光を繋ぐ舟
ねこあし
第1話 永遠に途絶えぬ光
東雲澪の生は、降り注ぐ光そのものとして始まった。
父の名は篤人、母の名は遥。彼らは、現代日本の都市の一角に、奇跡のように完璧な愛の箱庭を築いていた。澪がその世界に誕生した零歳の日、遥の眼差しは、言葉にできないほど豊かで温かな色彩に満ちていた。それは、この世のすべての悪意や欠落を遠ざける、聖域の如き光であった。
遥は、澪に触れるとき、常に微笑みを湛えていた。その手は柔和でありながら確固たる意志を持ち、幼き澪の皮膚を通して、世界の安全を保証する無償の愛を伝えてきた。澪にとって、遥の存在は、夜の闇が明ける前に必ず訪れる東雲(しののめ)の光であり、その愛は、如何なる嵐にも沈まぬ永遠の錨であった。
しかし、その幸福な光景を、澪は後に回想という名の孤独な舟の上で、幾度となく見つめ直すこととなる。なぜなら、そのあまりに完成された愛の箱庭こそが、後に澪が直面する現実の冷たさ、そして自らの犯す「後悔」の淵を、より深く、より暗いものとして際立たせる、残酷な比較対象となったからである。
「澪、お前はどこまでも遠くへ行く子だよ」
父・篤人が、まだ言葉を持たぬ澪の小さな指を握り、囁いた。篤人は、その温厚で誠実な人柄が、そのまま職業に反映されているような、地元の図書館司書であった。彼は知識と物語を愛し、家の中には常に、紙とインクの静かで甘やかな匂いが漂っていた。澪にとって、父の腕は世界で最も安全な場所であり、その声は、世界を構成する物語の導入であった。
澪は、他の子供たちが持つ、自己の確立に伴う初期の反抗期をほとんど知らずに育った。両親の愛は、彼女の感受性を研ぎ澄まし、世界を美しいものとして捉える視力を与えた。彼女は公園の木漏れ日、雨上がりの土の匂い、そして母が歌う古い子守唄の旋律の中に、言葉以前の深い感動を見出すことができた。
六歳になり、小学校へ入学する頃、澪は既に、周囲の環境や人間の感情の機微を、大人顔負けの鋭敏さで察知する子供になっていた。教室の片隅で泣いている子の孤独、教師の隠された疲労、誰もが見て見ぬふりをする小さな不均衡――それらすべてが、彼女の純粋な心に、世界は光と闇でできているという最初の認識を植え付けた。
この頃、澪の人生に、神崎啓太という名の少年が深く関与し始める。
啓太は、澪とは対照的な存在であった。彼は常に太陽のような笑顔を湛え、難しいことを考える前に身体が動く、明るく屈託のない性格であった。啓太の家庭は、東雲家のような静謐な調和とは異なり、どこか雑然としており、時折、大きな笑い声や、激しい口論の音さえ漏れ聞こえた。
小学校の裏庭の、秘密の遊び場。朽ちかけたブランコの下で、澪は啓太と時間を共有した。
「東雲んちは、いつも静かでいいな」
啓太はそう言いながら、泥だらけになった自分の膝を気にすることもなかった。
「静か、だけじゃないよ。温かいの」
澪が言うと、啓太は不思議そうな顔をした後、すぐに笑い飛ばした。
「知ってるよ。東雲のお母さん、俺にもお菓子くれるし。でもさ、俺んとこも賑やかで、それはそれで悪くないんだ」
啓太の言葉は、澪の頭の中に、「愛の形は一つではない」という新たな概念の種を蒔いた。東雲家の愛が、大切に磨き上げられたクリスタルのように透明で壊れやすいものだとしたら、啓太の家の愛は、大地に根を張り、少々の風雨では揺るがない大木のようなものであった。この違いこそが、後に二人の間に、取り返しのつかないほどの決定的な影を落とすことになる。
中学に進学する頃、澪と啓太は、友情と初恋の境界線上で揺れ動く微妙な関係となっていた。周囲の生徒たちは、完璧でどこか浮世離れした美しさを持つ澪と、スポーツ万能で社交的な啓太を、誰もが認めるカップルとして扱った。
