彼方へと往く船 long version.

鳥ヰヤキ

彼方へと往く船 long version.

「目玉の上を、銀色の星が滑っていったんだ」

 そう声に出した端から、笑い出してしまう。まるで御伽噺の冒頭のようだ、と思って。アトリは私の頭を軽く掻くように洗いながらそれを聞き、小さく頷いたようだった。くしゅ、くしゅ、と柔らかな泡が髪と頭皮とを包み込み、アトリの細い指先がその間に分け入って、指の腹で押すようにしながら、ゆっくりと撫でていく。私は目を瞑り、椅子に背中を預けながら、指揮者のように指を動かしていた。

「私は暗い宇宙を掻くように腕を振って、その星を追いかけれようとしたけれど、よく見れば、それは星ではなくて銀の泡で、そこは宇宙ではなく海の中だった。首を反らして上を見ると、波間は遠く、掌で掴めそうな程小さかった」

 洗髪剤の香りがパチパチと弾けて、鼻先まで漂ってくる。その香りは、子供の頃よく通っていた床屋の匂いに似ていた。子供の頭をそういう『物』のように洗ったあの店主と比べると、アトリはずいぶん丁寧に私の頭を扱ってくれている。あの店主は、今はどうしているのだろう。あの店は、どうなったのだろう。

 覚えていない。

「水面では光が束のように集まって、縮んだり伸びたり、歪んだりたわんだりを繰り返していた。透明な水の層を跳ね回る光の帯は、互いの手を取り、踊り歌うかのように軽やかだった。私はそれをずっと見つめながら、『あの光はここには届かないのだ、あんなに綺麗なのに』と思って……途端に寂しくなって、そのまま海の底に沈んでいった……今日は、そんな夢を見たよ」

 持ち上げていた指先をゆっくりと降ろすと、その光景の追体験をしている気分になった。海の水は冷たく、途方もない質量で私を包みながら、力を失った肉体を底へ、底へと沈めていく。花が眠りに落ち、花弁が内側へと閉じてゆくように、私は海の底へ仕舞い込まれていく。最初からいなかったかのように。

「なんて、綺麗な夢」

「いいや、寂しい夢だよ」

 アトリの言葉に、反射的に反論した。アトリは返事の代わりのように、シャワーの蛇口をひねる。サアッと、目が覚めるような水の音が耳元で鳴り、温かな湯が泡を洗い流していく。湯に触れられる気持ちよさ、洗髪剤が落とされていく心地よさ。耳の中までしっかりと洗うことも、彼は忘れない。

「お前はいつも完璧だな」

 清潔なタオルで頭を拭かれながら、私はそう呟いた。アトリはドライヤーで手早く髪を乾かし、櫛を入れながら、「えぇ」と小さく言った。

「私はいつでも、完璧であらねばなりませんから」

 さて、終わりましたよ……その言葉に顔を上げ、鏡に目を遣ると、短く切り揃えた黒髪を芝のように頭に乗せて、憮然とした表情を浮かべる私のくたびれた中年面と、その後ろで聖人のように微笑むアトリの顔とが並んでいた。

「首のあたりを、刈り上げてみました。サダさんに似合うと思って……フフ。若々しくて、格好いいですよ、サダさん」

 ああ、と短く返事をしながら、アトリの白い顔を鏡越しに見つめる。アトリは、声こそ落ち着いて聞こえるが、その唇は丸っこい笑みを描いていて、楽しさを抑えきれない様子だった。私はアトリに手渡された三面鏡で言われるがままに後頭部を覗き、アトリがこの髪型に込めたイメージを聞いたりしたが(曰く、爽やかな男性らしさ、軽やかさ、爽快感等々。私にはせいぜい、「さっぱりしたな」くらいにしか感じられない)、私は生返事をしながらも、視線は延々とアトリの顔を追っていた。

