めると同時に、王国中の教会に張り巡らされた守護結界用の魔法陣と接続されていますーーそれは、かつての聖女が王国の危機に際して張り巡らせた魔法陣なのです。その魔法陣によって張り巡らせた網によって、魔法の効果を王国中に広めることができます。つまり、ユリウス様の生命と、あなたのーー聖女の神聖魔法によって、現在の王国の特別な豊穣がもたらされたのです」


「なぜそんな……」


 質問をしようとしたエリシアを遮り、アウグストは言葉を続ける。


「ユリウス様の死の原因を知りたいのであれば、もう一つ付け加えましょう。

 一度『光葬豊穣』を発動すると、対象は固定され、その生命力は奪われ続けます。

 エリシア様が、ユリウス様に治癒を施すほど、ユリウス様の生命力が高まり、その分、各地の守護結界への生命の分配が増え、魔法の効果も強まりました。代わりに、対象のユリウス様の肉体への負担は大きくなり、日に日に弱ってしまわれたのです。あなたの愛がユリウス様にとどめを刺したーーつまり、エリシア様、あなたがユリウス様を殺した張本人でもあり、王国を繁栄へと導いた英雄でもあるのです。

 なに、誰もあなたを責めません。むしろ讃えます。愛する夫を犠牲にしてまで王国を繁栄させた聖女として歴史に刻まれるでしょう」


「私のユリウス様への愛情が利用されたということですか……しかし、なぜ禁忌である魔法を私に使わせたのですか? 聖教会こそ禁忌魔法が使用されないよう取り締まるべき立場のはずです」


 アウグストはまた呆れた表情を見せた。


「取り締まりはします。ただ同時に、『禁忌』とするかどうかも決めているのは聖教会です。

 たった一人の犠牲で、何百万人もの王国民が、今後百年もの間、平和と豊かさを享受できるのです。この素晴らしい魔法を禁忌魔法のままとしておくのは不利益でしかないと判断しただけです」


「王国の繁栄と言いますが、最も利益を得ているのは聖教会と王族なのではないですか?」


「それはそうでしょう? 聖教会がこの計画を考え、実行し、王族は犠牲者まで出したのですから、最も利益を享受するのが当然です。まあ、王族はユリウス様を煙たがっていましたので、邪魔者を排除しただけとも言えますが……これは失礼」


 そう言って、アウグストは笑った。


 エリシアは湧き上がる怒りを抑えながら、これ以上問い詰めたところで無駄だということを悟った。


「では明日から公務に戻っていただけますな?」


 エリシアは黙って踵を返した。

 エリシアの脳裏にあったのは、自分を罠に嵌め、ユリウスを死に追いやった聖教会と王族への復讐だった。

 ただ、もう一つエリシアの脳裏に浮かんだことがあった。禁忌神聖魔法の中に、失われたユリウスの命を取り戻すことはできないまでも、その命が失われる前に救うことができる可能性があるものを見つけていたのだ。


 その魔法の効果について、「死に戻り」といえば、聞こえはいいかもしれない。

 しかし、この禁忌の神聖魔法は、一度使用してしまうとその時点での使用者の死が確定してしまう。

 つまり1年前に戻ったとしても、その1年後、再びその禁忌魔法を発動した日を迎えた時に、今度こそ本当に神が使用者の魂を天に召すのだ。

 自らの命と引き換えに誰かを救うことを目的とした、神聖魔法ならではの禁忌魔法なのであった。自らの命とはいえ、命を失わせることをよしとせず、聖教会は禁忌としたのであろう。


 だが、エリシアに迷いは微塵もなかった。

 ユリウスのいない世界に生き続ける意味など何もなかった。

 自分もしょせん現代の聖教会に属する人間だ。目的のために命を軽く見すぎているかもしれない。ユリウスも、他者のために自らの命を簡単に捧げるような人だった。

 ただ、エリシアやユリウスは自分の命を、聖教会や王族は他者の命を軽んじるということは大きな違いだ。


 エリシアは今、自らの命が失われる恐怖などより、ユリウスと再会することの期待に、胸を震わせていた。


「光よ、私を葬り、時を戻したまえーー光葬回帰レクイエム・リターン


   ※


 禁忌の秘術によって1年前に戻ったエリシアは、生きているユリウスを前にして想いが溢れ、目を潤ませた。

 しかし、再会を喜ぶより、まずはユリウスを救うことを優先しなければならない。


 そのため、ユリウスの死のきっかけとなった婚約を破棄することを求め、1年後の世界ですでに自分の死が確定したことや、ユリウスの死によって聖教会や王族ばかりが利益を享受していることも告げたのだった。


