SCENE#182 終わらないCMに苛立つだけの遭難者 Stranded with Endless Ads

魚住 陸

終わらないCMに苛立つだけの遭難者

第一章:灼熱の蜃気楼 ―― 出現した巨大な虚無








そこは、神が色彩の配合を誤ったかのような、果てしない灰色の砂漠だった。男は、ひび割れた唇から漏れる、もはや音にもならない呻きを吐き出しながら、熱を帯びた砂丘を這っていた。数日前、彼が乗っていた小型飛行機がエンジン故障で墜落したとき、男は生き残ったことを「強運」だと思った。しかし、影一つないこの不毛の地で、水分を失い、細胞の一つ一つが干からびていく感覚を味わう今、その考えがどれほど浅はかだったかを痛感していた。








「水……、水を……」








視界は熱に歪み、黄金色の砂が波のようにうねって見える。意識が混濁し、死の淵へと滑り落ちようとしたその時、男の目の前に、あり得ないはずの巨大な「影」が立ちふさがった。それは岩場でも、救助隊のシェルターでもなかった。高さ十メートル、幅二十メートル。地平線を遮るようにそびえ立つ、超高精細の4Kデジタル・サイネージだった。








砂漠の真ん中に、電源もケーブルもなしに突如として現れた巨大な壁。男はそれが死の直前に見る、脳が見せる最後の幻覚だと思った。しかし、その巨大なスクリーンがパッと点灯し、静寂を切り裂くような大音量とともに映像が流れ出したとき、男の鼓動は恐怖と困惑で跳ね上がった。







「……なんだ、これは。死後の世界は、こんなに騒がしいのか…」








流れてきたのは、救助を呼ぶためのメッセージでも、神の啓示でもなかった。それは、どこか懐かしく、そしてこの世で最も無価値な、最新型スマートフォンのプロモーション映像だった。超薄型ボディが画面の中で優雅に回転し、見たこともない鮮やかな色彩のアプリケーションが起動する。その光は、男の乾ききった網膜を容赦なく焼き、文明という名の凶器となって男に襲いかかった。









第二章:琥珀色の挑発 ―― 砂の王とビールの魔女







サイネージから放たれる強烈なLEDの光は、砂漠の残酷な太陽さえも凌駕するほどの輝度を持っていた。男は目を細め、その巨大な輝きを見上げた。砂の粒子が画面に反射し、まるで宇宙から降ってきたモノリスのように見えた。







映像が切り替わる。氷点下でキンキンに冷やされたジョッキに、琥珀色の液体が勢いよく注がれるカット。シュワシュワと弾けるきめ細やかな泡、ジョッキの表面を伝い落ちる、宝石のように美しい結露の雫。一滴の水分さえ貴重なこの地で、それは神への冒涜に等しい光景だった。







『――この一杯のために、今日を生きている。新発売、プレミアム・極ドライ。今すぐ、お近くの店頭へ!』







画面の中のモデルは、最高に幸せそうな表情でビールを喉に流し込み、「プハァッ!」と、魂を解放するような吐息を漏らした。その喉を鳴らす音、喉仏が動く様、そして弾ける炭酸の音響は、スピーカーもないはずの砂漠に圧倒的なサラウンドで響き渡り、男の耳を、そして干からびた喉を執拗に愛撫した。

男は、自分の口の中に残ったわずかな粘り気のある唾液を飲み込もうとしたが、喉が癒着したように動かない。








「……ふざけるな。殺す気か、お前は…」







男は砂を掴み、全身の力を振り絞ってスクリーンに向かって投げつけた。砂は無機質なガラス面に当たり、パラパラと虚しく落ちるだけだった。モデルの笑顔は変わらない。砂漠のど真ん中で死にかけている男を嘲笑うかのように、彼女は二杯目のビールを注文し、再び美味しそうに飲み始めた。画面の向こう側の世界は、あまりに潤い、あまりに冷たく、そしてあまりに残酷だった。










第三章:不滅の電子回路 ―― 孤独なツッコミ







「おい、聞いてるのか! 誰だ、これを設置したのは! 救助を呼べ! 水を持ってこい!」







男は、残された最後の体力を振り絞り、スクリーンに向かって叫んだ。返答はない。映像は淀みなく、冷徹なまでに正確なビットレートで流れていく。

最新型高級車のCM。流線型のボディが、雨に濡れた都会のアスファルトを優雅に走り抜ける。タイヤが弾く水飛沫さえ、男にとっては憧れの対象だった。

次は最新の保険。幸せそうな家族が、青々とした芝生の上で笑い合っている。「もしもの時の備えは万全ですか?」というナレーション。








「ああ、万全じゃないさ… 見ての通り、俺は今、人生最大の『もしも』の中にいるんだよ…」







男は、スクリーンの裏側に回り込んでみた。そこには何もない。配線も、基盤も、バッテリーも。ただ、虚空に光の板が不自然に浮いているだけだった。男は拳でスクリーンを殴ったが、指の骨が折れそうなほど硬く、傷一つ付かない。