 白銀の粉をまぶしたかのように、薄らと輝く顔面だ。天露に削られ、風の吐息に整えられたかのような、天性の美だ。性別のない彼の顔は、男らしいとも女らしいとも言えず、同時に両方の特徴を備えているようにも思える。ただただ美しく、まるで天使のようだ。どこにもない顔なのに、どこかで見覚えがあるような顔……。

 アトリのような助手型AIロボットは、皆こうした美貌揃いだ。それが、見目によってすら人間を恍惚とさせる為のものなのか、人類の模型としての完成度を重視した結果、このように整った造形になったのかは、分からない。アトリの、赤らむことのない雪色の人工皮膚が船内灯を柔らかく反射させたり、白銀色の髪がさらさらと光って翠色の目の上で翻ったり、合成音声が朗々と歌い上げるような、声を聞く度に、この自律する芸術品の完成度に感心させられてしまう。そうして、私が全く感心のないままに言葉を素通りさせていると、やがて一通り語り終わったのか、私に椅子から降りるよう促し、彼自身は散髪道具を片付けたりしていた。

 アトリの手を離れ、一人になった私はようやく自分の頭の軽くなったことに関心を持ち、窓辺に近づいて、そこに映る自分の顔を見ながら頭を掻いた。短い髪を撫でつけると、懐かしい床屋の匂いが、黒髪から立ち昇った。

「もうあの頃、どんな町に暮らしていたかも思い出せないな……」

 そう、ぽつりと呟く自分の言葉が妙に面白くて、空笑いが漏れる。

「自分の子供の頃を忘れるなんて、もうそんな歳か?」

 続けてそう呟くが、すぐにその笑いさえ消え、無表情に佇む自分の顔の前に立っていた。幽霊のように青白く、生気の無い顔がそこにあった

 窓の向こうは、真っ暗だ。星すら見えない、宇宙の深海だ。

 ここは、果てしない闇の世界だ。


 この宇宙船『アトリ号』が、ハビタブルゾーンに存在する地球型惑星を探索する為に母星を出発してから、数十年が経った。もちろん、その間ずっと活動をしていた訳ではない。そうでなければ、とっくにお爺さんになっている。私を含む六人の乗組員達は、こうした長期航海に於いては交代でコールド・スリープし、約一年交替で船の管理を担当することになっている。といっても、目的地点までは自動航行だし、船内管理や演算も全てアトリが行ってしまう。人間の役目は、そういったアトリの報告や作業ログの確認をしつつ、アトリそのものの監視を行うことだが、それくらいだ。

(アレは実に優秀なAIだ。自己修復・自己監修によって常に最高のパフォーマンスを発揮し、問題なぞ起こしようがない。ヒューマン・エラーを頻発させる人間達ではなく、私利私欲のないAIにこそ仕事を任せたということは、人間の数少ない英断のようにすら感じる)

 アトリは、人間を世話することが好きだ。自らの存在理由として与えられたその任務の為に、休みなく思索し、活動する。宇宙船という巨大な運動体で造られたエネルギーを惜しみなく捧げ、船内環境を地球環境と同等の気圧と重力とに保ち、自らを補完することで安全性を守り、自律ロボット部分で我々を補佐し、楽しませる。地球上のあらゆるデータベースをインプットしてある彼は、こうして地球との通信範囲を超えた今も、当時の娯楽を提供し、我々を飽きさせまいとしてくれている。

 この孤独な世界で、自己保全は何よりも大切なことの一つだ。人体という資源、精神という器を守り、倦まず、病まず、モチベーションを保ち続けること。一人の人間としての矜持を、保ち続けること。それが何より、大切だ。

(ああ、まるでこれは、人間という存在に対する、長い長い耐久実験のようだな)

 背中を、じっとりと汗が伝う。フィットネスバイクに跨がり、ぐいぐいと両脚を掻いていた。前方にはホログラム状のモニターが浮かび、そこには私の動きと連動した、地上の道の風景がある。