だが、澪は、啓太との関係に、母・遥が示した「無償の愛」という理想を重ね合わせようとすることで、知らず知らずのうちに啓太に重い負担をかけていた。彼女は、啓太に自分と同じ深さの感受性を求め、彼の些細な行動の中に、遥が彼女に送ったような「永遠の保証」を探そうとした。
ある日の夕暮れ。川沿いの土手で、二人は将来について語り合った。
「俺はさ、将来、誰かの役に立つ仕事がしたいな。消防士とか、医者とか」
啓太が眩しそうに遠くを見つめながら言った。その視線は、未来へのまっすぐな希望に満ちていた。
「誰かの役に立つこと、それは素晴らしいことね。でも、啓太。私にとって、あなたが誰かの役に立つことよりも、私にとってあなたが『全て』であることの方が大切よ」
澪は、自分の心に潜む、独占的な感情を隠さずに吐露した。それは、遥の愛を失うことへの、無意識の恐怖から生まれた言葉であった。
啓太は、その時、いつもの明るい笑顔を曇らせた。彼の表情は、一瞬にして、戸惑いと、そして微かな重圧を帯びた。
「澪……それはちょっと、重いよ」
彼が絞り出した言葉は、澪の耳には、彼女の愛の理想に対する最初の「裏切り」として響いた。彼女の目には、涙が滲んだ。この小さな亀裂が、やがて来るべき大きな破局の、最初の予兆であったことを、この時の二人は知る由もなかった。
やがて、物語は高校時代へと進む。
澪は、その美貌と知性で、学内でも一目置かれる存在となっていた。彼女は、完璧主義的なまでの努力で成績を維持し、誰からも非の打ち所のない「優等生」の仮面を被っていた。それは、彼女の内側に存在する、一度裏切られたと感じた愛への深い警戒心と、再び母のような完璧な愛を求め続ける渇望を隠すための鎧であった。
啓太との関係は、曖昧なまま継続していた。友情とも恋人とも断定できない、宙ぶらりんな状態。澪は啓太を愛していたが、同時に、彼の「重いよ」という言葉が、深い傷となって残り続けていた。
そんなある日、澪の人生、そして東雲家の光に、最初の深い影が差し込んだ。
母・遥が、原因不明の難病を患い、急に入院することになったのである。
突然の事態に、父・篤人は平静を装いながらも、その顔からはすべての色が失われていた。愛の箱庭の「錨」であった遥が、その場から引き剥がされた瞬間、澪の心は、幼少期に感じたことのない、根源的な喪失の恐怖に襲われた。
病院の白い廊下、消毒液の冷たい匂い、そして遥の衰弱していく姿。それらはすべて、「永遠に途絶えぬ光」という彼女の初期の認識を、激しく打ち砕いていった。
「澪、泣かないで。これは、あなたの成長のための試練よ」
病室で、遥は細い指で澪の頬に触れた。その声は弱々しいが、瞳の光だけは、以前と変わらぬ強さを持っていた。
しかし、澪は心の中で、強く反発した。
試練ではない。これは裏切りだ。完璧な愛は、なぜ病に侵されるのか。なぜ私たちを置いて行こうとするのか。
その独善的な、しかしあまりに純粋な感情は、遥の献身的な愛への感謝を通り越し、愛が崩壊する恐怖へと変質していた。
啓太は、彼女を支えようと努めた。毎日、病院帰りの澪を待ち、ただ黙って隣に座り続けた。
「俺にできることは、何でも言ってくれ」
啓太の言葉は、心からのものであった。しかし、澪は、あの日の「重いよ」という言葉を忘れられず、心から寄り添おうとする啓太を、逆に突き放すような態度を取ってしまう。
「何でもって言うけど、あなたは病気を治せるわけじゃないでしょう? あなたの優しさは、私にとって何の意味もないわ」
感情的だが、攻撃性は抑えた、冷たい言葉。澪の心の奥底に潜む、「愛への依存と拒絶」という矛盾した葛藤が、啓太に向けられた瞬間であった。
啓太は、言葉を失った。彼は、深い傷を負った眼差しで澪を見つめたが、何も言い返さなかった。そして、彼はその日以降、澪のそばから少しずつ、距離を置くようになっていった。
