綴りかけの日記と、春の陽だまり

@SatoIsuzu

第1話 橋の上の少女と青年

「コーラやビスケット、いかがですか」

 緩やかなアーチを描く橋の上で、一人の少女が道行く人に声をかけていた。早朝の曇り空を背に、ある人はうつむいて、ある人は忙しなく少女の前を通り過ぎていった。軍服の女性のポスターが橋の上に落ち、乾いた音を立てて風に揺れていた。ありふれた作業着を着た一人の青年もその橋を渡っていった。青年はポスターから無意識に目を逸らした。


 日が暮れた頃、青年は再びその場を通りかかった。青年は橋向こうの町で食肉加工に従事していた。何も買わずに通り過ぎようとしたその時、少女の呼びかけの声がとぎれ、大きくふらつくのに気がついた。青年がとっさに少女を支えた時、腕から伝わる燃えるような体温に驚いた。

「おい、大丈夫か?」

 少女は青年の腕に頭を預けるように丸くなった。意識がはっきりとしていない。呼吸が荒く、肩で息をしていた。

「落ち着いたら、家に帰って休んだほうがいい」

 少女は顔を上げて、まだ焦点の定まりきらない目でうなずき、青年の腕を押す形で体勢を整えた。

 青年から離れて歩き出そうとした少女は、数歩歩いてその場に倒れ込んだ。手にしていたカゴから売り物がこぼれ落ち、バラバラとふたりの足元に散らばった。


 この国で保険に入る人はわずかだ。その身長なら、まだ初等学校の年齢だろう。この幼さで働いていたことを考えると、病院に連れていけばかえってこの子の家族の迷惑になる可能性が高い。だからといって自分の家に連れて行くのは良くない。社会的にも問題になりかねないし、何よりこの子を怖がらせるだろう。職場関係の施設はもう施錠されている。同じ町に住む叔母のことが頭をよぎる。いや、もし万一、人にうつる病気だったらどうするのだ。

 色々と考えて結局、少女を自分の家に連れて帰ることにした。

 風呂もキッチンもない、古い空気の染み付いた三畳ほどの部屋。客人が来たことは一度もない。ロンは棚にあった洗濯済みのブランケットを、ちょうどよかったと手に取った。布団からシーツを剥ぎ、ブランケットに挟み込むようにして少女を寝かせた。ロンのほうは部屋の端で壁にもたれ、座って眠りにおちた。


 翌朝、少女の顔をのぞき込んだロンは、顔色が戻ってきていることを確認し、安堵の息を吐いた。少女の額にそっと手をかざす。熱も下がっているようだ。ロンは自らの腕を回して固まった体をほぐし、仕事着に着替えた。数度声をかけ肩を軽く揺すってみたが、少女は目を覚まさなかった。体力がまだ回復しきっていないのか。

 逡巡の末、書き置きをして家を出ることにした。小銭と紙幣、それから手帳をかばんに押し込んだ。


 職場までの四十分ほどの道のりを歩きながら考える。もしあの少女ときちんと会話できないまま、あの子の体調が悪化してしまったらどうしようか。一度手を差し伸べたのだから、彼女の生存に一切の責任がないとはいえないだろう。もしかしたら元気になってもうロンの家をあとにしているかもしれない。本当に困ったら、やはり叔母に相談するか。軍を辞めてからの生活の中で、唯一の親族である叔母の存在が頭をよぎることはあれど、本気で頼ろうとは考えたこともなかった。

 橋の上でよく物を売っている少女。姿を見た回数は職場の同僚に次いで多いが、言葉をかわしたことはない。あの歳で働かなくてはならないなんて大変だなと思いながら、彼女から物を購入したことはなかった。

 

 考え事をしていたので、職場に行くまでの道のりはあっという間に感じられた。

 仕事を終え家に帰ると、少女はすやすやと寝息を立てていた。日は完全に沈んでいた。明日の朝になったら起こして家に帰そう。ロンは手帳に数行の記録をし、穏やかな気持ちで眠りについた。

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