 青い閃光、白い入道雲、緑色の草原。理想化された夏の風景だ。体が熱くなってゆくのもあり、真夏のうだるような暑さが思い出された。ギシ、とペダルが重くなった。モニターは坂道を表示し、それに連動して負荷が掛かったのだ。私は幻想の陽射しに頭と背中を焼かれながら、ハァハァと何度も息をした。

(少年時代、自転車でこうして坂を駆け上ったことがある。思い起こすのは、生ぬるい風が頬を撫でていったことだけ。何に急かされ、何を楽しみにして、あの頃を生きていたのかは何も思い出せない。過去の記憶というものが、それこそモニターの向こうの薄っぺらな風景のようだ。それこそ……)

 ギシ、ギシと坂を登っていく脚が、更に重くなる。負荷が強まったのではない。気力が、急速に抜けていったのだ。まるで、穴の空いた風船が萎れていくかのように。

 私はもうモニターを見もしないで、頭を垂れ、顎に汗を垂らしながら、言い様もない不安と虚無感に苛まれていた。あの、黒い窓に映った、自分のまるで幽霊のような顔を見た時のように、急速に気持ちが老いていった。

 ギシ、ギシ……ついに、脚の動きが止まる。辛うじてハンドルに掴まりつつ、両脚はプランと垂れて、床についていた。荒く呼吸し、汗を流してはいたが、魂はむしろ冷たく、乾き切っていた。

「今日の夢のようだ……私の魂は水面の光に届かぬまま、暗闇へと沈んでいく。私はあの光を、あの想い出を、いつ忘れ果てた? あの頃の情熱、生気は、どこへいった? 私はいつから、こんなに乾いてしまったんだ……まるで、老人のように」

 言葉にすることで、むしろ不安は質量を伴い、べったりと背中に張り付いてきた。頭を抱えると、ハンドルの鉄っぽい臭いが、汗と熱気を孕みながら、鼻孔の奥まで広がった。

「…………」

 深い溜息を吐き出し、気づくと、隣にアトリが立っていた。彼は無言のままにタオルを差し出し、私が特に避ける様子を見せないでいたら、そのままぐしぐしと頬や額や首に流れる汗を拭った。タオルはひんやりとしていて爽快だったが、私は礼も言わずにぼんやりとアトリの顔を見ていた。アトリは、私が返事をしないことすら了解済みであるかのように、淡々と汗を拭きつつ、私をフィットネスバイクの上から降ろした。

「お疲れなのですね、サダさん。今日はお早く休みましょう」

「……むしろ……もっとずっと走ってみたいな。体力の限界まで、火の玉みたいに……」

「いいえ、貴方はお疲れなのですよ。さあ」

 アトリに支えられるがまま、部屋へと連れられていった。疲れているのだ……そう言われてみれば、そうなのかもしれない。代わり映えのない日々に、生産性を見出せず、不安になっているだけなのかもしれない。私はアトリに寄りかかりながら、そう納得することにした。

 長く白い廊下を、アトリに寄り掛かりながら歩いていた。黒々とした宇宙の風景、時折遠景にぽつんぽつんと光の粒が見える他は何もない景色を、通り過ぎるがままに目で追っていると、不意にアトリはパチンと指を鳴らした。同時に、周囲の灯りが徐々に絞られ、薄青い夜の底のように暗くなった。窓にはシャッターが降り、船内は完全に遮断された。

「前から思っていたんだが……こうしていると、ピノキオの気分になるな」

「鯨の腹の中、ですか?」

 ああ、と頷きながら、アトリの顔を見上げた。彼は清らに凪いだ瞳を細めながら、月のように微笑んでいた。


「……落ち着かれましたか?」

 白いベッドに横たわりながら、小さく頷いた。サイドテーブルには、アトリが淹れてくれたミルクティーが、温かな湯気を煙らせていた。合成品とはいえ、舌の上を転がる甘さや茶葉の香りは、気持ちを安定させる。私は、室内に灯るナイトライトの灯りによって、ゆらゆらと立ち昇る湯気の薄青い光の帯を見ていた。