この時の別離は、「人生の浮き沈み」の最初の下降気流となった。澪は、母の病という外部の困難と、啓太を突き放したという自らの行動による「後悔」の種を同時に抱えることとなる。彼女の人生の舟は、ここで愛の港を離れ、荒波へと漕ぎ出していったのである。
やがて、母・遥の容態は急変し、最期の時を迎える。
遥が息を引き取る直前、彼女は澪の手を強く握り、小さな声でこう告げた。
「あなたは、大丈夫。どこまでも、光を、繋ぐ舟になるのよ」
その言葉は、澪の心に、深い愛の遺産として刻まれた。しかし、喪失の激しさは、その言葉の意味を完全に受け入れることを許さなかった。
遥の死後、父・篤人は、妻の死を受け入れられないまま、その心身を急速に蝕まれていった。彼は図書館の仕事を辞め、家の中に閉じこもるようになる。静謐で温かだった東雲家は、一転して、重い沈黙と、悲嘆に暮れた父の姿だけが残る、暗い場所に変わってしまった。
澪は、高校卒業を間近に控え、愛と光に満たされていた世界が、一瞬にして崩壊した現実に直面する。彼女は、「失われた愛を再生させる」という新たな目的を胸に、家を出る決意をする。
それは、父の絶望を置いていくという、さらなる後悔を背負う選択でもあった。
時を経て、澪は成長した。
社会に出た彼女は、その才能と容姿、そして幼少期に培われた鋭敏な感受性を武器に、ビジネスの世界で頭角を現していく。彼女は、愛の代わりに世俗的な成功を求めるようになった。愛が裏切るなら、力と富だけが自分を裏切らないと信じ込んだのだ。
そこで彼女が出会ったのが、成功の影を持つ協力者、日向隆司であった。
隆司は、IT系のベンチャー企業を経営する若き天才であった。冷徹で現実的な彼は、澪の才能を見抜くと同時に、彼女の心の奥に潜む愛への飢餓感をも見抜いた。
「東雲さん、君の眼は、何かを探している。それを満たすのは、世の中が言う『愛』じゃない。世界を動かす『力』だけだ」
隆司の言葉は、澪が心の奥で否定しきれずにいた、冷酷な現実を代弁していた。澪は、隆司の元で働くことを決意する。
隆司の指導のもと、澪は、まるで母の死と父の崩壊から逃れるかのように、仕事に没頭した。彼女の働きは、企業を急速に成長させ、わずか数年で、彼女は誰もが羨む地位と富を手に入れた。
しかし、その成功の絶頂期、澪は立ち止まる。
ある夜、高級マンションの窓から、煌めく都市の夜景を見下ろしながら、彼女は唐突に、啓太のことを思い出した。そして、病室で自分に全てを託した母の、最期の言葉を。
あなたは、大丈夫。どこまでも、光を、繋ぐ舟になるのよ。
成功は、彼女に何をもたらしたか。力と富は、彼女を本当に満たしたのか。
彼女の心に残っていたのは、啓太に向けた冷たい言葉と、孤独な父を置き去りにした深い後悔だけであった。
その夜、成功の光が最も眩しい時、澪は自らの舟が、光を繋ぐどころか、愛の港から完全に離れてしまったことに気づき、激しい孤独に襲われる。
彼女は、すべてを捨てて、自らの後悔の根源を探る旅に出ることを決意した。それは、隆司という成功の象徴からの逃走であり、自らの「人生の浮き沈み」の、第二幕の始まりであった。
そして、その決意が固まった、ある嵐の日の朝。
マンションのドアを叩く音があった。ドアを開けると、そこには、数年ぶりに再会する人物が、信じがたい報せを携えて立っていた。
「東雲さん、お父さんのことですが…」
それは、澪が置き去りにした父・篤人と、かつての親友・神崎啓太、そして澪自身の過去が、冷酷な現実として再び彼女に襲いかかる、決定的な瞬間であった。
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光を繋ぐ舟 ねこあし @nekoasi2025
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