グルーヴィ

 久美子が声をかけて集めた人々は、静かな行列のように事務所へ入ってきた。重たいドアが押されるたび、蝶番が深い井戸の底から響くように鳴く。その音が、眠りの縁にいた俺の意識を、ゆっくりと引き戻した。ソファで横になっていた俺は、誰かの気配に肩を押されるようにして目を覚ました。天井の染みが、昨日よりほんの少しだけ違って見える。

「マイクさん、お寝坊ですね」

「お久しぶりですー」

「マイクさん、おはようございます」

朝とも夢の続きともつかない、曖昧な時間だった。ひとりひとりの顔を順に見ていくうちに、今日が俺の誕生日だということを思い出す。忘れていたわけじゃない。ただ、思い出す必要がなかっただけだ。久美子が、心の処方を終えた者たちに、そっと声をかけてくれたのだろう。呼ばれたことで、彼女たちの目には小さな誇りが宿っていた。

「何人に声かけたんだよ。アイドルのオフ会でも開く気か。勘弁してくれっての」

「二十三人です」

「おぇー!?」

机の上に並んでいく料理や菓子は、やわらかい記憶の香りを運んできて、胸の奥に静かな重みを残した。誰かが笑い、誰かが皿を譲る。その小さな動きが、事務所の空気を丸くしていく。


「マイクさん、タバコは奥の換気扇の下でお願いしますね。煙が、みなさんに流れてしまいますから」

壁に触れた笑い声が、ゆっくりと反射して戻ってくる。人が集まる光景を、俺はいつからか、意識して避けるようになっていた。萬屋という名前のせいか、理由を言葉にできない連中ほど、この事務所に集まってくる。

「俺のぼやきが、ちょっとは効いたってわけか。ま、世の中も捨てたもんじゃないねぇ」

久美子は、掌をそっと合わせるようにして言った。

「もしよろしければ、皆さんがいつでも連絡を取れるように、ひとつ、グループを作りませんか」

「いいですね」

「賛成です」

「俺は面倒だから入れんなよ」

「マイクさんも入ってください」

「わたくしが入れておきます」

「美波さん、お願いしますわ」

「はい。こちらがQRコードです。どうぞ」

ノンアルコールのボトルが開く音が、小さく、それでいて遠くまで響く鐘のように鳴った。パーティーは、騒がしくならない祝祭として、静かに続いていく。


 そのとき、電話が鳴った。

「すみません。うちの子が、いなくなってしまいました」

上品さを保とうとする声が、深い不安で揺れていた。室内で放していた犬が、ほんの一瞬、目を離した隙に姿を消したという。うちの子というその言葉には、飼い主の心の形そのものが埋め込まれていた。胸の奥が、きゅっと締めつけられる。こういう依頼には、どうにも弱い。

「よし、分かった。すぐ行く」

俺はカップを置き、立ち上がった。

「ちょいと、タバコ買ってくる」

「気をつけて、いってらっしゃい」

俺には、内緒で連絡がつく町のグループがある。八百屋の店先。煙草屋の縁台。黄色いベストのおじいさん。公園のベンチで新聞を折りたたむ人。皆、日常の顔をしながら、俺の気配にだけ、そっと目を上げる。俺が動けば、年季の入った顔ぶれが静かに反応する。情報は風のように巡り、町全体が、ゆっくりと動き出す。

ほどなくして、公園の隅に小さな犬がいた。ベンチの横で、おじいさんの手からご飯をもらい、もぐもぐと口を動かしている。

「来たね」

その声は、やわらかかった。俺は後ろから静かに歩み寄り、頭を下げる。

「爺さん、助かったよ。相変わらず、あんたは町の守り神だ」

今日の件は、これで終わりだ。町は、ちゃんと動いてくれる。それが、俺が探偵として生きていられる理由であり、誰にも言わない秘密でもある。犬は動物病院に預け、依頼主に連絡を入れた。依頼だからな。俺は事務所へ戻る。

「ただいま」

扉を閉めた瞬間、空気の粒が、俺の肩を迎えたように感じた。


 すると、唐突に声が飛ぶ。

「マイクさん、久美子さんと付き合ってるんですか」

「あぁ? なんで俺が、女と付き合わなきゃならねぇんだ」

「えっ、じゃあマイクさん、ゲイなんですか」

菜名が手を挙げ、儀式めいた慎重さで告げた。

「実は、マイクさん、女性なんです」

「ええー?」

「うそだ」

「絶対うそです」

菜名は、記憶をたどるように続ける。

「ある事件でケガをして、退院の日に迎えに行ったら、女性病棟にいたんです」

空気がひとつにまとまり、弾けた。

「ええーっ!」

俺は肩をすくめる。

「いやいや、見りゃ分かるだろ。どう見たって女だよ、俺は」

だが、声はひとつに揃った。

「男です!!」

その響き方は、奇跡みたいに美しかった。久美子が拍子を取るように、優雅に手を打つ。

「はいはい、はいはい」

「じゃあ、久美子さんは知ってたんですか」

「もちろんです」

涼しい顔で、付け加える。

「ちなみに、今日の会費は、マイクさんのポケットマネーから出しました」

「ちょっと待てよ。俺、金なんか出してねぇぞ」

「金庫には、三万円ほど入っていました」

「おいおい、少なっ。俺のタバコ代、どこ行ったんだよ。で、暗証番号は」

「ジャガーのナンバーでしたから、あっさりと」

事務所に、また柔らかな笑いが広がる。俺は、ふと視線を横に投げた。

「充希」

名を呼ばれ、充希が背筋を伸ばす。

「VOLVO、どうだ」

「いいです」

「運転は」

「慣れてきました。毎日、乗っています」

「そうか。また、オイル交換の時にでも、ディーラーに行くか」

「お願いします」

「ほら、みんな、食っとけ食っとけ。で、来年は来んなよ」

俺は、ひとりひとりの笑顔を、目の奥にしまった。消えない灯のように。

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浦和探偵事務所帖 ぱぁとちゅ♡ 萬屋マイク 揚羽(ageha) @ageha-detective

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