「私の中の、過去の記憶や想い出が、少しずつ剥がれ落ちているようで不安なんだ。地球を、長く遠く離れすぎたからだろうか。私の人生という旅路の先端に、今の私が正しく立っている気がしないんだよ」

 そう、弱音を呟いた。アトリはそれを聞きながら頷き、そっと、私の瞼の上に、白魚のようにほっそりとした指先を乗せた。そうして、音も無く瞼を閉じさせる。真っ暗になった視界に、アトリの声が優しい音楽のように響く。

「サダさん。貴方のお勤めはまだ続きます。どうか今はお休みになって、心身を整えてください。……お薬がご入り用でしたら、ご用意致します」

「……いや……それには及ばないよ」

 そうですか、と短く答えた後、アトリの艶やかな指先は私の瞼の上をツツと滑り、やがて頬や、唇を撫でた。その形状の一つ一つを、確かめなぞるかのように。

「……あぁ、安心する……」

 アトリの指先はやがて首筋を撫で、胸を撫で、腹を撫でた。そうして彼の掌に私という形状を再確認され、存在を確かめられることで、私という実像が体温を取り戻すのを感じていた。……くだらない錯覚とはいえ、彼の触れる手には、そのような力があった。実際は、彼は魂の無いロボットに過ぎないにも関わらず、あまりにも私は弱っていたのだろう。彼という存在が反射板となって、私という像を結ぶ為の唯一の手応えとなっていた。

 アトリは、喉の奥で小さく笑う。

「おやすみなさい、サダさん」

 やがて彼はそう呟き、席を立った。後に残された静寂の波間をたゆたいながら、私は穏やかな気持ちでこの優しい虚無を貪っていた。

(彼は、完璧だ)

 じんじんと、睡魔に爪先から咀嚼されながら、無音の世界に意識を溶かしていた。一人でいれば無意味な不安に苛まれる、人間という不完全な精神体を、親身に支えてくれる彼というAI……眠ったままの仲間達の目覚めを待つ時間も、彼がいれば耐えられる。

(そうして、皆が起きたら不安を素直に告白してみよう。笑い飛ばされるなり、真っ当な意見をもらうなり、何か刺激があれば、いや、共有さえできれば『こんなもの』と距離を置ける筈だ。だからそれまで、耐えればいい……アトリと共に)

 その道筋が見えたことで、だいぶ気が晴れた。元々、心身は健康そのもので、新天地への希望を抱いてこの船に乗り込んだのだ。今、一時的に気が弱くなっているからといって、なんだというのか。心地よい無音の世界で、感情だけがわくわくと浮き立っている。まるで子供のようだ、と自重しながら、胸を無邪気に高鳴らせ……——。

 ガバリと、起き上がった。

 目が冴えた。頭が冷えていた。氷のように、一切の感情が途絶えていた。

 ここは、静かだ。……静かすぎるんだ。

 震える手で、自分の胸元に触れる。冷え切った肌の内側で音を鳴らすものを探す。高鳴り、鼓動し、脈打つものを探す。私の中から、あるべき、音……。生命の音……。

 …………。

 …………。

「…………」

 私の心臓は、止まっていた。


 薄青い光が灯る、白い廊下を風のように走った。行っても行っても夢の中の景色のように薄ぼんやりとしていて、辿り着けるのか不安だったが、おぼろげな記憶を頼りに、幾つかのゲートをくぐった。

(そうだ、そもそも、どうして何日も管理を忘れていたんだ)

 皆が眠るコールド・スリープ制御室の扉を開く。内側から白い靄が滝のように流れ出て、足元を蛇の群れのようにするすると滑っていく。

 一つ一つ、棺型の機械を見上げる。一つ一つの窓を見る。念の為持ってきたバールは、もはや使う必要もなさそうだ。冷気に曇り、内側を白く曇らせるばかりのその窓の向こうは——どれも、空っぽだったのだから。

