第34話:湖上に顕現せし水の精霊


 船上から見渡す限り、果てしなく広がる湖の水面が、突如として波紋一つなく静まり返った。まるで時が凍りついたかのように、風も音も消え失せ、世界が一瞬で沈黙に包まれる。だがその静寂の中、水面から天へと伸びる無数の水柱だけが、逆巻くような勢いで水を吸い上げ続けていた。重力を忘れたかのように、蒼く澄んだ水が空へと昇っていく様は、まるで異界の儀式のようだった。


 そして…

 船が突然、軋むような音を立てて止まった。船体はまるで見えない鎖に縛られたかのように微動だにしない。


「あれ!?う、動かないぃいいいい!!」

「おい!!アンポンタン!!何してやがるゥ!?」


 ケビンは舵を何度も回してみるが、手応えはない。


「寄越せェ!」

「あ、はい!!」


 痺れを切らしたように、オーグがケビンから舵を奪い取る。明らかに体格が異なる2人、明らかにケビンよりもオーグの方が筋力はありそうだ。


 しかし…


「だぁぁぁぁっ!!」


 舵は微動だにしない。

 オーグは観念すると、すぐに叫ぶ。


「おィ!姉御ォ!!船が止まったぜェ!!」


 船上で響き渡る声に、甲板の上で、アニーが不安げに空を見上げ、ミリアリアは怪訝な顔を示す。


「……何かが、海の底で動いてる」


 そして、銀髪を風に揺らしながら、水面を覗き込んでいるメグーが呟いた。


「何か?」


 メグーの声に、アニーが一緒に船底を眺める。


「姉御ォ!!」


 ミリアリアから返事がないため、オーグは再び船長のミリアリアを呼ぶ。


「分かっておる」


 ミリアリアの声は静かだったが、その瞳には鋭い光が宿っていた。彼女は風の魔石を見上げる。帆に取り付けられた魔石は淡く脈打つように光を放ち、今もなお風を生み出している。つまり、船が動かない原因はそこではない。何か、もっと根源的な力がこの船を縛っている。


「アニー!」

「はい?」


 ミリアリアがアニーに何か指示をしようとしたその瞬間、水面が不自然に盛り上がった。


 波ではない。まるで巨大な生き物が海中から浮かび上がろうとしているかのように、うねりながら天へと伸びていく。その水柱はやがて人の形を取り、透明な輪郭が空に浮かび上がった。それは、目も口もないのに、確かにこちらを見下ろしていると感じさせる存在だった。


「水の精霊……!」


 ミリアリアが小さく呟いた。彼女の瞳には、脅威を目の前にした戦慄のようなものを感じる。


 水の精霊が姿を現した瞬間、空気が変わった。

 天へ昇る勢いの激しさを増していた水柱がピタリと消え去り、風さえも止まったかのようだった。


 だが次の瞬間、精霊が腕を振ると、海面が裂け、鋭利な水刃が甲板を襲った。


「来るぞ!」


 オーグが叫び、拳を振るって水刃を弾く。

 だが一撃では止まらない。水刃は次々と生まれ、まるで意思を持つかのように船上の人間を狙ってくる。ミリアリアは剣を構え、魔力を込めた斬撃で水刃を切り裂く。


「船が動かない原因は水の精霊だ!皆の者!!良いか!?」

「ま、待ってください!精霊と戦うんですか!?」


「無論だ!この場を切り抜ける術は他にない!!」


 私はミリアリアさんの言葉に頷くと、グリーの背に乗った。

 そして、私を乗せたグリーが甲板の端から飛び立ち、空中で旋回しながら精霊の周囲を警戒する。


「姉御ォ!!」

「む!!!」


 水の精霊から再び水刃が放たれる。

 先ほどの数とは比べ物にならず、空を覆うほどの数だ。


『…ボウヤの仇』


 降り注ぐ水刃が風を斬る音に紛れて、深い怒りと悲しみを感じさせる声が響いたような気がした。


「みんな!!」


 船から飛び出した私は、グリーの背から、無数の水刃が船に降り注ぐ光景を目の当たりにしていた。

 しかし、そんな水刃の雨も、薄い銀色の膜に阻まれて止まる。


「バリア!!」


 メグーちゃんだ。

 彼女のコンテクストマジックによって、無数の水刃は船に到達することなく、悉くただの水となって薄い銀色の膜の前に、ただの水滴となっていた。


 攻撃を防がれた水の精霊は、その顔を模った部分に表情はないのだが、悔しそうな雰囲気を醸し出していた。


 そんな時だ。

 再び、声が聞こえた。


『プレイヤー如きが…水の性質を操る…そんな馬鹿なこと…ありえない』


 やはり…

 聞こえる。精霊の声が…悔しそうな声だ。


 水の精霊が再び天へと腕を振り上げる。

 再び水刃を雨のように降り注がせるつもりだ。いくらメグーちゃんでも、そう何度も耐えられるものじゃないかもしれない。


「グリー!!」

「クルルぅ!!」


 グリフォンが空中から急降下し、精霊の背後を狙う。


「夜空に浮かぶは深紅!世界を赤く染め上げよ!紅の夜に誇れ!赤月花!!


 私はスキルで赤月花を生み出す。

 魔力を吸い取る植物ならば、精霊にも有効かもしれないと考えた。


 しかし、その水の身体は霧のように形を変え、空で舞う赤月花は空を切った。


「っ…!」

「クルル!!」


 水の精霊は目障りと言わんばかりの様子で、巨大化させた腕を振り払う。

 グリーが翼を広げて急停止し、続けて一気に加速する。その緩急によって、水の精霊の狙いから外れ、振り払われた腕を見事に避けた。

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2025年12月31日 18:30
2026年1月1日 12:10
2026年1月2日 21:10

剣と魔法、魔王と勇者、神と星、銀の少女と料理のファンタジー @tototete

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