「遭難したんだぞ。死ぬんだぞ、俺は。……なのになんで、柔軟剤の香りの種類を説明されなきゃならないんだ!」








苛立ち。それは、絶望が男の精神を完全に支配するのを防ぐ、唯一の防波堤となった。男はスクリーンの前に座り込み、流れてくるCMの一つ一つに毒づき始めた。








「その洗剤、泥汚れが落ちるって言ってるけど、ここには泥もねえよ、砂だけだ!」








「老後の備え? 俺に老後なんて来ねえよ、あと数時間の命だ! 今すぐ解約して水をよこせ!」







ツッコミを入れている間だけ、男は自分がまだ「社会の一部」であることを思い出せた。孤独が男を食い尽くす前に、広告のノイズが男を現世に繋ぎ止めていた。それは、狂気という名の唯一の正気だった。










第四章:ネオンの夜 ―― 放射される絶望







太陽が沈み、砂漠に急速な冷気が訪れた。昼間の猛熱が嘘のように、地表は熱を放出し、男の体温を奪っていく。漆黒の闇の中で、巨大なサイネージはもはや神々しいまでの光を放つ聖域のようだった。男は、凍えるような寒さから逃れるために、スクリーンの表面に背中を預けた。LEDが発する微かな熱が、男の体温を辛うじて維持してくれた。皮肉なことに、男を苛立たせる文明の残骸が、男の命を繋いでいた。夜の放送枠は、少しだけトーンが変わった。高級腕時計のCMが、静寂の中で秒針の音を「カチ、カチ」と静かに、しかし強調して響かせる。








「……時間の無駄だな。ここでは秒針なんて、砂が落ちる音と同じだ…」







男は自嘲気味に呟いた。ここでは時間は意味をなさない。ただ、太陽が昇り、沈み、そしてこのスクリーンが発光する。それだけの繰り返し。ふと、男は気づいた。このスクリーンは、自分を助けるために現れたのではないか、という狂気じみた考えに。もしこの光がなければ、自分はとっくに闇に飲み込まれ、己の鼓動の音だけに怯えながら息絶えていただろう。しかし、直後に流れた「最高級羽毛布団」のCMが、その淡い期待を粉砕した。








『――雲の上で眠るような、究極の安らぎをあなたに。明日への活力を、深い眠りから!』








男が座っているのは、鋭い小石の混じった硬い砂の上だ。安らぎなどどこにもない。







「……消えろ。もういい、頼む消えてくれ。眠らせてくれ!」







男は目を閉じたが、1万ニトを超える強烈な光は、まぶたを透過して脳を直接刺激する。情報の洪水は、死ぬ直前の安息さえも許さない。遭難者は、豪華な客船のディナーのCMをBGMに、震えながら夜を明かした。夢の中でも、男は商品のキャッチコピーをリピートしていた。









第五章:消費の残骸 ―― 意味を失った言葉







三日目の朝、男の視力は衰え、スクリーンの文字は輪郭を失ってぼやけて見えた。しかし、音だけは明瞭に、というよりは暴力的なまでの音圧で脳に直接送り込まれてきた。







『――あなたの肌に、革新の潤いを。天然由来の保湿成分が、角質層の深部まで浸透します。もう、乾きを知らない私へ…』








男は、自分の腕を触ってみた。それはもはや人間の皮膚ではなく、古い紙屑のように乾き、触れるだけでボロボロと白い粉となって崩れそうだった。







「潤い……か。面白い冗談だ。角質層に浸透する前に、俺の血液が全部砂に吸われてるよ…」







男はもはや怒る気力さえ失いつつあった。代わりに、ある種の悟りが男を包んだ。このスクリーンは、人類の文明の「抜け殻」なのだと。中身を失い、ただ「消費を促す」という機能だけが自動的に回り続けている。誰もいない砂漠で、買う者もいない場所で、広告はただその役割を全うしている。神がいなくなった世界で、最後に残ったのは、救済の祈りではなく、商品のカタログだった。