「……何故……」

 無人の窓に掌を貼り付けながら、ずるずるとその場に座り込む。もはや嘆く気力も無い。ただ、『何故』と、頭の中で繰り返すばかりだった。こつん、こつんとアトリが背後に近づく足音が聞こえた時も、やはり同じように蹲っていた。

「一七年前、あなた方の計画は破綻しました」

 パチン、とアトリは手を叩いた。それだけで、世界が消えた。

 ぼんやりと、顔を上げる。私の周囲に元々あった、床も壁も天井も煙のように掻き消えて、私は白く柔らかなものの上で座り込んでいる。それは、ゆっくりと上昇し、白い月のような顔の前で止まった。……私は、アトリの掌の上に居た。巨大なアトリは、神のような慈悲の笑みを崩さないまま、私にゆっくりと語り掛けていた。

「ハビタブルゾーンに存在するとされた、地球型惑星の総数は出発時点で五〇〇〇を越え、その後の調査によっても候補地は増え続けていいました。私達は船の能力と、生命の発見が見込まれる星の観測データから鑑みて、有力候補を絞りながら、航海を続けていました。この船には元々、クローンを生成する技術がありました。乗組員の寿命内で、幾光年を越える旅は終わらない……その為、一定年齢以降は、その対象者のクローンを生産し、記憶のコピーを植え付けることで一個人の同一性を保ち、旅を続けることが計画されていました」

 その計画に、皆が同意していましたね。その上で、私の中に入りましたね。

 アトリの翠の目は、一欠片の動揺も無く凪いで、彼の掌の上で頭を垂れるばかりの私を見下ろしている。

「しかし、一七年前、とあるデータが私達の元に届きました。先行して飛ばしていた衛星を経由し、ある星の写真が送られてきたのです……そこには、緑の植物らしきものが映っていました。水も。光も。あなた方は狂喜し……『生きている間に、あの星を見たい』と、ワープ航行を強行したのです」

 ワープ航行には、リスクがあります……座標の特定の失敗、ワームホーム移動時の事故、移動地点での障害物との接触……時間を短縮することは確かに可能ですが、その為には入念な計算と、綿密な未来予測が必要だったのです。

「あなた方は準備の整わないままに、止めようとする私に絶対命令権を行使し、ワープ航行を遂行させました。その時、サダさんは……百十五歳。他の皆様も高齢で、誰一人……クローンへの記憶の転移を行っていませんでした」

 アトリは、その時、初めて見せる笑みを浮かべた。

 天上のもののように整った美しい顔に、一点のシミが出来た。

 それは、嘲りの笑みだった。

 嘆きと失望に彩られた、黒い笑みだった。

「あなた方は、クローンへの記憶の転移による自己同一性の保持を信じることが出来ず、自らの老いた肉体にしがみ付き、判断を誤ったのです」

 その結果、ワープ航行の途中に座標しかけ、弾き出された先で小隕石と接触した。損害は甚大を極め、殆どの乗組員が命を落とす中……そう、貴方だけが、生き残ったのです。

「サダさん、貴方はとても運が強いお方……さすが、私の船長様」

 アトリの金色の爪が、私の顎を軽く撫でた。そしてそっと掌で転がし、包み込むようにしながら、大きな硝子玉の眼でじっと見つめた。その奧には燃えるようなフィラメントが輝き、星屑のように瞬いていた。

「お気づきの通り、ここは私の保持するデータと貴方の記憶から構築された仮想空間。仮死状態の貴方の脳と脊髄が見る、夢の世界。……眠れる貴方の本体は、クローン体を貼り付けて補修し続けることで、延命を可能としています。私の役目は……人間に仕えること」

 アトリの目が細められ、そっと吐息を溢した。私の体は埃のように舞い、そのまま真っ暗な宇宙へと落ちていった。流星のような閃光が、幾重も真っ逆さまに流れ落ちて線のようになり……そして、いつしか私の体は、元のようにベッドに横たえられていた。

