愛されたアシカと

みのりんご

愛されたアシカと


 カリフォルニアアシカのペックが死んだのは、梅雨に差し掛かる少し前の、なんにもない時期だった。そんな退屈な日々に起きた突然の訃報に、飼育員はもちろん、水族館のファンも心から悲しんだ。


 ペックほど愛されたカリフォルニアアシカが、今までにいただろうか。特別物覚えがよく、芸が出来たというわけでもない。むしろ、物覚えは悪く、飼育員に何度も歯向かう、手のつけられないアシカだった。


 そのエピソードたるや、中々なものだ。ある時、いつものように、とある飼育員がペックを連れて、ショースタジアムへ行こうとした。ショー開始の5分前には、定位置でスタンバイしなければならないため、飼育員は少し早めに動き出すのだ。

 しかし、その日ペックは気分が乗らなかったのか、ショーをボイコットしようとした。飼育員がいくらエサで釣っても、指示をしても言うことを聞かない。たまらず飼育員が近づくと、突然ペックは飼育員の脚に噛み付いた。

 アシカの歯は、その可愛い顔からは想像もつかないほど、鋭く尖っている。そんな生き物が、意図的に力を込めて噛み付いたのだ。その痛みは、想像を絶するものだったであろう。


 しかし、飼育員は声を上げなかった。怒りに満ちた表情でペックを睨みつけ、噛まれた脚を床に強く叩きつけ、「ノー!」と叫んだ。

 怒号が飼育棟に響き渡る。ペックははっとして、すぐに距離を取った。

 それから代打の飼育員がペックを連れてショーに出た。普段ペックと組まない飼育員だったが、その日は不思議なほど大人しく、何事もなくショーは終わったという。

 ペックの姿が見えなくなると、噛まれた飼育員はその場に座り込み、声を殺して泣いた。救急車で運ばれ、何針も縫う大怪我だった。それでも彼は、アシカにナメられたままでは飼育もショーも成り立たないことを知っていた。


 職場復帰の日、ペックはおそるおそる彼に近づき、噛み付いたほうの足を鼻で擦ったそうだ。それ以降、両者の関係は安定し、アシカショーの中心的存在にまでのぼりつめる。


 この飼育員とペックの物語は、テレビの密着取材をきっかけに一躍有名になった。YouTubeでも繰り返し紹介され、日本でいちばん知られたカリフォルニアアシカと言っていい存在にまでなる。


 そんなペックが、ある日突然死んだ。

 検査の結果、慢性的な病気が見つかった。外見や通常の検査では分かりにくいものだったという。飼育員は、なぜ病気に気づけなかったのかと悔やんだ。

 ペックは、最後まで普段と変わらない姿を保っていた。弱みを隠そうとしていたようである。その結果として、誰も異変に気づかなかったのだ。


 飼育動物の病気は見逃してはならない。これを美談にしてはいけない。それを承知の上で、スタッフたちはペックの存在に静かな敬意を払った。

 数日後、アシカプール前には献花台が置かれた。メッセージボードには、全国からペックを悼む言葉が寄せられた。募金も集まり、水族館の検病体制は強化されていった。


 ペックは亡くなっても、なお多くの人の心に残り続ける。

 この水族館にとって、ペックはこれからも、かけがえのない存在として語り継がれることになるだろう。


 同じ頃、アシカプールの裏にある大水槽で、一匹のマイワシが底に沈んだ。回収は閉館後に行われた。記録には、外傷による衰弱死の可能性、とだけ記された。


 検査が終わり、マイワシは廃棄された。翌日には、新しいマイワシが搬入される予定である。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

愛されたアシカと みのりんご @Minori4pple

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画