「俺も、これと同じだな。役割を失ったゴミだ…」








自分という存在に、何の意味があるのか。誰かに何かを伝えることもできず、ただここに存在している。男は、画面の中で美しくレタッチされた果実が弾ける映像を見ながら、空腹と渇きを超越した虚無感に浸った。言葉は意味を失い、ただの音波の塊へと退化した。映像はただの色面の明滅に変わる。世界が、ドットの集合体へと分解されていくのを、男はただぼんやりと眺めていた。










第六章:CMの救済 ―― 苛立ちという名の生命







昼時、再びあの「ビールのCM」が流れた。男はもはやそれを不快とは思わなかった。むしろ、そのジョッキが映し出されるのを、まるで恋人を待つかのように心待ちにしている自分に驚いた。







「くるぞ……、ラベルのロゴがアップになって……泡のシーンだ…」







男は、画面の中の音が「 Ahhh! 」と発せられるタイミングに合わせて、自分も一緒に声を出すようになった。喉の痛みは、声を発することで一時的に忘れられた。苛立ちは、いつしか「期待」に変わっていた。次に流れるのは自動車か、それとも洗剤か、あるいは英会話教室か。男は、広告のルーティンを完璧に記憶していた。このスクリーンのタイムテーブルこそが、男の世界の唯一の法則だった。







「……次は、海外旅行のCMだな。ハワイか、それともモルディブか…」







予想通り、エメラルドグリーンの海が画面いっぱいに広がった。男はその海に飛び込む自分を想像した。不思議なことに、その想像はあまりに鮮明で、一瞬だけ肌に水の冷たさを感じた。情報の暴力は、いつしか「共感」へと変貌していた。広告は、男に「偽りの記憶」を与えていた。死にゆく遭難者にとって、情報のゴミ溜めは、唯一の脱出口となったのだ。







もしこのCMが止まってしまったら、自分はただの砂粒に戻ってしまう。苛立ちこそが、男を「人間」として繋ぎ止める最後の神経パルスだった。男はスクリーンの光を浴びながら、もはや自分が砂漠にいるのか、それとも巨大なテレビ受像機の中に閉じ込められた電子の一部なのか、その判別がつかなくなっていた。男は笑顔で、画面の中の家族に向かって手を振った。









第七章:放送終了 ―― 沈黙へのフェードアウト







夕暮れ。空が紫色に染まり、スクリーンの光がさらに強まったとき、ついに異変が起きた。







『――お買い求めは……今すぐ……店……で……』








完璧だった4Kの画像が、デジタル特有のブロックノイズに崩れた。音声が不自然に引き延ばされ、まるで断末魔の叫びのように低く響く。男は、反射的に立ち上がろうとした。しかし、足に力が入らない。








「おい……どうした? しっかりしろ! 宣伝を続けろ!」







彼は、あんなに忌み嫌っていたスクリーンを、両手で必死に支えようとした。それは熱を持ち、微かに震えていた。まるで命の灯火が消えゆくのを恐れる、生身の人間のように。画面が一度暗転し、砂嵐のようなノイズが一瞬走った後、白いゴシック体の一行だけが浮かび上がった。








『――本日の番組は、すべて終了しました。ご視聴ありがとうございました…』








そして、砂漠に訪れたのは、これまでの喧騒を嘲笑うかのような、暴力的なまでの「真の静寂」だった。スクリーンの輝きが消え去り、そこにはただの、黒い巨大な板が立っているだけだった。男は、漆黒の闇の中に放り出された。







「待ってくれ……。まだ、柔軟剤の話を聞いていない……。あのビールの喉越しを、もう一度見せてくれ……! 誰でもいい、広告でいいから、喋ってくれ!」







彼は、漆黒の板に縋り付き、慟哭した。光が消えたことで、男は自分が一人きりであることを、そしてもうすぐ死ぬことを、逃れようのない現実として突きつけられた。情報のノイズは、残酷な優しさだったのだ。男はその夜、真っ暗なスクリーンの前で、冷たくなった砂に横たわった。







翌朝、猛烈な砂嵐が吹き荒れた後、そこには何も残っていなかった。巨大なサイネージも、一人の遭難者の痕跡も。ただ、灰色の砂漠が、何もなかったかのように地平線まで続いていた。







遠くで、風の音が時折、ビールのジョッキが触れ合うような音に聞こえたが、それはすぐに、終わりなき砂のざわめきにかき消されていった。世界は沈黙し、広告だけが消えたあとも、砂漠は何も買わず、何も望まず、ただそこにあり続けた…

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