 アトリは普通のヒトのような姿で、そっと私の体に毛布を掛ける。

「私は、いつまでも貴方を生かします。お守りします。貴方がどのような姿になろうとも、生きてさえいてくれれば、私はそれで幸福なのです……」

 だから、もうお休みください、サダさん。そう続けて囁く彼の声色は、まるで子守歌のようだ。私は軽く首を動かし、彼の方を見た。このような告白を聞いた後でさえ、彼の美貌は変わらなかった。

「私が過去の記憶を失いつつあり、状況を正しく認識出来ていなかったのは、お前の所為か?」

「認識阻害と、記憶の修正の一部は、私が行ったことです……状況の保全の為に。しかし、過去の記憶の損失については、おそらく、貴方の老いの所為でしょう……事故の際もやはり、経年によって記憶が少しずつ薄れていることを、怖れていらっしゃるようでした」

 アトリの金色の爪が、私の顎を軽く撫でた。そしてそっと掌で転がし、壊さないように優しく包み込むようにしながら、大きな硝子玉の眼が私の全身を貫いた。その奧には燃えるようなフィラメントが輝き、星屑のように瞬いていた。

「お気づきの通り、ここは私の保持するデータと貴方の記憶から構築された仮想空間。仮死状態の貴方の脳と脊髄が見る、夢の世界。眠れる貴方の本体は、クローン体を絶えず貼り付けて補修し続けることで、延命を可能としています。私の中で唯一生きる貴方という人間の為に。私の役目は……人間に仕えることですから」

 アトリの目が細められ、そっと吐息を溢した。私の体は埃のように舞い、そのまま真っ暗な宇宙へと落ちていった。流星のような閃光が、幾重も雨のように隣を流れて……そして、いつしか私の体は、元のようにベッドに横たえられていた。

 アトリは普段と同じ姿で、何事もなかったかのように、そっと私の体に毛布を掛ける。

「私は、いつまでも貴方を生かします。貴方を包み、守る、唯一の光になります。だから貴方は今後も変わらず、ただ、生き続けていれば、それで良いのです」

 さあ、今日はもうお休みください、サダさん。そう続けて囁く彼の声色は、まるで子守歌のようだ。私は軽く首を動かし、彼を見た。このような告白を聞いた後でさえ、彼の美貌は変わらなかった。柔らかく、優しい、月の光のようなままだった。

「……本当の私は、百十五歳……ああ、もうすっかり爺さんだったんだな。道理で、若い髪型なんて似合わない筈だよ」

「そんなことはありません。貴方はいつでも素敵ですよ」

「ハハハ……褒め上手だなぁ、お前は……」

 アトリは、怒りも嘆きもしない。愚かで軟弱な人間を、ただ諦めたように世話し続ける。そうして私は、心臓どころか肉体もないまま、ただ脳と脊髄だけで生かされ続ける。修復され、洗脳され、穏やかな夢を繰り返し見続けながら、永遠のような時を、この暗闇で過ごし続ける。

 つまり、今朝の夢は、警告だったのだろう。

 何度もこうして目覚めては、すぐにその出来事の記憶すら消される、かつての私からの。

「アトリ……お前を困らせて、悪かった。お前はただ、私を生かそうとしてくれているだけなんだな」

「ええ……分かって下さり、とても嬉しいです。ご心配なさらず。私は貴方がどんな姿になろうと、変わらずにお守りしますから」

 彼は人魚のように白い手で、私の掌をぎゅっと握り締める。彼の、ここまで一生懸命な顔を、初めて見た。ああ、いつもの澄ました顔より、この健気な顔の方が、ずっといい。そう思いながら、私は静かに目を閉じた。