「状況はわかったよ。でも婚約破棄は認めない」


 ユリウスははっきりとそう言った。


「どうして……? 私の話が信じられないかもしれませんが、私はもう本当に死んでしまったのです。だから私なんかと一緒になったって仕方ない。私はまたユリウス様と再会できただけで十分。あなたは生き続けてください。お願いします……」


「君が嘘や作り話をしていないのはわかっているよ。それでも僕は死ぬつもりはないし、君を失うつもりもない」


「そんなことはできないわ。神聖魔法は絶対です」


「諦めたらだめだよ、エリシア。君が命を懸けてまで戻ってきてくれたのにそれを無駄にするつもりはない。僕たち二人ならできるよ」


「でも……」


「一つ白状しよう。僕は自分が禁忌魔法によって犠牲になって、王国を繁栄させることを最初から了承していたんだ。聖教会や王族がその繁栄を独占するとは思っていなかったけれど……

 とにかくそのことに関しては妻の君には本当に申し訳なく思う」


「なぜ知っててそんな……いえ、あなたはそういう人ね」


「それは反省しているよ。僕が言いたいのは、僕も禁忌魔法については詳しいということだよ。王太子特権で、大聖堂の蔵書の『禁忌魔法総覧』も読んだことがある。その中にこんな禁忌神聖魔法があったはずだ……

 ああ、そうだ。やっぱり婚約破棄するフリをしよう。そのほうが人を集められて彼らを断罪するにはいいだろう……」


   ※


「ここに聖女エリシア・ブランシェの公開裁判を開催いたします。罪状は王太子ユリウス・フォン・レーヴェンハルトとの婚約破棄、およびそれに伴う反逆罪になります」


 大司教アウグストが公開裁判の開会を宣言した。本人は力強く宣言したつもりだったようだが、どこか声量が小さかった。


 公開裁判の場となった大聖堂前広場には多くの観衆が集まっていた。

 その視線は断罪台に立たされたエリシアに集まっていた。

 ユリウスも、他の王族たちと共に、訴追する側の席に座ってエリシアを見つめていた。

 国王フリードリヒを含め、そこに列席していた王族たちはどこかくたびれているようだった。


 婚約破棄が大罪のように言われるなんて、と台上のエリシアは呆れていた。


「聖女と王太子の婚約破棄は王国と大聖堂の管理下の契約であり、解除を認めることはできません。

 さらに、この婚約は王国の安寧と繁栄のための礎となるもので、破棄することは王国に大きな損害を与えるものであり反逆罪に相当するものです。反逆罪は死罪にも値します」


 契約がすでになされた以上、これ以上余計なことをされないよう排除するということか、とエリシアは思った。


「わかりました。では婚約破棄はいたしません」


 そうエリシアは宣言し返した。


「は? 何と仰いました?」



「どういうことですか? 罪を認めるということですか?」


「婚約破棄も反逆もしないと言っているのに、なぜ罪になるのでしょう?」


 アウグストが困惑してユリウスのほうを見た。


「ユリウス様、これは何の茶番ですか? あなたがエリシア様を訴えたのですよ」


 名指しされたユリウスは不敵な笑みを浮かべ、席を立って前に出た。


「大司教アウグスト様、騙すような形になって申し訳ございません。ですが、本当の大罪人を裁くため、どうしてもこの場を用意する必要があったのです。どうかご理解ください」


「本当の大罪人……? どういうことですか?」


「聖女を騙し、禁忌とされる魔法を使わせ、王太子である僕を殺害までしようとした大罪人です。アウグスト様、あなたなら、僕がどなたのことを言っているのかわかりますね?」