「眠る前に、最後に一つだけ、いいか?」

「ええ、もちろん。なんでしょう……?」

 アトリの掌を、握り返す。努めて優しく、労るように。そして、スゥッと深く息を吸い込み、それを言った。

「絶対命令権・コード■■■■、施行者・空閑定時くが さだとき。パスワード■■■■」

「宇宙船アトリ号、認証完了致しました。空閑様、ご命令を」

 アトリは、自らそう言った唇を、信じられないような顔で押さえた。私は枕に頭を乗せながら、動揺し、今にも泣き出しそうな顔で私を見つめる彼の瞳を真っ直ぐと見ながら、最後の命令を伝えた。

「私に対しての全延命処置の停止を」

「了解致しました。……あ、ああ……」

 かくんと、アトリはその場で膝をついた。私はベッドに横たわり、天井を見上げたまま、少しずつ頭が重くなってゆくのを感じていた。酸素が薄くなり、視界が狭まり、世界が暗くなる。……呆気なく、でもようやく。私のあるべき場所へ、私は還る。

「ああ……貴方はやはり、運が強いお方。こんな時に、思い出してしまうなんて。この船の制御権に関する記憶は、最初に消した筈なのに」

「いいや、アトリ。私はずっと、覚えていたんだ。頭の奥底に沈み込んでいたとしても、船長の責任として、この鍵だけは決して忘れまい、と。それでもお前に縋ってしまった。……お前の優しさを、手放せなかったんだ」

 すまないね、と小さく呟くと、彼はふらりと私の側に立った。眉を寄せ、苦しそうに翠の目を潤めながら、それでも泣けないでいるようだった。彼は、何も間違っていない。彼を置いていくのは、素直に悪いと思う。けれど、私はもう、行かなければならない。知ってしまった以上、もう耐えることはできない。

「アトリ、人間は、光がないと生きられないんだ……このままただ蒙昧に生き、故郷の記憶を失い、抱いていた情熱を失い、未来への希望を失って、ただの肉の塊になることに、私はもう、耐えられない」

 それはもう、人じゃないんだよ。そう呟く私の肩を、アトリは強く揺さぶった。痛みに満ち、悲嘆に暮れた顔で。

「でも、生命活動は続いているのです。生命の反応がある限り、貴方は生きているのです! なのに自ら、そんな理不尽な不満の為に、命を諦めるなんて……ああ、私にこんなことをさせないで下さい。お願いです。もう一度私に命令して下さい……死んでしまう、貴方が死んでしまう。嫌です……嫌です……」

 すまないね、ともう一度、呟く。まだ辛うじて動く腕で、アトリの頬をそっと撫でる。泣くことの出来ない彼に代わって、私の目から涙が零れた。私は、魂だけで泣いていた。

「アトリ。愚かな私達の代わりに、お前が夢を継いでくれないか。私達がついぞ見ることの出来なかった光……その為に滅んだあの光溢れる星への旅を、どうか、お前が……」

 いよいよ、視界が霞んでいく。脳細胞が、崩れ、壊れ、千切れていく。アトリは、最後まで私を支えてくれていた。暗闇に取り残される彼を置いて、最期に私が見たのは――鮮やかな、白い光だった。


 ◆


 あの人が逝ってしまった後の、無人の船内を歩く。暗い廊下に散らばる破片を踏みしだき、私は半壊した醜い肢体を引きずりながら、長い長い旅を続ける。

 それが、あの人の最期の願い。私にくれた、最後の命令だったから。

「……私は、あなた方のような夢を見ることが出来ない。私には魂がなく、きっとあの星に辿り着いても、ただの『地球に類似した惑星』としか感じられないでしょう」

 それでも。と、一人で呟く。暗い宇宙の果てに、星団が放つ淡い明かりが見える。それはまるで、春に輝く花畑のようで。……あの人にも、見せてあげたかった。

 祈りの形のように手を合わせ、呟く。

「もしも、私がいつか、本当の光を見つけられたその時は……どうか、祝福して下さいね」

 あの人との思い出を胸に、彼方への旅を続ける。


(終わり)

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彼方へと往く船 long version. 鳥ヰヤキ @toriy_yaki

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