「いや、わかりませんな。そもそも『禁忌』かどうかは聖教会が決めることです。我々の判断で実行する魔法に『禁忌』はありえません」


 アウグストは臆することなく自信たっぷりにそう答えた。


「そのとおりです。聖教会が『禁忌』かどうか決定する、というのは王国法に従っています。では聖教会で最高位となる方はどなたでしょう?」


「大司教に決まっておるではないですか」


 その返答に対して、エリシアが抗議する。


「それは聖女がいない場合だけです。聖女が在位している場合、聖教会の最高位は聖女です。大司教でも他の神官でもありません。あなたもご存知でしょう? ですから、『禁忌』かどうかは私に指定権があります。あなたはその手続きをとっていない。それなのに、私を騙して禁忌魔法を使わせたのです」


「田舎娘ごときが、聖女だからと勘違いしおって」


「あなたこそ大司教の立場を勘違いしているんですよ。あなたが思うほどの権限はあなたにありません。しっかり王国法を学びなおすんですね」


 ユリウスがそう割って入った。


「魔法を使ったのは聖女エリシアではないか!」


 アウグストは興奮気味に反論する。しかし、その言葉は弱々しかった。


「本当に王国法に疎いようだ。あなたは自分が聖女を騙したことを否定していないようですが、これは詐欺罪に相当します。禁忌魔法使用の場合、騙した方にのみ、罪が適用されます」


 悪巧みにばかり熱中して、ユリウスの知識と知性を侮っていたのね、とエリシアは思った。


「……失礼。少し疲れた。座らせてもらえますかな」


 そう言ってアウグストは議論の最中にも関わらず着席した。


「もう罰は実行済みです。聖女の権限でね。禁忌神聖魔法にお詳しい大司教様であればお気づきなのではないですか?」


「まさか……」


 大司教は自らの体の異変にようやく気づいた。


「やはり神聖魔法にはお詳しそうだ。特に神聖魔法には。そうです。聖女が『ディバイン・パニッシュメント』を発動しました」


「なんてことを……平然と禁忌魔法を使うとは……それこそ大罪ではないか」


「聖女の判断で、『禁忌』の指定外としましたので、ご心配なく」


 エリシアはそう言って微笑みかけた。


 ユリウスが観衆のほうを向いて大声で宣言をした。


「大司教、および王族は、その生命力を割くことで、王国の繁栄を約束する。これから土地は肥えて作物が多く実り、王国民の能力は高まり、皆の生活は確実に豊かになる」


 観衆の中に、裁判の内容をはっきり理解できた者は多くはなかった。

 しかし、威張り散らしていた大司教や王族が断罪され、逆に王国の守護者たる聖女が断罪を回避し、王国民の信頼が厚いユリウスが王国民の繁栄を確約したことははっきり伝わった。

 観衆はそのことに歓喜の声を上げた。


「何をしおったのだ、ユリウス……」


 うなだれたアウグストを横目に、列席していた国王フリードリヒも弱々しくユリウスに詰め寄った。席を立った勢いで王冠が頭からこぼれ落ち、音を立てた。その顔や腕には、以前よりも極端に深い皺が刻まれていた。

 アウグストや王族の皮膚にも同じような特徴が出ているのが見てとれた。王妃や女性王族の者たちがそのことに気づき悲鳴を上げた。


 彼らは聖女の禁忌神聖魔法により、一様に老化していたのだ。


「不当な利益を得ようとした大司教と王族の方々に、神の裁きのもと、生命力でその利益を返還してもらったんですよ。つまり、僕とエリシアの失われた分の寿命を返還していただきました。心配しないでください。大司教と王族の皆様で少しずつ返還いただいているので死にはしません。

 罰を軽くしたければ、今後重い徴税などもしないことです。この魔法はあなた方が死ぬまで効果が続きますので。

 この魔法こそ禁忌である必要はないでしょう。正しい者が損をしないような魔法ですから」


   ※


 広場を包んだ歓声は、いつまでも続く嵐のようだったが、エリシアの耳にはどこか遠くで響いているようだった。

 自分の鼓動のほうが、ずっと大きく聞こえていた。


 断罪台から降りた瞬間、膝から崩れ落ちそうになった。

 終わったのねーーそう思った途端に、胸の奥で張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた気がした。


「エリシア」


 ユリウスが呼ぶ。いつもの、優しい声。

 その声だけで、エリシアはもうだめだった。


「……ユリウス、様」


 涙が出そうになるのを必死で堪えた。ここは人前で、私は聖女で、王太子妃で、泣くべきではない。泣いたら、また皆を、ユリウスを心配させてしまう。


 ユリウスは言葉を投げかける前にエリシアの手を取り、固く握った。


「帰ろう」


 少年のような笑顔をエリシアに向けていた。


 その笑顔が、エリシアの心の最後の堤防を壊した。


 声が喉の奥で詰まり、胸が熱くなる。

 溢れ出てくる涙で視界が歪んで、ユリウスの輪郭が滲む。

 この人と、これからも一緒に人生を歩んでいけるんだ。


「ごめんなさい……私、泣かないって……決めていたのに……」


「いいよ」


 ユリウスは、まるで当然のことのように言った。


「泣いていい。1年分、泣きたいだけ泣くといい」


 その瞬間、エリシアの胸に溜め込まれていたものが、雪崩のように溢れ出した。


「……怖かった……っ」


 呼吸が乱れて、言葉が途切れる。

 それでも言わずにはいられなかった。


「あなたを失って……あなたとまた会えて……それだけで十分だったはずなのに、またあなたと別れることになると思ったら……」


 ユリウスは何も言わず、エリシアを優しく、しかししっかりと抱きしめた。

 エリシアはその胸で泣き続けた。


 やっと息が整った頃、エリシアは顔を上げる。

 ユリウスの顔が、目の前にある。消えない。冷たくならない。


「……ユリウス様」


「うん」


「……私、言いましたね。あなたは恋人として、夫としては最低だって」


 それを聞いてユリウスは気まずそうに苦笑いした。


「あれは効いたよ」


 エリシアは両手でユリウスの頬に触れた。


「でもなぜあなたは変わってくれたんですか? あなたは絶対に王国のために犠牲になることをやめないと思って、それで婚約破棄までしようとしていたのに……」


 ユリウスが、少し気恥ずかしそうな、気まずそうな表情になった。


「実は……僕も君と一緒に『死に戻り』していたんだ」


「え?」


「たぶん、婚約の儀式のせいだと思う。あの儀式で禁忌神聖魔法の対象として固定された時点で、聖女である君の眷属のような扱いになったのか、とにかく君と僕の魂が結びつけられたみたいだね。それで一緒に過去に飛ばされたんだろう」


「そんなことが……」


「それとも君といた時間が幸福すぎたせいか、僕の執着がそうさせたのかもしれない」


「それでは、1年後のことまで覚えてらっしゃったのですか?」


 ユリウスは頷いた。


「死に際に、『僕の優しさを赦すな』って言っていただろう?

 君だけは、死に行く僕を最期まで献身的に支えようとしてくれた。その君を不幸にしてまで王国の犠牲になることは間違っていると思ったんだ。あの1年の君のおかげで、僕は変わったんだ。だからもしやり直すことができるなら、まず君を幸せにしなければならないと思った。

 そうしたら本当にやり直す機会をもらえるとはね。何でも願ってみるものだ」


 そう話すユリウスに、エリシアは優しい笑みを返した。


「それは私が願ったおかげですわ。私もユリウス様を取り戻すことを、本当に本当に強く願いましたもの」



 二人は、広場の喧騒から離れて歩き出した。

 背後の歓声は、もう遠くの音になっていた。


「光よ、彼と私の、時を進めたまえ」


 歩きながら、エリシアが古代魔法言語ルーンをぽつりと詠唱した。


「? 何の詠唱?」


「禁忌神聖魔法よ。あなたと私が同じ時を、ただ普通に過ごすためだけの」


 エリシアが冗談っぽく言うと、二人の体が淡いオレンジの光に包まれた。


「え? 本当に魔法なの?」


 驚いて二人で顔を見合わせ、笑った。

 ユリウスが死んだあの時に止まった時間が、1年前に戻って再び動き出したのだ。


「帰りましょう。……私の『眷属の』王太子様」


「はい、聖女エリシア。僕のご主人様」


 世界でいちばん優しい返事だった。

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聖女は王太子の優しさを赦さないーーだから婚約破棄します Vou @Vouvou21

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